真艫の風 その1 |
歴史の中の大きな流れを分析しつつ
今、そしてこれから
この日本で何が起きてくるか
さらにそこに
私たちが気づかなければならないことはなにか
そして、
何を成すべきかを
書きたいと思いますが
あまりにテーマが大きすぎて
書けるかどうかなあ~とも
思います。が
とりあえず
取り組んでみようと思います。
一昨年の1月から1年半をかけて
私は村上浩康監督と能勢カメラマンにお願いし
自分の夫である<田下憲雄氏>を主軸にした映画を
創りました。
それは単なる思い出の記録ではなく
私自身の深い考察とそして
未来への希望とまた考えうる憂慮とを
何とかしてお伝えしたいと
考えたからです。
<田下憲雄氏>が実現しようした
「真艫な会社」というのは
単に理想を掲げただけではありません。
それは現代および未来にかけて
人間社会は
何が問われてくるか・・・ということへの答えとしても
その存在の仕方がありました。
世界の中での経済活動として
さらに
人間の生きるフィールドとして
企業はどうあらねばならないかと
いうことの答えです。
それは現代の社会においても
これから同様のことが
切実に問いかけられたくると思います、
いや、そこにこそ視線を置かねば
もう未来はどんどん失速してゆくと
私は
思います。
では
・何が問題であるか
・それは大きな歴史の流れの中で
ある必然において
現代があり
この国及び世界が連動していること。
そういうグローバルな視点から
眺め返しみることです;
それはあたかも
「オランダの少年」の寓話のごとく
土手にあいた小さな穴が
いずれはこの国を崩壊させかねない予兆として
あるということでもあります。
それでは
・今何がおきているか
そして
・わたしたちは何に気づき、
・なにをしなければならないかを
なるべくわかりやすく書いていこうと
思います。
題は「真艫の風」
映画と同じです。
真艫の風とは
大海を行く船が
まっすぐに進んで行くために
帆を掲げた船尾の艫に
まっすぐに吹く風のことを
言います。
船が傾かず
まっすぐに進む為に
私はたちは
どんな風をおこさなければならないか。
では
始めましょう。
始めにお断りしておきますが
私は社会学者でも歴史学者でもない
ただの
お婆さんです。
そのお婆さんが、
考えてきたことですから
すべては
雑駁にしか書けません。
また
デティールについても
大きくすっ飛ばして書いてゆきます。
でも
できるだけわかりやすく書きますので
その
ザーッと書くことを
お許しください。
私たち人間は
人間であることの歴史をずーっと築いてきました。
人間の<意識と無意識>が
創り出してきたのが
歴史です。
そこには
人間としての本能と欲望を抱えながらも
どう生きたら
人間は生き延びていけるかという課題が
常に内包されていました。
・人間の欲望をどうするか
・人間の不安をどうするか
・人間の幸福とはなにか
それらを止揚するように
文明が進化し
文化を創りながら
その思想によって
お互いの関係性をつくり
人間と社会という現象を創り出してきました。
歴史の中で翻弄されながらも
そこに
やっと到達し
階級社会をのりこえた市民の台頭によって
自由と平等と博愛という理念を創り出したのが
1789のフランス革命です。
同時に18世紀は
世界でさまざまに革命や変化が起き
産業革命がおこり
そこから一気に文明が開化していきます。
機械工業が始まり
電気動力や内燃機関動力による
目覚ましいテクノロジー科学文化が
開かれていきました。
そしてここから
それまでの限定され地域世界から抜け出し
異人種,異文化が交流しあう
