2015年 04月 28日
自分の中の他者たち・・・その3 |
いよいよ68歳になってしまったなあ~!
つまり
もう私の目標だった70歳が
そこまで来たということです。
70歳の目標とは
このブログを書き始めたとき
70歳になった自分は
融通無碍、自由自在の
風のごときの自分でありたいと
目標を立てたからです。
風が吹き抜ける
草原のような平地の
自分です。
あと2年かあ~!
どんどん自分の中の対立を捨てていこう!
自分の脳と体に中にある他者との対立が
そのまま
外部世界へと
まるで影絵のように投影している。
だからこそ人間は
他者から愛されることで
自分の存在の確かさを確認し
他者から
認められると
その存在の意義を
感じる。
だから
どうしても
他者および
他者の集合の社会に対して
愛と認知を
求めてしまうのですね。
しかしその他者も社会もが
いわゆる
影絵(幻想)のようなものなのですから
そういう愛と承認を得ても
時間と共に
消えちゃう・・・トホホホ!
所詮
それらも
たいしたこともなく
それらに期待と依存をしても
たかがしれている。
さらに
そういう他者も社会をもが
本当は
自分の中に存在する他者との矛盾を
解決できないかぎり
もがくのです。
人間という生き物の
そういう限界の中で
宗教がうまれて来たのだと
思います。
自分も他者も、
そして
社会をも
超越し
包括する
第三の存在・・・・としての神および
それに類する存在。
を
人間が
ひねり出した、
創りだした。
自分が解決できなくとも
いずれ
神が
解決してくれる。
自分が相手を罰することができなくても
いずれ
神の天罰がくだる。
自分は人間に愛されなくとも
神に
愛されている。
自分の些細な罪も
神は赦してくれている。
この世で不幸であろうと
あの世では
天国に行ける
この世で金持ちになっても
あの世では
地獄に落ちるかもしれない。
神の大いなる意志に添っていきることこそが
つまり
そのフレーム内で生きることこそが
安定でもある。
神は
なんと
便利で
都合のいいものなのだろうか・・?
宗教は人間の不安定を
逆手にとって自己増殖し
最終的には
その無意識領域までにも浸透し
心理支配していきました。
すごいね~!
その心理規範を逆手に
王をも超え
全知全能の神として
権力と支配を
獲得していきました。
なかでもキリスト教は
人間の罪悪感を盾にとる
大パラドックスの中で
見事に世界宗教へとなっていきました。
大パラドックスというのは
人間はもともと罪深いものであり
キリストはその人間の罪を一切背負い
十字架にかけられたと
いうことです。
神の子として
無心に人間を愛し無抵抗のキリストを
人間が
殺してしまったということです。
人間はその神の言葉を伝えようとするキリストを
迫害し十字架につけてしまったことを
償わなければならない。
そこに
人間の原罪があるのだど
気づかせようとするために
キリストは神の意志によって
人間に殺されたしまった。
それは人間を救おうとする
大いなる神の愛の大いなる働きである。
だからこそ人間は
イエス・キリストを通して
神の愛にこたえなければならない。
自分の罪を認識させ
さらに
悔い改めるという回心=神への服従の誓いが
巧妙にパラドックスとして効き
人間を囲いこんでいます。
神の愛と規範の中で
常にその生き方を
問われ
修正し,告解し
神とむきあわなければ
ならない。
という神のフレームの中に
人間世界を
囲い込んだのです。
釈迦の世界も
最初の設定に「苦」があり
その「苦」をいかに乗り越えるかを
説いていきます。
まあ、ここで宗教を詳しく書くことは
置くとして
つまり
なぜ宗教が生まれてきたかは
人間の脳と心理の中にある
他者の存在である
<自分とあなた>
<自分と相手>の具体的関係から
どんどん人間とその関係が
抽象化されていき
最終的には
人間一般と「人間を超越するもの=神」との関係にまでに
抽象化していくことで
人間と他者との問題を
解決していった!
