2015年 04月 14日
真艫の風 その2 |
○ずーっと根源的に西欧諸国を支えてきたのが
目には見えないキリスト教のフレームです。
さらに
日本においても
○根源的に日本人の精神性の中で
生きてきたは
神道や仏教の中の精神的なフレームです。
これは前回書いた中での文章ですが
このことをもっと深めて書いてみます。
さて
宗教って何だろう~?
感覚的に言えば
すっぽりと
自分を丸ごと包み込んでくれるもの。
自分が分裂せずに
そこにいられる(存在できる)とでも
いおうかね~。
そういう人間を
包み込む
超越的な存在かな~。
そして
それは
自分ひとりだけではなく
誰にも通じる
普遍性と公共性を
持っている。
その公共性というのが
宗教の規範でもあり
その規範がいわば
人間はどう生きたらいいのか
あるいは
どう生きてはいけないのか・・ということの
示唆になっている。
しかしそれは
その規範を
正しいと思い込む・・・という
前提の上に
それが成立するんだけれど。
それが正しいと
思い込むには
その人間たちの
生存の条件によって
そうなる。
たとえば厳しい砂漠の中で生きている人間は
生存の厳しさと
その環境における危機の具合によって
正しいということは
かなり制限された厳しい掟を持つだろうが
反対に
南の島で
食べ物も豊富にあり
のんきに暮らせる人間は
それほど厳しい掟も必要ないし
正しいということも
かなりいい加減になるかもしれない。
宗教というもの
それは様々な生存条件を
背景にして
人間が考え出した想念で
そこには
多様性があるのです。
では
なぜ
宗教が必要であったかというと
そこに見えてくるのは
人間の<自我の限界>です。
私は自我の本質は
究極的にいうと
客観性であると思います。
そしてその機能として
自己保存、
あるいは
生命維持のための
セキュリティーシステムだと
考えています。
人間が生き延びてゆくために
自分以外の他者や外部世界
に感覚が反応し、
感覚入力で収集した情報の解析によって
なされる、
自己防衛のためのシュミレーション(仮想)
システムが作り出す意識が
自我ではないかと
思います。
つまり
人間は常に自分以外の他者及び外部との
<関係性>の中で
生きていますから
その<関係性>を
客観的に仮想し、調整するためのものではないかと
思います。
しかし
自我が収集する情報も
限界があり
自分の想定する関係性も
自分の保有データーで解析し
その主観において
解釈するしかない・・という
限界があり、
むしろ自分が想定できない事ばかりに
遭遇するのが
人生です。
自分でコントロールできないことの
恐れや不安
自分の無力感が表出するとき
そこに
そういう無力な自分を
包み込み、
発生する不安のストレスを
回避させる存在として。
さらに
自分のすべてを愛してくれ、許す存在として
自分を超越する
人間と同じような人格と言語をもつ
神、仏、大いなる超越者を
人間が考えだしたのではないかと
思います。
そして
さらにその規範的世界(フレーム世界)が
帰結していく場としての
天国と地獄と二つのフィールドの
虚構世界と物語を創り出した。
旧約聖書はいわゆる予言者の書であり
キリストも予言者です。
イスラム教のムハマドも
予言者です。
予言者とは
シュミレーションする
技術者でも
あるのです。
この世をシュミレーションし
そして
善き道を導き出す。
しかし
それは個人とその集団を止揚して
予言して導き出すという
<公共性>を持っていなくては
なりません。
だから、その虚構世界を
統括する
規範や掟という
フレームも同時に
創出しなくてはならないのです。
釈迦の場合はすこし違っていて
彼はいわゆる<観察者>です。
その観察によって
人間の創り出す現象を
論理的に説こうとしました。
それは
徹底的に自己を見つめ極めてゆくという
手法で
いわゆる釈迦の原始仏教の世界は
極めて厳しい修行の中に
ありましたし、
一般の凡人は
おいそれとは
近づけませんでした。。
しかし
その原始仏教≒上部座仏教(小乗仏教)は
釈迦の死後
400年後に
おどろきべき仏教へと
書き換えられていきます。
いうゆる大乗仏教登場です。
ここには
原始仏教にはなかった
様々に民衆を救い出そうとする
菩薩たちが登場し
まるでアニメーションファンタジーのように
菩薩や如来たちが活躍します。
すごいのは
とうとう
釈迦をも超る存在が
出現してきます。
つまり
宇宙を統括する
超越者として
太陽≒盧舎那仏という存在が
登場してくるのです。
つまり
人間は
宗教という虚構世界を
創り出すことにより、
自分の小ささを超える(限界を超える)
大いなる存在を
常に嘱望し(幻視し)
そこに
共通の規範のフレーム
すなわち<公共性の掟>を定めて
生き延びてきたのだと
思います。
ではなぜ
人間は
いつも
超越者を必要としたか?
