2015年 05月 22日
「カラマーゾフの兄弟」・謙虚の極みにこそ、希望が生まれる。 |
ほんとうは「日本は戦争のできる国になったか」のその2を
書こうと思っていましたが、
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を
読み終え、
ドストエフスキーから
ドンと渡されたものが体の中で重くあり、
今日はそのことを
少しだけ書きます。
少しだけというのは
読み終えたばかりで
その塊みたいなものの
そこに整理がつくまで
時間が必要だからです。
しかし
その根源にあるものだけは
つまり
これを書き終えたのち
数週間で亡くなったドストエフスキーの中に
何が芽生えていたかが
うっすらと
わかる気がしました。
50年前の高校生の時には
ほとんど理解できていなかったことが
68歳という歳を経た今、
体内に水が流れて抜けていくように
彼の言葉が
私の中に沁みとおって
行きました。。
本の中に沈み込み
鉛筆を片手に
一行も流して読むことなく
時に何度も繰り返しては
読みました。
集中の中
読み疲れて
本をひらいたまま
眠り込んでしまうこともありましたが
しかし
再びページに目をやると
彼の書いたひとこと
その一行の素晴らしさに
目が吸いついて行きました。
これは意訳を含め
訳者の亀山郁夫さんの
功績でもあります。
カラマーゾフの三兄弟の
長男ドミートリーの父親殺しの罪を
巡って
浮彫りにされていく
「人間とは。」
さらに神の「有無」を巡り
人間の「原罪」を巡り
さらにキリスト教社会と
その後のロシアに台頭してくる
資本主義と社会主義を
巡り
ドストエフスキーが
渾身で向き合っていきます。
それは
<キリスト教の神の規範>の
桎梏に対しての
葛藤でもあり
神を否定したあとの人間が
何と向き合うのかという
恐ろしい難題に挑んでいます。
もしかしたら
聖書を読んでいないと
なかなか
理解できないかも
しれませんね~。
覆ってくる試練の中で
問いかけても
問いかけても
神が沈黙するなかで
ドストエフスキーが
問いかけます。
しかし、
私もたくさん苦しんだおかげで
すこしだけ
答えがわかったような気がしました。
ここには大きな二つのテーマがあるように
思います。
それはこれからの人間が
直面せざるえない
深い精神世界の難題で
しかしそこに
ドストエフスキーは
うっすらとした光の出口を
指し示しているように
思いました。
そして
読み終えたとき
こういう言葉が
浮かびました。
●「謙虚の極みにこそ
希望が生まれる。」
これが
ひとつのテーマの答えのように
思いました。
物語の最初
何とも人間らしい
醜い遺産を巡る
骨肉の争いや
欲望の渦の中にいる
カラマーゾフの家族とその親類の人間が
それを解決すべく
三男アリョーシャの所属する修道院の長老
ゾシマの庵室で
会議をはじめます。
※ゾシマは人々の間で
聖人のように
大きな尊敬を受けている
長老です。
アリョーシャはその長老に愛されている
修道者の見習い弟子です。
特に父親フヨードルの
奔放で、粗野で
自己中心的で幼児性のつよい
しかし、正直でもあり
ひとつも洗練されていない
野生の自我に
三人の息子が向き合うのですが
お互いの身勝手な言い分のなかで
収拾がつきません。
なかでも
長男のドミートリーは
ひとりの魅力的な女性を巡り
父親と対立してしています。
父親がもしその女性と
結婚してしまえば
恋人も遺産も
奪われてしまうという中で
ドミトリーと父親との間で
憎しみが募り、
二人が興奮して
今にも決闘しかねない中、
相手をころしかねない中
長老ゾシマが
ドミートリーの足元に
ひれ伏してしまいます。
この突然の長老の行為の真意を
その場にいる者は
誰も理解できない。
あまりにもバカバカしいくらい
身勝手な父親と息子の争い
その収拾がつかない中で
この会議は空中分解してしまうのですが
後で長老ゾシマは
自分がドミートリの足もとに
ひれ伏したのはなぜかを
アリョーシャに語ります。
それはドミトリーの身に
なにか恐ろしいことが起きること。
そこにある不吉な大きな苦悩をの予兆を
感じとったこと。
彼の運命の過酷さに
ゾシマはドミートリーを痛み、
彼の足もとにひれ伏したのです。
さて
物語は
父親フヨードルが
何者かに殺され
その嫌疑がドミートリーにかかります。
そして
最終的には
無罪であるにもかかわらず
ドミートリーは
有罪の判決を受け
冤罪のまま
シベリアへと送られていきます。
※どうぞ詳しくは
本を読んでください。
なぜゾシマは
ドミトリーの足もとへひれ伏したのか?
