2015年 05月 16日
シャドウなんか 消えちまえ!最終回 祈りの中に! |
このところずーっと
ドストエフスキーの
「カラマーゾフの兄弟」を読んでいます。
あと少しで読み終わりますが
この壮大な小説で
ドストエフスキーが
光とシャドウについての腕を奮い
存分に書き尽くしています。
光はゾシマ長老の世界で
影はスメルジャコフです。
登場人物たちはその間で
揺れ動いていきます。
この小説については
後日詳しく書こうと思います。
そのなかで、もう死の床にあるゾシマ長老の
言葉が書かれています。
「青年よ、祈りを忘れてはならない。
その祈りが真剣なものであるなら、
祈るたびに新しい感情がひらめき、
かつてしらなかった新しい思想が
そこに生まれて、
改めて励まされるであろう。
そしてその祈りが修養であることを
理解するだろう。」
「毎日、毎時、毎分、
おこたりなく自分をかえりみて、
自分の姿が美しくあるように
心がけなさい」
私も朝起きると祈ります。
そして夜、寝る寸前にも祈ります。
祈りこそが自分を変えていくものであると
思います。
また
祈りの中で自分が
救われます。
人間がキリスト教のいうように
罪深いものであるかないかは
分かりませんが
人間がいつも善と悪、光と影の境目を
彷徨うことは
たしかです。
そこにある自分の自我の汚れは
取っても、とっても
なかなか取れません。
自分で自分が嫌になるほど
それは
思い通りには
なってくれません。
だからこそ
私は祈るのです。
ほんの少し、
つかの間の間ですが
祈りに自分を集中させて
自分の心を整えます。
ソジマ長老の言葉のように
祈りは
祈るうちに
自分が陥ってしまった迷路やどぶの中から
少し出口が見えてきます。
そこに
新しい変容が射しこんできます。
そして
自分をごまかすことなく
怠りなく自分を見つめることで
自分に喝を入れることもできます。
祈りは
誰もしらない
自分と
自分を超越する者とのなかでおきる
愛の世界です。
ゾシマのことばでいうと
「謙虚な愛でとらえよう!」という
世界です。
その愛の世界は
「愛の謙虚さーそれは恐ろしい力、
すべてのなかで一番恐ろしい力である
それに類するものなど
何ひとつない」
恐ろしいとは
それほど
なにものにも対抗する
大きく、強い力を発揮する
ということだと私は思います。
愛だけでなく
「愛の謙虚さ」の世界
ですぞ。
私たちのこころは
たくさん
たくさん
傷ついています。
たくさん
たくさんの
不信や否定の感情が
蠢いています。
だからこそ
人間は罪深い存在だと
イエスは説いたのかもしれません。
そういう傷も
否定や不信の感情も
愛の謙虚さのところに
自分を立たせるだけで
すべてが、
全体が
見えてきます。
あゝ
自分も他者も同じように
他者も自分も同じように
傷つき
不信と否定に悩まされているのだと
分かってきます。
だから祈る世界の
その
謙虚ということは
※ 謙遜ではありませんよ、謙虚ですよ!
自分を常に新しく生き直す
魔法の世界なのです。
上から目線でもなく
横目線でもなく
●地からの目線です。
地からの目線は
すべての人間が平等に見える目線です。
そして
毎日、毎時、毎分
おこたりなく自分をかえりみる。
そういう厳しさでいいです。
そういう厳しさを自分に課しているからこそ
自信が生まれ
自己肯定の中で
振り返らないのですよ!
自分の姿が美しくあるように
だからもう
シャドウなんかに
踊らされない!
どうですか、
鏡の中の自分は
美しいですか?
厳しいですか?
そして
優しいですか?
そしてね、
誰の中にもいるシャドウ!
自分の中のシャドウを
その傷ついた自尊心を
抱きしめなさいよ。
抱きしめて癒し
受け入れ
一緒にいきるのです。
それは
自分の中にある
光と影と
その
両方の自分を知る
自分です。
●光と影がおりなす綾のなかで
複雑で
豊かで
美しい
自分の世界!