それは、
人間はいつも<関係>の中に
存在しているからです。
つまり
人間は常に
他者との関係の中で
<自己決定>しているのです。
自分の意志も
他者との関係性において成立します。
だからその意志には
社会が光や影をさしながら影響し
そういう中で
尤も自分にふさわしい<自己決定>を
瞬間瞬間しながら生きています。
つまり自分一人では
人間以外の動物のように
本能的生きる自分しかありえず
ひらたくいうと
他者とのあいだで
成立する意識や働きが
人間を人間たらしめている。
そういう風に
人間は無意識に他者との関係の中を
生きるのです。
人間は他者なしには
生きれない!
だからこそ
人間は、
他者から無条件に
愛されると
至上の喜びを感じ
他者からの承認を受けることで
自己存在の意味や価値を
感じるのです。(確認できる)
人間もとって
他者という存在が
いかに重要であるかです。
しかしその他者も
同じ人間である以上
脆弱であり、不安定であり
気まぐれであり
限界があります。
だからこそ
オールマイティの能力と力を持ち
人間も人間社会を包括し
さらに知恵を授ける
大いなる存在(神)を想定し(イメージし)
人間の上部に
据えたのです。
しかしその
すべてを愛し赦す神は
一方で全知全能に
すべてを支配し
統括し
その宗教の集団のフレームを逸脱する者を
裁く神
でもあります。
失格者は
地獄に落ちるかもしれない!
そういう宗教のメカニズムを
透徹した目で見てみると
そこには
・常に他者からその存在を肯定されたいという
欲求をもつ人間と
・人間が抱える矛盾と不条理をそして不安と恐れを
止揚してくれる存在が
ほしいという
人間の姿があります。
では
なぜ、
人間を超越する存在が
必要か
というと
そこにこそ
人間の自我の問題があります。
人間の自我は
絶えず、
自分の外部世界と向き合い
対峙している世界ですから
そこには
常に
自我が
外部世界と対立している
緊張が生じます。
そして
脳の中というのも限られた空間であり
意識が脳の中を巡りだすと
どうしてもその意識から
抜け出さない限り
あるいは
その意識が消えない限り
そこには
自我と外部世界が拮抗する
ストレスが生じます。
自分が肯定されたときは
その自我の対立が
解消されるわけですから
そこに起きる感情も
心地よく脳と体の中を
通り抜けていきます。
しかし
反対に
自我が対立を刺激されるような
感情が刺激を受けると
どんどんストレスが増幅し
エネルギーが奪われていきます。
その時
理性が働き
自分の感情を
<客観的にみる>ことができると
やっとその嵐が
終息していきます。
自分が自分の自我で
自分の関係性を
見ようとすると
そこには感情を排除しない限り
無理があります。
自分の感情をひとまず
置いておいて
外から
自分の意志と感情を
眺めることによって
ようやく
自分と他者および外部世界との
関係が
みえてくるのです。
人間が客観的理性を取り戻すには
そういう操作を
意識的にしないと
ダメなのです。
しかしその時
感情を乗り越え
意識的に操作するということが
とても高度な脳の働きとして
難しいのです。
それをアプリオリに
ダイレクトに
言葉化したのが
神のことばであり
神の位置でもあり
仏の位置でもあり
感情を超越する
<理性の位置>でもあります。
それは天から
人間を眺め
相矛盾する人間たちの問題を
止揚し
解決する
人間を網羅し
なお熟知したうえで
すべてを
引き受ける
神の位置ですね。
おそらくイエスキリストも
ムハマッドも
釈迦も
大乗仏教を執筆した僧たちも
もう
極限までも
自分の内面と向き合い
極めていったのでしょう。
だからこそ
人間の弱さや残酷さや愚かさを
見極め
その限界性を見極めたうえで
いかにそれを乗り越えていくかという
公共性のメッセージを
それぞれの
イメージした超越なる者に託し
説いていったのだと
思います。
さてでは
今
私たちが考えなければならない事とは
なにか?