と
いうところが
実はとても重要であり
私たちはそこに視点を落とし
考える必要があるのです。
その「人間を超越するもの」の上空から
見おろした人間世界は
地上の上下や段差をこえて
平等であり、公平であり、そしてみんな
たかが知れている存在です。
宗教とは
このように
自分と他者とを
どのように止揚していくかを
人間が考え出したものであると
いうことです。
ただし
宗教の大きな問題点は
最初に
人間否定があることです。
エデンの園でアダムとイヴが犯した原罪も
釈迦のいう「苦」も
人間とはなにか・・・という認識が
否定から入っています。
だからこそ
そこに規範が生まれ
その規範が人間の潜在意識までをも
規定し、支配し
その有効性において
世界宗教として
生き延びてきたのです。
そして宗教は
統治機構としても
大変有効であったということです。
だからこそ
各国王もそれを隠し玉にし利用し
民衆を統治し
聖徳太子も
仏教を日本に持ち込んだのです。
しかし
もう
それらの宗教を超越する時代へと
人間は踏み込みました。
と
私はそう思って世界を見ていますが。
注目すべきは
宗教を作り出す
人間の能力の凄さです。
さらに
宗教をもってして
個々の人間の自己矛盾と苦しみを
解決しようとした
人間の脳のもつ抽象化する能力と
解決能力のすばらしさです。
それこそが
人間が獲得した大脳新皮質の働きであり
人間が
人間たる所以です。
ここを大いに磨くことこそ
そこに
解決の道があると
いうことです。
自分の中の他者も
自分が
抽象化している
人間像です。
まあ、その始まりは
幼児期、および成長期の人間関係
つまり親やそれに類する人々とのあいだで
獲得したものが
自分の中に棲みこんでしまったのですが
その原像(元イメージ)をもとに
人間は自分の人間観を
ドンドン抽象化していきます。
それがやがては
どこの誰だかわからないが
自分が脅されたり
脅かされたりするシャドウと
なって自分の中の不安や恐れを
増幅していくのです。
だからこそ
一番の手がかりは
幼児期、および成長期の
人間関係で
自分はどのような人間観を
獲得したかです。
つまり自分は
どのように
人間とは・・を思い込んだからです。
自分の中の他者とは
どういう脳の現象であるかも
そのうちには
解明されるでしょう。
しかし
その前に
私たちが自分で出来ることは
自分のなかに棲み込む他者が
もたらす否定を
取り除くことで
自分の脳を健康にし
ストレスを取り除いていくとことです。
もっともっと
生きやすくなることです。
そして
自分の存在の意義と価値を
どのように創出していくかだと
思います。
では
どうしたら
自分の中の他者と自分とを
止揚し
もっと有益に自分を生かせるか
を
次回書こうと思います。

書かなくちゃあね~。
つまり
もう私の目標だった70歳が
そこまで来たということです。
70歳の目標とは
このブログを書き始めたとき
70歳になった自分は
融通無碍、自由自在の
風のごときの自分でありたいと
目標を立てたからです。
風が吹き抜ける
草原のような平地の
自分です。
あと2年かあ~!
どんどん自分の中の対立を捨てていこう!
自分の脳と体に中にある他者との対立が
そのまま
外部世界へと
まるで影絵のように投影している。
だからこそ人間は
他者から愛されることで
自分の存在の確かさを確認し
他者から
認められると
その存在の意義を
感じる。
だから
どうしても
他者および
他者の集合の社会に対して
愛と認知を
求めてしまうのですね。
しかしその他者も社会もが
いわゆる
影絵(幻想)のようなものなのですから
そういう愛と承認を得ても
時間と共に
消えちゃう・・・トホホホ!
所詮
それらも
たいしたこともなく
それらに期待と依存をしても
たかがしれている。
さらに
そういう他者も社会をもが
本当は
自分の中に存在する他者との矛盾を
解決できないかぎり
もがくのです。
人間という生き物の
そういう限界の中で
宗教がうまれて来たのだと
思います。
自分も他者も、
そして
社会をも
超越し
包括する
第三の存在・・・・としての神および
それに類する存在。
を
人間が
ひねり出した、
創りだした。
自分が解決できなくとも
いずれ
神が
解決してくれる。
自分が相手を罰することができなくても
いずれ
神の天罰がくだる。
自分は人間に愛されなくとも
神に
愛されている。
自分の些細な罪も
神は赦してくれている。
この世で不幸であろうと
あの世では
天国に行ける
この世で金持ちになっても
あの世では
地獄に落ちるかもしれない。
神の大いなる意志に添っていきることこそが
つまり
そのフレーム内で生きることこそが
安定でもある。
神は
なんと
便利で
都合のいいものなのだろうか・・?
宗教は人間の不安定を
逆手にとって自己増殖し
最終的には
その無意識領域までにも浸透し
心理支配していきました。
すごいね~!