物語は
この父親殺しを巡って
人間の軋轢が
見事に展開されていきます。
最初は圧倒的に不利な証拠ばかりの中で
裁判は始まります。
しかし次第に
ドミトリーが犯人である決定的証拠がないことや
ドミトリーの心理を巡って検事と弁護士との
法廷弁論の中
次第にドミトリーが無罪であろうということに
なりかけます。
しかし
嫉妬にかられ
ヒステリーを起こした
ドミトリーの婚約者の女性が
ドミトリーが酔っ払って書いた
父親殺しを予言する紙を
証拠として提出してから
風向きが変わっていきます。
そして最後は有罪の判決を
言い渡されます。
つまり
有罪の判決は
それまでの
いっさいを
全否定してしまうのです。
ここにこそ私は
物語の冒頭で
なぜ長老ゾシマが
ドミトリーの足もとへ
ひれ伏したかの
符牒を見ます。
あれほど展開された
無実を訴えるものが
最終的には
一切が全否定されてしまう。
つまり
愛憎や所有や執着や
この世的な価値など
ドミートリーのアイデンティティーが
否定され
足もとから
崩れていく。
しかし
しかし本当は
ここからこそ
希望が始まるのですよ。
なぜか?
ここには人間の最大の課題である
・「自我の汚れ」
・人間の「本能的欲望」の問題と課題が
あるのです。
いっさいに自分が否定されて
自分は大した人間ではない。
自分は何人よりも
劣っているかもしれない
そういう自覚、
そういう意識が
生まれたときこそ
実はそこには
大きな視野の平野が
広がります。
そして
たくさんの人々と
根底において
自分がつながるのです。
自分がしがみついていた
この世的な序列や価値や所有が
いっさい紙屑同様に
捨てられた時こそ
こころが
聖なる水(清らかな水)に
洗われていくのです。
私はかの人よりも
優れている。
私はかのひとよりも
知識がある
分かっている。
見えている。
という
おごりと
傲慢の中に
いる限り
なにも優れてもいない
見えていない
理解もしていない
むしろ
そういう傲慢とおごりが
邪魔して
なにも
理解できて
いないのです。
ただ
この<謙虚の極み>
の一点においてだけ
すべてが
見えてきて
分かってくるのです。
もし無罪になったらドミトリーは
この境地などには
見向きもしないでしょう。
いっさい
至りもしないでしょう。
事件の前の自分を保持したまま
善良ではあるが
相変わらず
自己中心的で
奔放で
この世的な欲望に執着することから
脱せません。
しかし
いっさいが否定されたとき
言い訳も
証明も
いっさいが
はねつけられ
全否定されたドミトリーの中に
少しずつ
神の光が射してきます。
カウンセリングの終着である
「死と再生」のプログラムにおいては
それまでの
・いっさいの自分が死に
その代りに
新しい自分、
・新生なる自分が
生まれてきます。
自分が身に着けてしまった
・自我の垢
・感情の毒
・本能的欲望
そして不安からくる
・所有や
・支配の欲求意識が
いっさい消える(否定される)ことで
自分がそういう風に
打ちのめされることで
実は
瑞々しく、
すがすがしい
いっさいを放棄し
いっさから
解放された
自分へと生まれ変わります。
でもね~、
これこそがもう
至難の業なんです。
死ぬほどの苦しい思いをしないと
ここまでは
行けないのです。ホントにね~。
長老ゾシマがドミトリーにひれ伏し
おそらくその足の
接吻したのは
ドミートリーがその試練に
耐えていけるように
祈り
愛し慈しみ
そして
その耐えるなかにこそ
希望があることを
体現したのだと
思います。
有罪を受けざるをえない
ドミートリーを
痛み憐れみ
ひれ伏したのでしょう。
しかし
それは
終わりではなく
ドミートリーを
信頼し
始まりを確信していりるからです。