それは
宗教というフレームがもう
効力を持たないということです。
宗教とは
もともと
人間の関係性の限界と
人間の弱さをカヴァーするものとして
生まれてきました。
人間がどう生きたらいいかという
公共性を示唆し
さらに
その公共性を逸脱しないように
規範や掟で
人間社会をフレーム化して
私たちの無意識世界を
支えてきました。
そのことを前回
○ずーっと根源的に西欧諸国を支えてきたのが
目には見えないキリスト教のフレームです。
さらに
日本においても
○根源的に日本人の精神性の中で
生きてきたは
神道や仏教の中の精神的なフレームです。
と私は書いたのです。
しかし
18世紀の革命の時代の頃から
もうそれらのフレームや公共性が
破綻をきたしてきます。
その神秘性や
非合理の合理を引き受ける
強引さがもう
効力をはっきしなくなりました。
それは
著しい科学の発達により
神秘の解明が進んだこと。
脳と心理の検証で
人間の心理のメカニズムが
が明らかにされてきたこと。
さらに
社会においての
宗教的支配の矛盾点が
露出してきたことなど。
また、
宗教的フレームに代わって
<国家>というフレームが
登場してきたことなどなどなど・・・。
専門家なら
まだまだいろいろと考えられるのでしょうが、
近代社会は
いつの間にか宗教をよりも
経済の発展の方へと
社会がシフトし始め
いわゆる先進国は
宗教を疎外し始めました。
必要最低限の宗教でいいと
宗教の権威と権限を
縮小してしまいました。
だからこそ
現代にいたっては
利益優先、経済優先のもとに
無神経に
宗教を手荒く扱い
その一方で
今も
宗教をよりどころに生きている人々を
無視してしまいました。
確かに
日本人の大好きなニーチェが宣告したように
18世紀以来
神が死んだ時代が
はじまったのです。
そこから思想家や哲学者などが
たくさん登場しては議論を
重ねてきました。
そういう中で
神の死にかわりうるものは
何か。
神の死を告げるニーチェは
一方で
神に代わる超越なるものをも
構想しました。
そこには
人間の限界と
その客観性における公共性のフレームの
意味を
そのフレームを喪失する反動の
危機を
ニーチェが憂慮していたからだと
思います。
なぜなら
宗教というのは
愛や救済であるとともに
麻薬でもあります。
人間を依存させる罠でもあります。
それは
愛の言葉を吐きながら
一方で
人間の不安やおそれや弱さに
つけこみ
人間の心を支配し
マインドコントロールしてしまうという
恐ろしい側面をもつからです。
宗教に依存じ
隷従してしまうことの愚さこそ
人間の<知の進化>を阻むものでもあります。
宗教の限界が顕れるにつけ
それは
現代の人々には
必要ではなく
むしろ人間の自立を阻むものであり
神の死とともに失われるフレームの反動を
乗り越えるために
新しい公共性のフレーム(超人)を
模索しなければならないことを
ニーチェは
わかり始めていたからでしょう。
先ほども書きましたが
宗教のもっとも本質は
その客観性だと
私は思います。
つまり
人間の自我が
自分という狭い器の中で
あがくとき
そこから抜け出し
客観性の中に自分を
置く
方法として。
さらに
他者によって愛されること
他者によって
自分を受け入れ承認される
その
代理行為としても
神の存在は
まだまだ
先進科学など
及びもしないところで
生きている人々、
素朴に神を信じ
よりどころにしている
人々にとっては
有効であり
たいせつな
自分の分身です。
自分の存在を肯定し
証明してくれる
存在でもあります。
そのことに対する
慎重な配慮と
抱擁を
経済優先主義は
踏みつけてしまいました。
勿論そこには
国際的に
複雑な利害が錯綜し
固くもつれた糸を
解くことの困難さが
あったと思います。
しかし
しかしこの地球の
<今>
は
最先進の科学の世界と
いまだに
宗教的虚構世界を生きている人びとの
