2015年 04月 11日
人間は行動した後に考える。 |
人間は行動した後に考える。
つまり
しでかした後に
気づくのです。
でもそれは当然のことなのですよ。
なぜなら
人間は先に無意識の行動があり
その0,5秒後に
自分の行動に気づくのですから。
だからこそ
その行動した後に
自分が気づくこと考えることが
とても大切なのです。
そしてその気づいたこと
考えたことが
次の行動へと繋がっていきます。
だから私は養老さんのように
考えるな
捜すなとは
言わない。
むしろ
考えなさい、探しなさいと
言います。
しかし
その時
ぐちゃぐちゃと
自分の行動を
検閲したり
後悔したり
反省しては
いけません。
なぜならそれは
自分の感情を付着させて
自分をいじくっているからに
すぎないからです。
そういう検閲とか後悔とか
反省の感情の裏には必ず
不安とか恐れという
マイナスの引力が
働いているからです。
そうではなく
そのまま
あゝそうか
と受け入れればいいのです。
さらに
賢い人は
自分の<現在>はこういう状態であると
理解すればいいのです。
理解してそれでよし!
と
自分に承認を与える。
そしてもし
やっちまったなあ~と
思えば
そこを改め
修正して
次へとつなげるだけでいいのです。
つまり
極力
感情に関わらせないで
思いついたことを
そのまま
あたまの中を通過させていく。
感情がからまると
それは
どんどん意識化して
あたまの中を
ぐるぐると巡ってしまいます。
そうなるともう
体も連動し始め
自分が不安定になるばかりです。
感情はエネルギーのタンクですから
そこが
マイナスに刺激されると
どんどんマイナス志向のスパイラルに
入っていきます。
つまりそれは
養老さんも書いておられるように
<今の自分>≒ベクトルなのですから。
つまり方向性をもったエネルギーですからね。
その方向がマイナスに向かうと
どんどんマイナス志向へと
陥ってしまのです。
だからこそ
そのベクトルを
さっと
次へと向ける。
そのためには
感情をできるだけ
シッーと
追い払うことです。
どうしも
感情的になる人は
ぜひ
朝の祈りをやってください。
それは
「神様、どうぞ私の中から感情を取り除いてください!」と
ノートに書くのです。
そのとき
「私の中の感情を取り除く」とか
「取り除こう!」とかいうのでは
だめです。
なぜなら
そういう言葉は
自分の自我でどうにかしようとする言葉ですから
自分の中で
自分の自我との葛藤やストレスが起きてしまうのです。
だから
自分を超越した、
神様や大いなるものや
おてんとうさまや
仏さでまもいいです。
とにかく
自分以外の
ところに
放り投げてしまうのです。
そして安心して
その日一日を
生きる。
それをコツコツやってください。
そういう努力なしで
感情はとれませんよ。
人間がどうして
神や仏や宗教を
考え出したかというと
それは
脳の中のストレスを取り除くためには
自分以外の人間や
外部、すなわち客観的な存在から
自分が承認される(愛される)ことで
自分が
救われるからです。
だから他者や神様や仏様という
自分以外のなにかに
ゆだねることで
ほっと
自分の縛りから解放されるのです。
つまり
仮想的他者との間で
自分が
成立し承認されることで
ホッとする。
その時
他者でもいいのですが
たとえば
カウンセラーから
「それでいいですよ!」と承認されても
いいのですが
自分の力をはるかに超えた
さらに
人間の能力を超越している
神様や仏様や大いなる者やおてとうさまに
お願いし
ゆだねたほうが
はるかに
解放感と希望がもてます。
おかしいでしょ、
どうして
そういうものにゆだねたら
ほっとし
解放感や
希望がわくのか・・・?
一つには
そういう人間≒自分の力の限界に気づき
諦めることで
自分の自我のストレスが取れること。
二つ目には
諦めて、ストレスから解放された時こそ
脳の回転が良くなる。
ストレスがなくなると、
人間は常に可能性のほうへと
ベクトルをむけるのです。
つまり人間は無意識の裡に
次は
明日こそは
と
考えているものなのです。
三つ目は
意識というのは
自分の自我の解釈の中を
ああだ、こうだと
ぐるぐると堂々巡りをして
(八の字型に並列電流が流れる)
脳の中にストレスを起こすが
無意識は
スーッと頭の中を直流に電流が流れていき
その間に(その瞬間に)
ちゃんと
自分にとって大切なものが取捨されて
記憶されていくのですから
つまり
神様や仏様や大いなる者に任せるとは
後は
自分の無意識に
まかせたよ!