いわゆる
グローバルな世界が
あらわれてくるのですね。
さらに世界中が
貿易の港を開き
<物質>と人間との新しい関係が
始まります。
人間の物質制覇の時代が
始まりました。
まあ、そういうことは
もう歴史で勉強されたことと思いますから
皆さんは熟知されていることと思います。
その歴史の連続性の中に
今の私たちはいるのです。
フランス革命のテーゼである
「自由、平等、博愛」はそのまま
それまでの封建的
階級支配の呪縛から
人間を自由にし
平等の理念を理想とし
それは
人間の存在や
社会の在り方を巡り
思想家や哲学者が議論し思惟する中
おおくの思想家や哲学者や宗教学者が
近代世界を相対化しながら
人間とは社会とはを
議論してきました。
その中身については
ここではすっ飛ばさせていただいて
そういう中から
19世紀もいろいろ
国取りの戦争や革命が
ありましたけど
一気にに飛ばせていただき
第二次世界大戦後の世界では
自由を標榜する自由主義、資本主義と
平等を標榜する社会主義、共産主義という
二つの大きなイデオロギーに基づく社会体制が
生まれてきました。
この二つの体制は対立しあい
ソ連とアメリカを代表し
その冷戦というかたちで
世界を二分していきました。
自由と平等のどちらもが
市民社会の理想のテーゼではあったのですが
実は自由を標榜すること
つまり
一人一人の自由意思を尊重し
その自由を保障する社会と
平等を保障する社会とは
相容れません。
なぜなら、それは
個人の自由な考えや意志や
それぞれの能力の違いを
保障するということです。
そこには競争の自由も
保障されていますから
自由はそこに当然個人差の段差が
おきてきます。
能力の格差も努力の格差も
収穫の格差も当然のこととして
顕れていきます。
つまり
それぞれの自由な生き方を基本に
大きなフレームの中での生き方においては
平等は理念としてしか
機能しません。
反対に
平等を掲げる社会は
大変難しいのです。
その自由競争や自由意思を
そしてそこに当然のごとく起きる
能力や収入の格差を
誰かがコントロールしなければ
平等の配分は成しえません。
つまり権力という
強制力を持つ強権を用いて
はじめて
平等が成立していきます。
それをマルクスは労働者階級の権力として
唱えたのですが、
結局は
権力という甘い蜜のなかで
共産主義社会や社会主義社会は
とんでもない独裁者と独裁政治を生み落して
さらに
生産性においても
お互い中の関係性の中での
緊張感を欠いた生産性は
自由主義、資本主義に
敗北していきました。
そして
この二つの体制の冷戦の中に
日本も組み込まれてゆきましたが
その東西の体制の冷戦も
ゴルバチョフとブッシュによって
1989に終結していきました。
その後、ソ連連邦の解体や
東西ドイツの統合などは
もう
みなさんの知るところです。
また二極に分解していた国々の隙間から
民族紛争が生まれてきたのも
皆さんがご存知の通りです。
では
自由主義社会は順調に進んだかというと
そうではありません。
自由主義社会も
自由競争とさらに
経済優先の価値観に毒されて
人間が病んでいきました。
たとえば日本の教育においても
その学歴が幸せを保障するというような
とんでもないバカげた幻想が
はびこりましたし
さらに
経済が優先される中で
様々に土建政治や
利権政治がはびこり
今だに
政治家は票を取るために
経済優先の政策ばかりを
愚唱してばかりです。
オリンピックが来れば
景気があがり云々も
ほんとうに
そうなんでしょうか。
もしそうならばギリシャやスペインは
どうなの?