多様性が
混沌として共存しているのが
現実です。
その全体が変化していくには
まだまだ多くの時間が必要であり
さらに
その変化を遂げていくには
人間の自我の世界にある
対立と
不安と恐れを
解決しなければ
なりません。
そういう緩やかにしか
人間社会は
変化しえないのです。
しかし
それを
無神経に
尊大に
踏みつけたのが
先進国をはじめとする
経済を優先した
人間たちです。
そこには
人間の不安をどのように
止揚するかということが
「経済的に豊になることである」
という答えが
出たかもしれませんが
しかし
その答えも
かなり短絡的にしか
人間をみていません。
宗教とは
人間が考え出した
人間が
生き延びてゆくための
自己イメージの代理です。
だからこそ
慎重に
大切に
取り扱う必要があるのです。
その人が
大切にしているものは
自分も
大切にする。
そういう心を
失っては
いけないのです。
その人たちの
祈りの世界に
寄り添わないと
いけません。
私たちは
人間の自我が紡ぎだす
<こころ>を
思惟しなければ
なりません。
そこにある
未解決な問題に
向き合い
取り組むことで
きっと未来も
見えてくると思います。
人間の伝統的社会のフレームを
はずすことには
そこに住む人間が
納得することが
重要です。
そして
一方
先進科学によって
どんどん
人間が解明されてゆくことも
とても大切なことです。
今必要なことは
もう宗教に依存することをやめ
私たちは
自分も他者もが
幸福になるために
有効な
新しい時代のための
公共性のフレーム(文化・ソフト)を
創り出すことです。
お互いを
縛りあうのではなく
お互いを
殺しあうのでもなく
お互いを
自由に解き放つための
自由、平等、博愛の
フレームです。
それには
それぞれが
自分の生きる場において
そのことを考えなくてはならないと
私は思います。
社会においても国家としても
職場も学校も家庭も
すべてにおいてです。
物質文化と情報文化と
人間の生きること
人間の心ことを
どのように
止揚、解決してゆくか・・・。
田下憲雄氏の
<真艫>ということは
そういう現代の状況の中で
いかに
まっとうな
公共性のフレームを
会社の中で文化として(ソフトとして)
見いだしていくかと
いうことです。
それは
会社というフィールドにおいて
みんなが
生き生きと
そして幸せになるために
お互いの自立を尊重し
そこで起きることが
すべて
善き方へと
成就するようにという
願いでもありました。
今世界中がイスラム国の脅威に
怯えているのなら
やはり今の世界の在り方が
どうであるかを
検証しなおさなければ
なりません。
さらにそこから
人間はなぜ対立と争いを
起こすのかについては
人間の自我の中に
何が刷り込まれてきたかを
考える必要があります。
私は
人間の自我の中にある対立が
取り除かれない限り
争いも
戦争もなくならないと
思います。
なぜなら
人間が起こす
この世の現象は
すべてが
脳内現象だからです。
人間の脳の中にある対立。
それは自分の自我と
他人に自我との対立が
自分の脳の中で
構造化してしまっているのです。
自分の主観に基づく自分と
他人の自我に汚染された自我がの対立が
鏡のように他人に投影され
まるで他人と自分が対立しているような
錯覚をしてしまうのです。
それを
自分への対立、攻撃と勘違いして
しまうのです。
また他人を相対化できない人間は
(自他の分離ができていない人間は)
自分の中に不安があれば
それを他人の中にも
同じように見いだし
他人も不安にちがいないと
錯覚して
自分が他人から不安におとされているような
錯覚をするのです。
しかし
そのことを理解するには
高次の知力が必要です。
今日も頑張って書きました。
次回は、未来はどうなるであろうか
のビジョンについて
書いてみようと思っています。

寄り添わないとね!