っということでも
あるのです。
そして
無意識のうちに未来を
生きようと
するのです。
さらに
神様や仏様も
人間が考え出したものですから
ということは
人間は
そういうものも
ちゃんと頭と体の中に
持っていると
いうことです。
そういう
まっとうな筋道を
獲得していると
いうことです。
どうして
頭だけではなく
体も
というと
体と頭は連動していて
人間は
その
総体で生きているからです。
おそらく養老さんは
自分の体の中が
奇跡的に
変化した…ということを
体験していないから
あゝいうこと
書いたのではないかと
思います。
私は
自分の頭の中の
思い込みと
感情を
お掃除することで
体も奇跡的に変化したことを
体験しました。
それは
気づくこと
さらに
諦めること≒手放すこと
による変化です。
人間は
生まれるところを選ぶわけにはいきません。
自分が生まれ落ちたところの
・人間関係
・文化
・環境
によって
自分の記憶と内容が規定されていきます。
つまり
親および周囲の人間関係と環境文化の中で
自分のソフト(内容・思い込み)が
できるのです。
しかし
人間は本来
生きるための命のソフトとベクトルを
持っています。
そのベクトルがへし折られたり
ブレーキを掛けられたりするたびに
本来の自分と
それに対立する
<他者の自我を投影したもの>が
自分の中できしみます。
つまり
自分の頭の中に介入している他者、
親やその周辺の人間の言葉が
ああしろ
こうしろ
ああしてはいけない
こうあるべきだと
騒いで
本来の自分をかき乱すのです。
つまり
自我が作り出す思い込みと感情と
自分本来の感情とが
対立しストレスを
おこしてしまう。
さらに恐れや怯えや不安に敏感に反応する
本能的な脳と体の神経ホルモン体系が
連動してしまい
それはそれなりに
命を保全しようとして
かってにというか
自立的に
働いてしまいます。
だから体はいくら
頭の前頭葉が言葉で言って聞かせても
自分の思うように
なってくれないのです。
それに
前頭葉より
辺縁系の脳(ワニとネズミの脳)の方が
強いし
前頭葉にことの次第が
行き着く前に
辺縁系が興奮しだすともう
前頭葉は不全になってしまい
感情的にしか
考えられるなってしまいます。
だから辺縁系の脳(ワニとネズミの脳)の
興奮が収まると
やっと理性が働き出すのです。
だから感情的な人は
しでかした後で
後悔するのですね。
本来の自分はおそらく
<無>であると
私は思っています。
仏教でいう<空>かもしれません。
つまり
本来の自分は
ただひたすらに
生きようとする
清らかに流れる水のごとしであると
私は思います。
つまり
自分の中で
起きるストレスを
いじくらず
大いなるものに
ゆだね
放り出す!
頭の中を常も
空っぽにして
素直に素直に
生きることです。
だから
運を天に任せ
のほほん・のほほん
という
心境になると
人間は
安心するのです。
人間は行動したあと
感情に囚われず
あっさりと
考えることができれば
そこには
どんどん知恵が生まれます。
だから行動することも
とても大切なのです。
そして
その後は
自分を信頼して
流れの中に任すことです。
そしてそこで何かおきたら
考えればいいと
思います。

人は皆、しでかすもので
そういうものなんだね!