マネーゲームがはびこり
その結果あのリーマンショックという
金融工学というお金の操作だけを
計算して商品にするという
とんでもないことが
起きました。
でもね、それだけではないのですよ。
この経済優先を何よりも上位においた
人間社会はもう
経済優先。お金主義という病という病です。
経済的に豊かになれば
何もかもが
解決し
人間は幸福になれるという
まやかしが
蔓延してしまいました。
さらに利便性や消費を優先し
そして私が憂慮するのは
価格破壊という安値競争です。
この「安い」ほうがいいという
消費者の
困った意識こそが
デフレの沼から日本が
這いあがれないことの
一つです。
生産物は
そのコストと労働にたいして
ちゃんと等価を払わないと
いけないのです。
物というのは
その等価において成立するのですからね~。
この等価をキチンと払うという
消費者の意識規範ができてくれば
それは労働の賃金へと還元されて
おそらく景気の浮揚は大分
解決できるのではないでしょうか。
素人考えにすぎませんけど。
科学とテクノロジーが進行する中での
環境破壊や地球温暖化
さらに原子力発電所の事故や
遺伝子工学の問題
化学汚染による性遺伝子の中世化など。
そして
そういう中で
目には見えませんが
人間の関係性が浸食されていきました。
何よりも大きいのは
人間の関係性の断絶が進み
孤独と孤立化の深刻な状況があります。
さらに
人間の思考能力の劣化
人間の感性の無機化による
無差別殺人など。
自由ということの中にある
自由の放縦さ
つまり
自由とはそこに何等かの
規範のフレームがない限り
歯止めができないくなっている状態が
起きるのです。
まさにそれが
今の世界および日本の問題です。
実は人間は
そのフレームの中の自由に対しては
安心し
力を発揮していきますが
このフレームがないと
そこには不安と恐れが生まれてしまいます。
このフレームのタガが外れてしまっているのが
今の日本社会の現状です。
モラルハザードの始まりです。
心理的規範が
お金優先の中で崩壊していくのです。
このことに関しては依然かきましたが
またあとで書きたいと思います。
私のところでカウンセリングを受けた方は
絵を描いていただいたとき
最初に黒色で枠を書いたでしょ。
それを思い出してください。
そして今
世界中を震撼とさせているのが
<イスラム国>の台頭です。
でもね、
この<イスラム国>の問題は
単にアラブの問題ではないのです。
自由主義、資本主義と
社会主義、共産主義という
二大体制(大勢)圏の割れ目の中に
置き去りにされていた、
あるいは
忘れ去られていたことが
原因としてあるのです。
それが<イスラム国>という
奇形の形になって
もう
当然の帰結として
亡霊のように
顕れてきたと
私は思います。
思い出していただきたいのは
フランス革命のときのテーゼです。
そこには
キラキラと輝くような
三つの人間のテーマが
掲げられていましたね、
・自由と
・平等と
あと何ですか?
そうです。
・博愛(友愛)です。
お互いを愛し
受け入れ
尊重するという
この博愛(友愛)の世界が
置き去りにされてしまったのです。
つまり人間の
・精神の世界
・心の世界
・内面の世界が
生産性優先
経済優先の中で
置き去りにされてしまいました。
経済を優先し
石油エネルギーを得るためには
民族の問題も
宗教の問題も
踏みつぶして
ないことにしてしまおう。。。と。
二大体制に分割された世界の割れ目に
アジア、アフリカ、アラブのイスラムの
世界があります。
そこには
・宗教の問題
・ローカル文化の問題
・国(フレーム)の思想という問題
があり
先進国の人間とは
違う意識水準で生きている人々が
います。
人間はなにをよりどころに生きるか?
あるいは
・人々は何をよりどころに
生きてきたか?