目には見えないキリスト教のフレームです。
さらに
日本においても
○根源的に日本人の精神性の中で
生きてきたは
神道や仏教の中の精神的なフレームです。
これは前回書いた中での文章ですが
このことをもっと深めて書いてみます。
さて
宗教って何だろう~?
感覚的に言えば
すっぽりと
自分を丸ごと包み込んでくれるもの。
自分が分裂せずに
そこにいられる(存在できる)とでも
いおうかね~。
そういう人間を
包み込む
超越的な存在かな~。
そして
それは
自分ひとりだけではなく
誰にも通じる
普遍性と公共性を
持っている。
その公共性というのが
宗教の規範でもあり
その規範がいわば
人間はどう生きたらいいのか
あるいは
どう生きてはいけないのか・・ということの
示唆になっている。
しかしそれは
その規範を
正しいと思い込む・・・という
前提の上に
それが成立するんだけれど。
それが正しいと
思い込むには
その人間たちの
生存の条件によって
そうなる。
たとえば厳しい砂漠の中で生きている人間は
生存の厳しさと
その環境における危機の具合によって
正しいということは
かなり制限された厳しい掟を持つだろうが
反対に
南の島で
食べ物も豊富にあり
のんきに暮らせる人間は
それほど厳しい掟も必要ないし
正しいということも
かなりいい加減になるかもしれない。
宗教というもの
それは様々な生存条件を
背景にして
人間が考え出した想念で
そこには
多様性があるのです。
では
なぜ
宗教が必要であったかというと
そこに見えてくるのは
人間の<自我の限界>です。
私は自我の本質は
究極的にいうと
客観性であると思います。
そしてその機能として
自己保存、
あるいは
生命維持のための
セキュリティーシステムだと
考えています。
人間が生き延びてゆくために
自分以外の他者や外部世界
に感覚が反応し、
感覚入力で収集した情報の解析によって
なされる、
自己防衛のためのシュミレーション(仮想)
システムが作り出す意識が
自我ではないかと
思います。
つまり
人間は常に自分以外の他者及び外部との
<関係性>の中で
生きていますから
その<関係性>を
客観的に仮想し、調整するためのものではないかと
思います。
しかし
自我が収集する情報も
限界があり
自分の想定する関係性も
自分の保有データーで解析し
その主観において
解釈するしかない・・という
限界があり、
むしろ自分が想定できない事ばかりに
遭遇するのが
人生です。
自分でコントロールできないことの
恐れや不安
自分の無力感が表出するとき
そこに
そういう無力な自分を
包み込み、
発生する不安のストレスを
回避させる存在として。
さらに
自分のすべてを愛してくれ、許す存在として
自分を超越する
人間と同じような人格と言語をもつ
神、仏、大いなる超越者を
人間が考えだしたのではないかと
思います。
そして
さらにその規範的世界(フレーム世界)が
帰結していく場としての
天国と地獄と二つのフィールドの
虚構世界と物語を創り出した。
旧約聖書はいわゆる予言者の書であり
キリストも予言者です。
イスラム教のムハマドも
予言者です。
予言者とは
シュミレーションする
技術者でも
あるのです。
この世をシュミレーションし
そして
善き道を導き出す。
しかし
それは個人とその集団を止揚して
予言して導き出すという
<公共性>を持っていなくては
なりません。
だから、その虚構世界を
統括する
規範や掟という
フレームも同時に
創出しなくてはならないのです。
釈迦の場合はすこし違っていて
彼はいわゆる<観察者>です。
その観察によって
人間の創り出す現象を
論理的に説こうとしました。
それは
徹底的に自己を見つめ極めてゆくという
手法で
いわゆる釈迦の原始仏教の世界は
極めて厳しい修行の中に
ありましたし、
一般の凡人は
おいそれとは
近づけませんでした。。
しかし
その原始仏教≒上部座仏教(小乗仏教)は
釈迦の死後
400年後に
おどろきべき仏教へと
書き換えられていきます。
いうゆる大乗仏教登場です。
ここには
原始仏教にはなかった
様々に民衆を救い出そうとする
菩薩たちが登場し
まるでアニメーションファンタジーのように
菩薩や如来たちが活躍します。
すごいのは
とうとう
釈迦をも超る存在が
出現してきます。
つまり
宇宙を統括する
超越者として
太陽≒盧舎那仏という存在が
登場してくるのです。
つまり
人間は
宗教という虚構世界を
創り出すことにより、
自分の小ささを超える(限界を超える)
大いなる存在を
常に嘱望し(幻視し)
そこに
共通の規範のフレーム
すなわち<公共性の掟>を定めて
生き延びてきたのだと
思います。
ではなぜ
人間は
いつも
超越者を必要としたか?