●<告知>
このたび本を書きました。
「拝啓宮沢賢治さま」不安の中のあなたへ
田下啓子(denshinbashira)著
(彩流社 1800円+税)


表紙及びイラストは
岡田愛さんという
うら若き女性の
パステル画家さんにお願いしました。
裏表紙の花は
賢治が大好きな
マグノリアの花です。
宮沢賢治も
最後は
「空はれわたる!」という
自立を果たしたと
思います。
どうぞ
皆さま
賢治が
・ほんとうはどういう人間であったか
そして彼は
・なにを勘違いし
・なにと
・戦ったか
を
読みとっていただければと
思います。

つまり
しでかした後に
気づくのです。
でもそれは当然のことなのですよ。
なぜなら
人間は先に無意識の行動があり
その0,5秒後に
自分の行動に気づくのですから。
だからこそ
その行動した後に
自分が気づくこと考えることが
とても大切なのです。
そしてその気づいたこと
考えたことが
次の行動へと繋がっていきます。
だから私は養老さんのように
考えるな
捜すなとは
言わない。
むしろ
考えなさい、探しなさいと
言います。
しかし
その時
ぐちゃぐちゃと
自分の行動を
検閲したり
後悔したり
反省しては
いけません。
なぜならそれは
自分の感情を付着させて
自分をいじくっているからに
すぎないからです。
そういう検閲とか後悔とか
反省の感情の裏には必ず
不安とか恐れという
マイナスの引力が
働いているからです。
そうではなく
そのまま
あゝそうか
と受け入れればいいのです。
さらに
賢い人は
自分の<現在>はこういう状態であると
理解すればいいのです。
理解してそれでよし!
と
自分に承認を与える。
そしてもし
やっちまったなあ~と
思えば
そこを改め
修正して
次へとつなげるだけでいいのです。
つまり
極力
感情に関わらせないで
思いついたことを
そのまま
あたまの中を通過させていく。
感情がからまると
それは
どんどん意識化して
あたまの中を
ぐるぐると巡ってしまいます。
そうなるともう
体も連動し始め
自分が不安定になるばかりです。
感情はエネルギーのタンクですから
そこが
マイナスに刺激されると
どんどんマイナス志向のスパイラルに
入っていきます。
つまりそれは
養老さんも書いておられるように
<今の自分>≒ベクトルなのですから。
つまり方向性をもったエネルギーですからね。
その方向がマイナスに向かうと
どんどんマイナス志向へと
陥ってしまのです。
だからこそ
そのベクトルを
さっと
次へと向ける。
そのためには
感情をできるだけ
シッーと
追い払うことです。
どうしも
感情的になる人は
ぜひ
朝の祈りをやってください。
それは
「神様、どうぞ私の中から感情を取り除いてください!」と
ノートに書くのです。
そのとき
「私の中の感情を取り除く」とか
「取り除こう!」とかいうのでは
だめです。
なぜなら
そういう言葉は
自分の自我でどうにかしようとする言葉ですから
自分の中で
自分の自我との葛藤やストレスが起きてしまうのです。
だから
自分を超越した、
神様や大いなるものや
おてんとうさまや
仏さでまもいいです。
とにかく
自分以外の
ところに
放り投げてしまうのです。
そして安心して
その日一日を
生きる。
それをコツコツやってください。
そういう努力なしで
感情はとれませんよ。
人間がどうして
神や仏や宗教を
考え出したかというと
それは
脳の中のストレスを取り除くためには
自分以外の人間や
外部、すなわち客観的な存在から
自分が承認される(愛される)ことで
自分が
救われるからです。
だから他者や神様や仏様という
自分以外のなにかに
ゆだねることで
ほっと
自分の縛りから解放されるのです。
つまり
仮想的他者との間で
自分が
成立し承認されることで
ホッとする。
その時
他者でもいいのですが
たとえば
カウンセラーから
「それでいいですよ!」と承認されても
いいのですが
自分の力をはるかに超えた
さらに
人間の能力を超越している
神様や仏様や大いなる者やおてとうさまに
お願いし
ゆだねたほうが
はるかに
解放感と希望がもてます。
おかしいでしょ、
どうして
そういうものにゆだねたら
ほっとし
解放感や
希望がわくのか・・・?
一つには
そういう人間≒自分の力の限界に気づき
諦めることで
自分の自我のストレスが取れること。
二つ目には
諦めて、ストレスから解放された時こそ
脳の回転が良くなる。
ストレスがなくなると、
人間は常に可能性のほうへと
ベクトルをむけるのです。
つまり人間は無意識の裡に
次は
明日こそは
と
考えているものなのです。
三つ目は
意識というのは
自分の自我の解釈の中を
ああだ、こうだと
ぐるぐると堂々巡りをして
(八の字型に並列電流が流れる)
脳の中にストレスを起こすが
無意識は
スーッと頭の中を直流に電流が流れていき
その間に(その瞬間に)
ちゃんと
自分にとって大切なものが取捨されて
記憶されていくのですから
つまり
神様や仏様や大いなる者に任せるとは
後は
自分の無意識に
まかせたよ!