という
人間の
心の
大変重要な問題があります。
ソクラテスが問いかけたように
「善くいきる」とは
どういうことであるか。
きっと世界中の人間は
善くいきたいと
思っている。しかし
きわめて素朴な人間の内面の
この願いが
経済優先の世界観と
利害優先のの
大名目によって
踏み潰されてしまった。
その
置き去り人され、
踏みつぶされてしまった人々の中から
いわゆる
・エノスナショナリズム(自国民族主義)
・宗教原理主義
などが
奇形の形となって
自由主義諸国に
意義を唱え
さらに
暴力をもって
対抗してきたのだと
思います。
あまりに無神経な
先進国の身勝手な
経済優先の支配に対してです。
先進諸国の傲慢と
経済とテクノロジー優先の中で
あたかも
それで人間が幸福になれるかのような
まやかし幻想に覆われた社会の中で
心の問題が
置き去りにされてきて
今それを突き付けられている。
一方で人間が病み欝が蔓延し感性が無機化していく
先進国
そこには
博愛なんかどうでもいい!という
虚無がはびこります。
お互いを愛し
受け入れ
尊重するということは
意識と意志を持ってこそ
成立していくのです。
だから
経済優先に流されないように
このことを
しっかり理念化しておかなければ
なりません。
そのことが、まあいいかというように
置き去りにされ、踏みつぶされた中から
その反動として
宗教と民族の観念が
奇形化し
暴力で世界を征服しようとしている集団が
顕れる。
私たちは
何を突き付けられているのか
そして
この世界はどのようになっていくのかを
続けて書いていこうと
思いますが
この宗教原理者たちの奥にあるものを
解くことが
私たちの今を解く鍵の一つでもあると
思います。
<イスラム国>の問題は
その心の部分をうしなった人間の
空洞化し虚無化している人間に対する
アンチテーゼとしてもあるように
思います。
決して<イスラム国>を肯定するものでは
ありませんが
その、宗教原理にしがみつく
人間の心理の問題として
そこから遠く
忘れ去られていたことを
再び
検証することが必要です。
宗教というのも
人間の存在を支える
一つのフレームです。
そして18世紀以来
キリスト教を相対化し
さらに
ニーチェなどにより
神の死を宣言されてもなお
実はずーっと根源的に西欧諸国を支えてきたのが
目には見えないキリスト教のフレームです。
さらに
日本においても
根源的に日本人の精神性の中で
生きてきたのは
神道や仏教の中の精神的なフレームです。
断っておきますが
私は精神主義者でも右翼でもありませんし
科学の否定者でもありません。
むしろ
科学こそ、人類の進化のためのおいなる学問であり
人間の財産だと
思っています。
そうではなく
人間とはなにか
人間は何を失うと病んでいくかというところに
これらの
意識及び心のフレームの問題があるのです。
それは人間の自我の問題でもあります。
その自我と拮抗しているのが
宗教やナショナリズムでもあるのです。
逆にいうと
なぜ
宗教が生まれ
なぜ国家が生まれたかという
問題です。
世界は今でも
経済優先の眠りと幻想の中から
覚めません。
しかし
その一方で
人間は深刻な問題が山積しています。
今私は
物質文化、情報文化、そして
人間の意識と無意識を
どのように止揚していくかを
考えざるを得ません。
さらに
経済優先になってしまった社会の中で
どうしたら
人々が
自分の内面を充実させてることができるか。
それには
夢から醒める必要があります。
それは
物質を否定するのではなく
物質欲の中に
投影されて
浮かび上がる人間の心理の内容を
理解する。
そのことが
その人間本来の中にある
ポテンシャルであり
自己肯定、と自己承認へと
繋がっていくと
考えています。
そういう中で
日本の企業としての会社は
利潤の追求とともに
人間の根源的な
幸福をも
考えなければならないと
思っています。
社員のいきるフィールドとしての
会社です。
憲雄氏の「真艫」な企業であれとは
そこに洞察の目を向け
企業理念として
掲げられたものです。
日本の企業の近々の課題でもあり
そこを乗り越えることが
様々な問題の解決へとつながります。
今、日本で
まともな企業がどれくらいあるのか?
私の目には
日本の国民も多くが
まやかしの目の中で
いまでも
捉えられています。
全国民が
不安神経症の中にいるような気も
します。
私たちは
何が必要で
何が必要ではないか、
何を捨てなければならないか
というのは
単に物を捨てることではありません。
ハッと目を覚まし
何がほんとうに
大切であるかに
気づく必要があるのです。
ほんとうに大切なものに
気づいた人は
おそらく
淡々と淡泊になりに
シンプルになっていきます。
決してゴミ屋敷になることも
物質依存になることもありません。
ごくごくささやかで
満ち足りたものになるはずです。
今日はここまでですが
人間に
なぜ宗教が必要であったか。
と
人間の自我の問題と
現代社会の問題との交差点を
次回書いてみようと
思います。