それは、
人間はいつも<関係>の中に
存在しているからです。
つまり
人間は常に
他者との関係の中で
<自己決定>しているのです。
自分の意志も
他者との関係性において成立します。
だからその意志には
社会が光や影をさしながら影響し
そういう中で
尤も自分にふさわしい<自己決定>を
瞬間瞬間しながら生きています。
つまり自分一人では
人間以外の動物のように
本能的生きる自分しかありえず
ひらたくいうと
他者とのあいだで
成立する意識や働きが
人間を人間たらしめている。
そういう風に
人間は無意識に他者との関係の中を
生きるのです。
人間は他者なしには
生きれない!
だからこそ
人間は、
他者から無条件に
愛されると
至上の喜びを感じ
他者からの承認を受けることで
自己存在の意味や価値を
感じるのです。(確認できる)
人間もとって
他者という存在が
いかに重要であるかです。
しかしその他者も
同じ人間である以上
脆弱であり、不安定であり
気まぐれであり
限界があります。
だからこそ
オールマイティの能力と力を持ち
人間も人間社会を包括し
さらに知恵を授ける
大いなる存在(神)を想定し(イメージし)
人間の上部に
据えたのです。
しかしその
すべてを愛し赦す神は
一方で全知全能に
すべてを支配し
統括し
その宗教の集団のフレームを逸脱する者を
裁く神
でもあります。
失格者は
地獄に落ちるかもしれない!
そういう宗教のメカニズムを
透徹した目で見てみると
そこには
・常に他者からその存在を肯定されたいという
欲求をもつ人間と
・人間が抱える矛盾と不条理をそして不安と恐れを
止揚してくれる存在が
ほしいという
人間の姿があります。
では
なぜ、
人間を超越する存在が
必要か
というと
そこにこそ
人間の自我の問題があります。
人間の自我は
絶えず、
自分の外部世界と向き合い
対峙している世界ですから
そこには
常に
自我が
外部世界と対立している
緊張が生じます。
そして
脳の中というのも限られた空間であり
意識が脳の中を巡りだすと
どうしてもその意識から
抜け出さない限り
あるいは
その意識が消えない限り
そこには
自我と外部世界が拮抗する
ストレスが生じます。
自分が肯定されたときは
その自我の対立が
解消されるわけですから
そこに起きる感情も
心地よく脳と体の中を
通り抜けていきます。
しかし
反対に
自我が対立を刺激されるような
感情が刺激を受けると
どんどんストレスが増幅し
エネルギーが奪われていきます。
その時
理性が働き
自分の感情を
<客観的にみる>ことができると
やっとその嵐が
終息していきます。
自分が自分の自我で
自分の関係性を
見ようとすると
そこには感情を排除しない限り
無理があります。
自分の感情をひとまず
置いておいて
外から
自分の意志と感情を
眺めることによって
ようやく
自分と他者および外部世界との
関係が
みえてくるのです。
人間が客観的理性を取り戻すには
そういう操作を
意識的にしないと
ダメなのです。
しかしその時
感情を乗り越え
意識的に操作するということが
とても高度な脳の働きとして
難しいのです。
それをアプリオリに
ダイレクトに
言葉化したのが
神のことばであり
神の位置でもあり
仏の位置でもあり
感情を超越する
<理性の位置>でもあります。
それは天から
人間を眺め
相矛盾する人間たちの問題を
止揚し
解決する
人間を網羅し
なお熟知したうえで
すべてを
引き受ける
神の位置ですね。
おそらくイエスキリストも
ムハマッドも
釈迦も
大乗仏教を執筆した僧たちも
もう
極限までも
自分の内面と向き合い
極めていったのでしょう。
だからこそ
人間の弱さや残酷さや愚かさを
見極め
その限界性を見極めたうえで
いかにそれを乗り越えていくかという
公共性のメッセージを
それぞれの
イメージした超越なる者に託し
説いていったのだと
思います。
さてでは
今
私たちが考えなければならない事とは
なにか?