っということでも
あるのです。
そして
無意識のうちに未来を
生きようと
するのです。
さらに
神様や仏様も
人間が考え出したものですから
ということは
人間は
そういうものも
ちゃんと頭と体の中に
持っていると
いうことです。
そういう
まっとうな筋道を
獲得していると
いうことです。
どうして
頭だけではなく
体も
というと
体と頭は連動していて
人間は
その
総体で生きているからです。
おそらく養老さんは
自分の体の中が
奇跡的に
変化した…ということを
体験していないから
あゝいうこと
書いたのではないかと
思います。
私は
自分の頭の中の
思い込みと
感情を
お掃除することで
体も奇跡的に変化したことを
体験しました。
それは
気づくこと
さらに
諦めること≒手放すこと
による変化です。
人間は
生まれるところを選ぶわけにはいきません。
自分が生まれ落ちたところの
・人間関係
・文化
・環境
によって
自分の記憶と内容が規定されていきます。
つまり
親および周囲の人間関係と環境文化の中で
自分のソフト(内容・思い込み)が
できるのです。
しかし
人間は本来
生きるための命のソフトとベクトルを
持っています。
そのベクトルがへし折られたり
ブレーキを掛けられたりするたびに
本来の自分と
それに対立する
<他者の自我を投影したもの>が
自分の中できしみます。
つまり
自分の頭の中に介入している他者、
親やその周辺の人間の言葉が
ああしろ
こうしろ
ああしてはいけない
こうあるべきだと
騒いで
本来の自分をかき乱すのです。
つまり
自我が作り出す思い込みと感情と
自分本来の感情とが
対立しストレスを
おこしてしまう。
さらに恐れや怯えや不安に敏感に反応する
本能的な脳と体の神経ホルモン体系が
連動してしまい
それはそれなりに
命を保全しようとして
かってにというか
自立的に
働いてしまいます。
だから体はいくら
頭の前頭葉が言葉で言って聞かせても
自分の思うように
なってくれないのです。
それに
前頭葉より
辺縁系の脳(ワニとネズミの脳)の方が
強いし
前頭葉にことの次第が
行き着く前に
辺縁系が興奮しだすともう
前頭葉は不全になってしまい
感情的にしか
考えられるなってしまいます。
だから辺縁系の脳(ワニとネズミの脳)の
興奮が収まると
やっと理性が働き出すのです。
だから感情的な人は
しでかした後で
後悔するのですね。
本来の自分はおそらく
<無>であると
私は思っています。
仏教でいう<空>かもしれません。
つまり
本来の自分は
ただひたすらに
生きようとする
清らかに流れる水のごとしであると
私は思います。
つまり
自分の中で
起きるストレスを
いじくらず
大いなるものに
ゆだね
放り出す!
頭の中を常も
空っぽにして
素直に素直に
生きることです。
だから
運を天に任せ
のほほん・のほほん
という
心境になると
人間は
安心するのです。
人間は行動したあと
感情に囚われず
あっさりと
考えることができれば
そこには
どんどん知恵が生まれます。
だから行動することも
とても大切なのです。
そして
その後は
自分を信頼して
流れの中に任すことです。
そしてそこで何かおきたら
考えればいいと
思います。

そういうものなんだね!
●<告知>
このたび本を書きました。
「拝啓宮沢賢治さま」不安の中のあなたへ
田下啓子(denshinbashira)著
(彩流社 1800円+税)


岡田愛さんという
うら若き女性の
パステル画家さんにお願いしました。
裏表紙の花は
賢治が大好きな
マグノリアの花です。
宮沢賢治も
最後は
「空はれわたる!」という
自立を果たしたと
思います。
どうぞ
皆さま
賢治が
・ほんとうはどういう人間であったか
そして彼は
・なにを勘違いし
・なにと
・戦ったか
を
読みとっていただければと
思います。
by denshinbashira
| 2015-04-11 07:48
| 夢から醒めるということ。
|
Comments(3)
ありがとうございます。
その通りだなぁと思って、とても救われましたし、その通りにやってみようーと思いました。
素直に、素直に、
のほほん、のほほん、と。
ありがとうございました。
その通りだなぁと思って、とても救われましたし、その通りにやってみようーと思いました。
素直に、素直に、
のほほん、のほほん、と。
ありがとうございました。
0
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
ビスコ様、こちらこそ!