その心理規範を逆手に
王をも超え
全知全能の神として
権力と支配を
獲得していきました。
なかでもキリスト教は
人間の罪悪感を盾にとる
大パラドックスの中で
見事に世界宗教へとなっていきました。
大パラドックスというのは
人間はもともと罪深いものであり
キリストはその人間の罪を一切背負い
十字架にかけられたと
いうことです。
神の子として
無心に人間を愛し無抵抗のキリストを
人間が
殺してしまったということです。
人間はその神の言葉を伝えようとするキリストを
迫害し十字架につけてしまったことを
償わなければならない。
そこに
人間の原罪があるのだど
気づかせようとするために
キリストは神の意志によって
人間に殺されたしまった。
それは人間を救おうとする
大いなる神の愛の大いなる働きである。
だからこそ人間は
イエス・キリストを通して
神の愛にこたえなければならない。
自分の罪を認識させ
さらに
悔い改めるという回心=神への服従の誓いが
巧妙にパラドックスとして効き
人間を囲いこんでいます。
神の愛と規範の中で
常にその生き方を
問われ
修正し,告解し
神とむきあわなければ
ならない。
という神のフレームの中に
人間世界を
囲い込んだのです。
釈迦の世界も
最初の設定に「苦」があり
その「苦」をいかに乗り越えるかを
説いていきます。
まあ、ここで宗教を詳しく書くことは
置くとして
つまり
なぜ宗教が生まれてきたかは
人間の脳と心理の中にある
他者の存在である
<自分とあなた>
<自分と相手>の具体的関係から
どんどん人間とその関係が
抽象化されていき
最終的には
人間一般と「人間を超越するもの=神」との関係にまでに
抽象化していくことで
人間と他者との問題を
解決していった!
と
いうところが
実はとても重要であり
私たちはそこに視点を落とし
考える必要があるのです。
その「人間を超越するもの」の上空から
見おろした人間世界は
地上の上下や段差をこえて
平等であり、公平であり、そしてみんな
たかが知れている存在です。
宗教とは
このように
自分と他者とを
どのように止揚していくかを
人間が考え出したものであると
いうことです。
ただし
宗教の大きな問題点は
最初に
人間否定があることです。
エデンの園でアダムとイヴが犯した原罪も
釈迦のいう「苦」も
人間とはなにか・・・という認識が
否定から入っています。
だからこそ
そこに規範が生まれ
その規範が人間の潜在意識までをも
規定し、支配し
その有効性において
世界宗教として
生き延びてきたのです。
そして宗教は
統治機構としても
大変有効であったということです。
だからこそ
各国王もそれを隠し玉にし利用し
民衆を統治し
聖徳太子も
仏教を日本に持ち込んだのです。
しかし
もう
それらの宗教を超越する時代へと
人間は踏み込みました。
と
私はそう思って世界を見ていますが。
注目すべきは
宗教を作り出す
人間の能力の凄さです。
さらに
宗教をもってして
個々の人間の自己矛盾と苦しみを
解決しようとした
人間の脳のもつ抽象化する能力と
解決能力のすばらしさです。
それこそが
人間が獲得した大脳新皮質の働きであり
人間が
人間たる所以です。
ここを大いに磨くことこそ
そこに
解決の道があると
いうことです。
自分の中の他者も
自分が
抽象化している
人間像です。
まあ、その始まりは
幼児期、および成長期の人間関係
つまり親やそれに類する人々とのあいだで
獲得したものが
自分の中に棲みこんでしまったのですが
その原像(元イメージ)をもとに
人間は自分の人間観を
ドンドン抽象化していきます。
それがやがては
どこの誰だかわからないが
自分が脅されたり
脅かされたりするシャドウと
なって自分の中の不安や恐れを
増幅していくのです。
だからこそ
一番の手がかりは
幼児期、および成長期の
人間関係で
自分はどのような人間観を
獲得したかです。
つまり自分は
どのように
人間とは・・を思い込んだからです。
自分の中の他者とは
どういう脳の現象であるかも
そのうちには
解明されるでしょう。
しかし
その前に
私たちが自分で出来ることは
自分のなかに棲み込む他者が
もたらす否定を
取り除くことで
自分の脳を健康にし
ストレスを取り除いていくとことです。
もっともっと
生きやすくなることです。
そして
自分の存在の意義と価値を
どのように創出していくかだと
思います。
では
どうしたら
自分の中の他者と自分とを
止揚し
もっと有益に自分を生かせるか
を
次回書こうと思います。

by denshinbashira
| 2015-04-28 11:11
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