人のこころの中など
誰も
分かりえるはずがないのです。
それほど
人の心は複雑で深淵なのです。
ゆえに
人が人など
裁きえないのです。
すべての人間が
そういう
試練と確執と葛藤の中に
生きている。
この物語は
死を前にして
人々を受け入れ
愛し
そして一緒に生きる
ドフトエフスキーがいたのではないかと
私は思います。
そしてゾシマは死んでいきます。
この物語は
ヨーロッパにおきた市民革命と
産業革命ののちに
近代へと進む時代の中で
それまでの西欧を支配し
神秘とされていた
キリスト教の<神>の問題が
科学の進化とともに
人間の中に
嵐のような葛藤を
産み出していきます。
そういう中で
人間とは
神とは
生とは、死とは
さらに
人間に課されている課題とは何かを
ドストエフスキーが
突き詰めていきます。
知的で哲学的な考察の中で
苦しむ
無神論者の次男イワン
そして
子供のように純粋で
清らかな目をもち
神の従者となろうとする
三男のアリョーシャ。
さらに
その間で
理性よりも野放図で
感情や本能的欲望に
生き
シベリアでの過酷な日々を
受け入れようとする
長男ドミトリー。
自分に正直ではあるが
粗野で野性的で、無学な中に奔放に生き、
人間の<欲>を体現したような
父親ヒョードル。
しかしドストエフスキーはなぜか
この父親に
自分の名前をつけています。
そこにひそやかなる
こういう人間への
ドストエフスキーの愛を
私は感じます。
今日は
私が感じ取った二つのテーマのなかの
一つを書きましたが
もう一つ
ドストエフスキーが
私たちにくれた
大きな大きなテーマがあります。
それはまさに
彼がその死後の未来を生きる
私たちに
託し
贈ってくれたものであると
私は思います。
次回は
そのことを
書きたいと思います。

山法師。光が眩しい!
書こうと思っていましたが、
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を
読み終え、
ドストエフスキーから
ドンと渡されたものが体の中で重くあり、
今日はそのことを
少しだけ書きます。
少しだけというのは
読み終えたばかりで
その塊みたいなものの
そこに整理がつくまで
時間が必要だからです。
しかし
その根源にあるものだけは
つまり
これを書き終えたのち
数週間で亡くなったドストエフスキーの中に
何が芽生えていたかが
うっすらと
わかる気がしました。
50年前の高校生の時には
ほとんど理解できていなかったことが
68歳という歳を経た今、
体内に水が流れて抜けていくように
彼の言葉が
私の中に沁みとおって
行きました。。
本の中に沈み込み
鉛筆を片手に
一行も流して読むことなく
時に何度も繰り返しては
読みました。
集中の中
読み疲れて
本をひらいたまま
眠り込んでしまうこともありましたが
しかし
再びページに目をやると
彼の書いたひとこと
その一行の素晴らしさに
目が吸いついて行きました。
これは意訳を含め
訳者の亀山郁夫さんの
功績でもあります。
カラマーゾフの三兄弟の
長男ドミートリーの父親殺しの罪を
巡って
浮彫りにされていく
「人間とは。」
さらに神の「有無」を巡り
人間の「原罪」を巡り
さらにキリスト教社会と
その後のロシアに台頭してくる
資本主義と社会主義を
巡り
ドストエフスキーが
渾身で向き合っていきます。
それは
<キリスト教の神の規範>の
桎梏に対しての
葛藤でもあり
神を否定したあとの人間が
何と向き合うのかという
恐ろしい難題に挑んでいます。
もしかしたら
聖書を読んでいないと
なかなか
理解できないかも
しれませんね~。
覆ってくる試練の中で
問いかけても
問いかけても