それは
宗教というフレームがもう
効力を持たないということです。
宗教とは
もともと
人間の関係性の限界と
人間の弱さをカヴァーするものとして
生まれてきました。
人間がどう生きたらいいかという
公共性を示唆し
さらに
その公共性を逸脱しないように
規範や掟で
人間社会をフレーム化して
私たちの無意識世界を
支えてきました。
そのことを前回
○ずーっと根源的に西欧諸国を支えてきたのが
目には見えないキリスト教のフレームです。
さらに
日本においても
○根源的に日本人の精神性の中で
生きてきたは
神道や仏教の中の精神的なフレームです。
と私は書いたのです。
しかし
18世紀の革命の時代の頃から
もうそれらのフレームや公共性が
破綻をきたしてきます。
その神秘性や
非合理の合理を引き受ける
強引さがもう
効力をはっきしなくなりました。
それは
著しい科学の発達により
神秘の解明が進んだこと。
脳と心理の検証で
人間の心理のメカニズムが
が明らかにされてきたこと。
さらに
社会においての
宗教的支配の矛盾点が
露出してきたことなど。
また、
宗教的フレームに代わって
<国家>というフレームが
登場してきたことなどなどなど・・・。
専門家なら
まだまだいろいろと考えられるのでしょうが、
近代社会は
いつの間にか宗教をよりも
経済の発展の方へと
社会がシフトし始め
いわゆる先進国は
宗教を疎外し始めました。
必要最低限の宗教でいいと
宗教の権威と権限を
縮小してしまいました。
だからこそ
現代にいたっては
利益優先、経済優先のもとに
無神経に
宗教を手荒く扱い
その一方で
今も
宗教をよりどころに生きている人々を
無視してしまいました。
確かに
日本人の大好きなニーチェが宣告したように
18世紀以来
神が死んだ時代が
はじまったのです。
そこから思想家や哲学者などが
たくさん登場しては議論を
重ねてきました。
そういう中で
神の死にかわりうるものは
何か。
神の死を告げるニーチェは
一方で
神に代わる超越なるものをも
構想しました。
そこには
人間の限界と
その客観性における公共性のフレームの
意味を
そのフレームを喪失する反動の
危機を
ニーチェが憂慮していたからだと
思います。
なぜなら
宗教というのは
愛や救済であるとともに
麻薬でもあります。
人間を依存させる罠でもあります。
それは
愛の言葉を吐きながら
一方で
人間の不安やおそれや弱さに
つけこみ
人間の心を支配し
マインドコントロールしてしまうという
恐ろしい側面をもつからです。
宗教に依存じ
隷従してしまうことの愚さこそ
人間の<知の進化>を阻むものでもあります。
宗教の限界が顕れるにつけ
それは
現代の人々には
必要ではなく
むしろ人間の自立を阻むものであり
神の死とともに失われるフレームの反動を
乗り越えるために
新しい公共性のフレーム(超人)を
模索しなければならないことを
ニーチェは
わかり始めていたからでしょう。
先ほども書きましたが
宗教のもっとも本質は
その客観性だと
私は思います。
つまり
人間の自我が
自分という狭い器の中で
あがくとき
そこから抜け出し
客観性の中に自分を
置く
方法として。
さらに
他者によって愛されること
他者によって
自分を受け入れ承認される
その
代理行為としても
神の存在は
まだまだ
先進科学など
及びもしないところで
生きている人々、
素朴に神を信じ
よりどころにしている
人々にとっては
有効であり
たいせつな
自分の分身です。
自分の存在を肯定し
証明してくれる
存在でもあります。
そのことに対する
慎重な配慮と
抱擁を
経済優先主義は
踏みつけてしまいました。
勿論そこには
国際的に
複雑な利害が錯綜し
固くもつれた糸を
解くことの困難さが
あったと思います。
しかし
しかしこの地球の
<今>
は
最先進の科学の世界と
いまだに
宗教的虚構世界を生きている人びとの
多様性が
混沌として共存しているのが
現実です。
その全体が変化していくには