その端から端までの
パノラマのようにひろがる
自分の
全体世界、
で
生きようとする
自分です。
さて、
これで『シャドウなんか消えちまえ!』を
終わりにします。
今日から肺癌で64歳で亡くなった
義兄の7回忌の法事があり
岐阜へと行ってきます。
今日は名古屋で泊まり。
そのあと奈良で泊まってきます。
義兄の人生も大変だったと思い、
胸が痛みます。
でもそれは
誰もが
そういう試練の中を
生きているのでしょう。

では
少しお休みしますので
よろしくお願いいたします。
※非公開のコメントは
お受けしていません。
ドストエフスキーの
「カラマーゾフの兄弟」を読んでいます。
あと少しで読み終わりますが
この壮大な小説で
ドストエフスキーが
光とシャドウについての腕を奮い
存分に書き尽くしています。
光はゾシマ長老の世界で
影はスメルジャコフです。
登場人物たちはその間で
揺れ動いていきます。
この小説については
後日詳しく書こうと思います。
そのなかで、もう死の床にあるゾシマ長老の
言葉が書かれています。
「青年よ、祈りを忘れてはならない。
その祈りが真剣なものであるなら、
祈るたびに新しい感情がひらめき、
かつてしらなかった新しい思想が
そこに生まれて、
改めて励まされるであろう。
そしてその祈りが修養であることを
理解するだろう。」
「毎日、毎時、毎分、
おこたりなく自分をかえりみて、
自分の姿が美しくあるように
心がけなさい」
私も朝起きると祈ります。
そして夜、寝る寸前にも祈ります。
祈りこそが自分を変えていくものであると
思います。
また
祈りの中で自分が
救われます。
人間がキリスト教のいうように
罪深いものであるかないかは
分かりませんが
人間がいつも善と悪、光と影の境目を
彷徨うことは
たしかです。
そこにある自分の自我の汚れは
取っても、とっても
なかなか取れません。
自分で自分が嫌になるほど
それは
思い通りには
なってくれません。
だからこそ
私は祈るのです。
ほんの少し、
つかの間の間ですが
祈りに自分を集中させて
自分の心を整えます。
ソジマ長老の言葉のように
祈りは
祈るうちに
自分が陥ってしまった迷路やどぶの中から
少し出口が見えてきます。
そこに
新しい変容が射しこんできます。
そして
自分をごまかすことなく
怠りなく自分を見つめることで
自分に喝を入れることもできます。
祈りは
誰もしらない
自分と
自分を超越する者とのなかでおきる
愛の世界です。
ゾシマのことばでいうと
「謙虚な愛でとらえよう!」という
世界です。
その愛の世界は
「愛の謙虚さーそれは恐ろしい力、
すべてのなかで一番恐ろしい力である
それに類するものなど
何ひとつない」
恐ろしいとは
それほど
なにものにも対抗する
大きく、強い力を発揮する
ということだと私は思います。
愛だけでなく
「愛の謙虚さ」の世界
ですぞ。
私たちのこころは
たくさん
たくさん
傷ついています。
たくさん
たくさんの
不信や否定の感情が
蠢いています。
だからこそ
人間は罪深い存在だと
イエスは説いたのかもしれません。
そういう傷も
否定や不信の感情も
愛の謙虚さのところに
自分を立たせるだけで
すべてが、
全体が
見えてきます。
あゝ
自分も他者も同じように
他者も自分も同じように
傷つき
不信と否定に悩まされているのだと
分かってきます。
だから祈る世界の
その
謙虚ということは
※ 謙遜ではありませんよ、謙虚ですよ!
自分を常に新しく生き直す
魔法の世界なのです。
上から目線でもなく
横目線でもなく
●地からの目線です。
地からの目線は
すべての人間が平等に見える目線です。
そして
毎日、毎時、毎分
おこたりなく自分をかえりみる。
そういう厳しさでいいです。
そういう厳しさを自分に課しているからこそ
自信が生まれ
自己肯定の中で
振り返らないのですよ!
自分の姿が美しくあるように
だからもう
シャドウなんかに
踊らされない!
どうですか、
鏡の中の自分は
美しいですか?
厳しいですか?
そして
優しいですか?
そしてね、
誰の中にもいるシャドウ!
自分の中のシャドウを
その傷ついた自尊心を
抱きしめなさいよ。
抱きしめて癒し
受け入れ
一緒にいきるのです。
それは
自分の中にある
光と影と
その
両方の自分を知る
自分です。
●光と影がおりなす綾のなかで
複雑で
豊かで
美しい
自分の世界!
その端から端までの
パノラマのようにひろがる
自分の
全体世界、
で
生きようとする
自分です。
さて、
これで『シャドウなんか消えちまえ!』を
終わりにします。
今日から肺癌で64歳で亡くなった
義兄の7回忌の法事があり
岐阜へと行ってきます。
今日は名古屋で泊まり。
そのあと奈良で泊まってきます。
義兄の人生も大変だったと思い、
胸が痛みます。
でもそれは
誰もが
そういう試練の中を
生きているのでしょう。

少しお休みしますので
よろしくお願いいたします。
※非公開のコメントは
お受けしていません。
by denshinbashira
| 2015-05-16 11:34
| カウンセリングノート
|
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