神が沈黙するなかで
ドストエフスキーが
問いかけます。
しかし、
私もたくさん苦しんだおかげで
すこしだけ
答えがわかったような気がしました。
ここには大きな二つのテーマがあるように
思います。
それはこれからの人間が
直面せざるえない
深い精神世界の難題で
しかしそこに
ドストエフスキーは
うっすらとした光の出口を
指し示しているように
思いました。
そして
読み終えたとき
こういう言葉が
浮かびました。
●「謙虚の極みにこそ
希望が生まれる。」
これが
ひとつのテーマの答えのように
思いました。
物語の最初
何とも人間らしい
醜い遺産を巡る
骨肉の争いや
欲望の渦の中にいる
カラマーゾフの家族とその親類の人間が
それを解決すべく
三男アリョーシャの所属する修道院の長老
ゾシマの庵室で
会議をはじめます。
※ゾシマは人々の間で
聖人のように
大きな尊敬を受けている
長老です。
アリョーシャはその長老に愛されている
修道者の見習い弟子です。
特に父親フヨードルの
奔放で、粗野で
自己中心的で幼児性のつよい
しかし、正直でもあり
ひとつも洗練されていない
野生の自我に
三人の息子が向き合うのですが
お互いの身勝手な言い分のなかで
収拾がつきません。
なかでも
長男のドミートリーは
ひとりの魅力的な女性を巡り
父親と対立してしています。
父親がもしその女性と
結婚してしまえば
恋人も遺産も
奪われてしまうという中で
ドミトリーと父親との間で
憎しみが募り、
二人が興奮して
今にも決闘しかねない中、
相手をころしかねない中
長老ゾシマが
ドミートリーの足元に
ひれ伏してしまいます。
この突然の長老の行為の真意を
その場にいる者は
誰も理解できない。
あまりにもバカバカしいくらい
身勝手な父親と息子の争い
その収拾がつかない中で
この会議は空中分解してしまうのですが
後で長老ゾシマは
自分がドミートリの足もとに
ひれ伏したのはなぜかを
アリョーシャに語ります。
それはドミトリーの身に
なにか恐ろしいことが起きること。
そこにある不吉な大きな苦悩をの予兆を
感じとったこと。
彼の運命の過酷さに
ゾシマはドミートリーを痛み、
彼の足もとにひれ伏したのです。
さて
物語は
父親フヨードルが
何者かに殺され
その嫌疑がドミートリーにかかります。
そして
最終的には
無罪であるにもかかわらず
ドミートリーは
有罪の判決を受け
冤罪のまま
シベリアへと送られていきます。
※どうぞ詳しくは
本を読んでください。
なぜゾシマは
ドミトリーの足もとへひれ伏したのか?
物語は
この父親殺しを巡って
人間の軋轢が
見事に展開されていきます。
最初は圧倒的に不利な証拠ばかりの中で
裁判は始まります。
しかし次第に
ドミトリーが犯人である決定的証拠がないことや
ドミトリーの心理を巡って検事と弁護士との
法廷弁論の中
次第にドミトリーが無罪であろうということに
なりかけます。
しかし
嫉妬にかられ
ヒステリーを起こした
ドミトリーの婚約者の女性が
ドミトリーが酔っ払って書いた
父親殺しを予言する紙を
証拠として提出してから
風向きが変わっていきます。
そして最後は有罪の判決を
言い渡されます。
つまり
有罪の判決は
それまでの
いっさいを
全否定してしまうのです。
ここにこそ私は
物語の冒頭で
なぜ長老ゾシマが
ドミトリーの足もとへ
ひれ伏したかの
符牒を見ます。
あれほど展開された
無実を訴えるものが
最終的には
一切が全否定されてしまう。
つまり
愛憎や所有や執着や
この世的な価値など
ドミートリーのアイデンティティーが
否定され
足もとから
崩れていく。
しかし
しかし本当は
ここからこそ
希望が始まるのですよ。
なぜか?
