2015年 05月 12日
本をくれた二人に贈ります。その2 |
出遭ったときに
相手の<存在の重さ>を
どれくらい感じるかこそが
大切で
それを知識の分量で量ってしまうと
もう
そこでその人間は相手のことを
それだけしか理解できない。
なぜなら
人間は
自分の中の
<言葉にならない>あるいは
<言葉にはできない>世界や
知識では<明文化>できない
世界のほうが
はるかに多い中を
生きているからです。
だから
出遭うというのは
初めから
知識と知識を論じる場合は別ですが
会った瞬間に
相手の存在の重さと
自分の存在の重さとが
出遭うのです。
そういうことが見えていないと
相手の存在を
軽く扱ってしまうのです。
※自分の頭を知識のほうへ
シフトさせている人間は
どうしてもそういう風に
人間を図ってしまうんだね。
さらに
会った瞬間に
自尊意識が高い人は
相手の事も
自分の自尊意識の
<赦せる範囲>で
図ってしまうので
どうしても
目が曇ってしまうのです。
自分の自尊意識というのは
いわゆる
根拠のない自意識です。
ほんとうは
劣等意識が強いほど
自尊意識は
高くなるのですが
しかし
その優、劣の意識の内容そのものこそは
人間が創り出した序列の幻想に基づいて
自分や他者を格付けしたり
反対に
裁断したりしているもので
その人間の
<存在の重さ>に比べれば
はるかに
根拠もなく
空疎な格付けに過ぎないのです。
存在と存在が出遭うということは
そこに
自分の丸ごとと
相手の丸ごとが
出遭っていることです。
だから
自分の中を
小賢しくめぐる
そういう知識の格付けや
相手と自分の優劣などを
捨てて
<空っぽ>の状態でないと
ダメなのです。
そうでないとつい
相手のことを
自分の頭の中の分量で
見てしまうのですね。
つまり
頭だけが
小賢しく働いて
体が働かないのです。
では
体が働くというのは
どういうことかというと。
相手からくる
存在の息吹を
五感で感じると同時に
体も感じている。
目には見えない
或いは
言葉にはできない
そういう
相手のオーラみたいなものを
頭でも
体でも
受け止め
◎愛そうとする、愛おしもうとする。
そして
そういう自分は安心し
リラックスしているから
相手のことを
ビンビン感じとれる。
勿論
肯定的にだよ。
そういう自分でないと
つい
意識の中のものさしで
相手を値踏みしたり
時に
優越感や
劣等感に囚われて
相手を見てしまうのですね。
この目には見えな
言葉にはならない
相手の<存在の重さ>に対して
こころを開き
尊厳をもっているかどうか。
そういうまなざしをで
みているかどうかが
とても
大切なんだね。
自分を
この
<空っぽ>のところに
たてるようになると
どんな相手も
その人が自分の人生と
戦っていることが
分かってくる。
お互いが
人生を戦っていることが
見えて
愛おしくなるんだね。
戦友としてさ!
こころのどこかで
自分はエライという
自尊意識が働くと
目が曇り
小さい小さい自分でしかなくなります。
※この自尊意識というのが
瞬間芸で働いてしまうので
なかなか自分がそういう意識水準にいる
ということに気が付かにない。
気が付かないでついそうなっているんだね。
そして、そういう自尊意識がたいがい
親からバトンされているケースが多いです。
だからよけい気づけないのだね。
そしてそこには
自分では気づかないけれど
常に他者と
<対立>している自分を
造りだしてしまうのです。
そういう自分に気づくのは
なかなか難しいけれど
気づけるといいね。
気づくだけで
眼差しがかわってくるよ!
そんなもんなんだね。

今年はラベンダーが豊作です。
相手の<存在の重さ>を
どれくらい感じるかこそが
大切で
それを知識の分量で量ってしまうと
もう
そこでその人間は相手のことを
それだけしか理解できない。
なぜなら
人間は
自分の中の
<言葉にならない>あるいは
<言葉にはできない>世界や
知識では<明文化>できない
世界のほうが
はるかに多い中を
生きているからです。
だから
出遭うというのは
初めから
知識と知識を論じる場合は別ですが
会った瞬間に
相手の存在の重さと
自分の存在の重さとが
出遭うのです。
そういうことが見えていないと
相手の存在を
軽く扱ってしまうのです。
※自分の頭を知識のほうへ
シフトさせている人間は
どうしてもそういう風に
人間を図ってしまうんだね。
さらに
会った瞬間に
自尊意識が高い人は
相手の事も
自分の自尊意識の
<赦せる範囲>で
図ってしまうので
どうしても
目が曇ってしまうのです。
自分の自尊意識というのは
いわゆる
根拠のない自意識です。
ほんとうは
劣等意識が強いほど
自尊意識は
高くなるのですが
しかし
その優、劣の意識の内容そのものこそは
人間が創り出した序列の幻想に基づいて
自分や他者を格付けしたり
反対に
裁断したりしているもので
その人間の
<存在の重さ>に比べれば
はるかに
根拠もなく
空疎な格付けに過ぎないのです。
存在と存在が出遭うということは
そこに
自分の丸ごとと
相手の丸ごとが
出遭っていることです。
だから
自分の中を
小賢しくめぐる
そういう知識の格付けや
相手と自分の優劣などを
捨てて
<空っぽ>の状態でないと
ダメなのです。
そうでないとつい
相手のことを
自分の頭の中の分量で
見てしまうのですね。
つまり
頭だけが
小賢しく働いて
体が働かないのです。
では
体が働くというのは
どういうことかというと。
相手からくる
存在の息吹を
五感で感じると同時に
体も感じている。
目には見えない
或いは
言葉にはできない
そういう
相手のオーラみたいなものを
頭でも
体でも
受け止め
◎愛そうとする、愛おしもうとする。
そして
そういう自分は安心し
リラックスしているから
相手のことを
ビンビン感じとれる。
勿論
肯定的にだよ。
そういう自分でないと
つい
意識の中のものさしで
相手を値踏みしたり
時に
優越感や
劣等感に囚われて
相手を見てしまうのですね。
この目には見えな
言葉にはならない
相手の<存在の重さ>に対して
こころを開き
尊厳をもっているかどうか。
そういうまなざしをで
みているかどうかが
とても
大切なんだね。
自分を
この
<空っぽ>のところに
たてるようになると
どんな相手も
その人が自分の人生と
戦っていることが
分かってくる。
お互いが
人生を戦っていることが
見えて
愛おしくなるんだね。
戦友としてさ!
こころのどこかで
自分はエライという
自尊意識が働くと
目が曇り
小さい小さい自分でしかなくなります。
※この自尊意識というのが
瞬間芸で働いてしまうので
なかなか自分がそういう意識水準にいる
ということに気が付かにない。
気が付かないでついそうなっているんだね。
そして、そういう自尊意識がたいがい
親からバトンされているケースが多いです。
だからよけい気づけないのだね。
そしてそこには
自分では気づかないけれど
常に他者と
<対立>している自分を
造りだしてしまうのです。
そういう自分に気づくのは
なかなか難しいけれど
気づけるといいね。
気づくだけで
眼差しがかわってくるよ!
そんなもんなんだね。

by denshinbashira
| 2015-05-12 03:21
| 光の中で
|
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