まだまだ多くの時間が必要であり
さらに
その変化を遂げていくには
人間の自我の世界にある
対立と
不安と恐れを
解決しなければ
なりません。
そういう緩やかにしか
人間社会は
変化しえないのです。
しかし
それを
無神経に
尊大に
踏みつけたのが
先進国をはじめとする
経済を優先した
人間たちです。
そこには
人間の不安をどのように
止揚するかということが
「経済的に豊になることである」
という答えが
出たかもしれませんが
しかし
その答えも
かなり短絡的にしか
人間をみていません。
宗教とは
人間が考え出した
人間が
生き延びてゆくための
自己イメージの代理です。
だからこそ
慎重に
大切に
取り扱う必要があるのです。
その人が
大切にしているものは
自分も
大切にする。
そういう心を
失っては
いけないのです。
その人たちの
祈りの世界に
寄り添わないと
いけません。
私たちは
人間の自我が紡ぎだす
<こころ>を
思惟しなければ
なりません。
そこにある
未解決な問題に
向き合い
取り組むことで
きっと未来も
見えてくると思います。
人間の伝統的社会のフレームを
はずすことには
そこに住む人間が
納得することが
重要です。
そして
一方
先進科学によって
どんどん
人間が解明されてゆくことも
とても大切なことです。
今必要なことは
もう宗教に依存することをやめ
私たちは
自分も他者もが
幸福になるために
有効な
新しい時代のための
公共性のフレーム(文化・ソフト)を
創り出すことです。
お互いを
縛りあうのではなく
お互いを
殺しあうのでもなく
お互いを
自由に解き放つための
自由、平等、博愛の
フレームです。
それには
それぞれが
自分の生きる場において
そのことを考えなくてはならないと
私は思います。
社会においても国家としても
職場も学校も家庭も
すべてにおいてです。
物質文化と情報文化と
人間の生きること
人間の心ことを
どのように
止揚、解決してゆくか・・・。
田下憲雄氏の
<真艫>ということは
そういう現代の状況の中で
いかに
まっとうな
公共性のフレームを
会社の中で文化として(ソフトとして)
見いだしていくかと
いうことです。
それは
会社というフィールドにおいて
みんなが
生き生きと
そして幸せになるために
お互いの自立を尊重し
そこで起きることが
すべて
善き方へと
成就するようにという
願いでもありました。
今世界中がイスラム国の脅威に
怯えているのなら
やはり今の世界の在り方が
どうであるかを
検証しなおさなければ
なりません。
さらにそこから
人間はなぜ対立と争いを
起こすのかについては
人間の自我の中に
何が刷り込まれてきたかを
考える必要があります。
私は
人間の自我の中にある対立が
取り除かれない限り
争いも
戦争もなくならないと
思います。
なぜなら
人間が起こす
この世の現象は
すべてが
脳内現象だからです。
人間の脳の中にある対立。
それは自分の自我と
他人に自我との対立が
自分の脳の中で
構造化してしまっているのです。
自分の主観に基づく自分と
他人の自我に汚染された自我がの対立が
鏡のように他人に投影され
まるで他人と自分が対立しているような
錯覚をしてしまうのです。
それを
自分への対立、攻撃と勘違いして
しまうのです。
また他人を相対化できない人間は
(自他の分離ができていない人間は)
自分の中に不安があれば
それを他人の中にも
同じように見いだし
他人も不安にちがいないと
錯覚して
自分が他人から不安におとされているような
錯覚をするのです。
しかし
そのことを理解するには
高次の知力が必要です。
今日も頑張って書きました。
次回は、未来はどうなるであろうか
のビジョンについて
書いてみようと思っています。

by denshinbashira
| 2015-04-14 14:28
| 夢から醒めるということ。
|
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