ここには人間の最大の課題である
・「自我の汚れ」
・人間の「本能的欲望」の問題と課題が
あるのです。
いっさいに自分が否定されて
自分は大した人間ではない。
自分は何人よりも
劣っているかもしれない
そういう自覚、
そういう意識が
生まれたときこそ
実はそこには
大きな視野の平野が
広がります。
そして
たくさんの人々と
根底において
自分がつながるのです。
自分がしがみついていた
この世的な序列や価値や所有が
いっさい紙屑同様に
捨てられた時こそ
こころが
聖なる水(清らかな水)に
洗われていくのです。
私はかの人よりも
優れている。
私はかのひとよりも
知識がある
分かっている。
見えている。
という
おごりと
傲慢の中に
いる限り
なにも優れてもいない
見えていない
理解もしていない
むしろ
そういう傲慢とおごりが
邪魔して
なにも
理解できて
いないのです。
ただ
この<謙虚の極み>
の一点においてだけ
すべてが
見えてきて
分かってくるのです。
もし無罪になったらドミトリーは
この境地などには
見向きもしないでしょう。
いっさい
至りもしないでしょう。
事件の前の自分を保持したまま
善良ではあるが
相変わらず
自己中心的で
奔放で
この世的な欲望に執着することから
脱せません。
しかし
いっさいが否定されたとき
言い訳も
証明も
いっさいが
はねつけられ
全否定されたドミトリーの中に
少しずつ
神の光が射してきます。
カウンセリングの終着である
「死と再生」のプログラムにおいては
それまでの
・いっさいの自分が死に
その代りに
新しい自分、
・新生なる自分が
生まれてきます。
自分が身に着けてしまった
・自我の垢
・感情の毒
・本能的欲望
そして不安からくる
・所有や
・支配の欲求意識が
いっさい消える(否定される)ことで
自分がそういう風に
打ちのめされることで
実は
瑞々しく、
すがすがしい
いっさいを放棄し
いっさから
解放された
自分へと生まれ変わります。
でもね~、
これこそがもう
至難の業なんです。
死ぬほどの苦しい思いをしないと
ここまでは
行けないのです。ホントにね~。
長老ゾシマがドミトリーにひれ伏し
おそらくその足の
接吻したのは
ドミートリーがその試練に
耐えていけるように
祈り
愛し慈しみ
そして
その耐えるなかにこそ
希望があることを
体現したのだと
思います。
有罪を受けざるをえない
ドミートリーを
痛み憐れみ
ひれ伏したのでしょう。
しかし
それは
終わりではなく
ドミートリーを
信頼し
始まりを確信していりるからです。
人のこころの中など
誰も
分かりえるはずがないのです。
それほど
人の心は複雑で深淵なのです。
ゆえに
人が人など
裁きえないのです。
すべての人間が
そういう
試練と確執と葛藤の中に
生きている。
この物語は
死を前にして
人々を受け入れ
愛し
そして一緒に生きる
ドフトエフスキーがいたのではないかと
私は思います。
そしてゾシマは死んでいきます。
この物語は
ヨーロッパにおきた市民革命と
産業革命ののちに
近代へと進む時代の中で
それまでの西欧を支配し
神秘とされていた
キリスト教の<神>の問題が
科学の進化とともに
人間の中に
嵐のような葛藤を
産み出していきます。
そういう中で
人間とは
神とは
生とは、死とは
さらに
人間に課されている課題とは何かを
ドストエフスキーが
突き詰めていきます。
知的で哲学的な考察の中で
苦しむ
無神論者の次男イワン
そして
子供のように純粋で
清らかな目をもち
神の従者となろうとする
三男のアリョーシャ。
さらに
その間で
理性よりも野放図で
感情や本能的欲望に
生き
シベリアでの過酷な日々を
受け入れようとする
長男ドミトリー。
自分に正直ではあるが
粗野で野性的で、無学な中に奔放に生き、
人間の<欲>を体現したような
父親ヒョードル。
しかしドストエフスキーはなぜか
この父親に
自分の名前をつけています。
そこにひそやかなる
こういう人間への
ドストエフスキーの愛を
私は感じます。
今日は
私が感じ取った二つのテーマのなかの
一つを書きましたが
もう一つ
ドストエフスキーが
私たちにくれた
大きな大きなテーマがあります。
それはまさに
彼がその死後の未来を生きる
私たちに
託し
贈ってくれたものであると
私は思います。
次回は
そのことを
書きたいと思います。

by denshinbashira
| 2015-05-22 07:29
| 「カラマーゾフの兄弟」より
|
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