2015年 05月 23日
「カラマーゾフの兄弟」より、神の死を超越するもの! |
「カラマーゾフの兄弟」のもう一つのテーマとは。
それはキリスト教世界の規範とフレームを
いかに相対化するかであったと
思います。
つまり次男イワンのいう
「神によって創られた世界」が
矛盾をきたし、
それが息苦しく人間を追い詰め
崩壊し始めているというテーゼです。
有名なイワン自作の劇の詩である
「大審問官」のことはもう
語られ尽くされていると思いますから
私はそれは通りすごして
キリスト教の規範とフレームが
破綻したのちの荒涼たる世界に
人間は
何を打ち立てたらいいかを
ドストエフスキーが
書いているように思います。
そのことを書いてみようと
思います。
カラマーゾフ家の二男で
無神論者のイワンは
自身の中にも流れている
カラマーゾフ一族の
物欲と愛欲の権化のような人間の淵から
自己を相対化し
深い思慮と思惟の中沈みながらも
この世、つまり
キリスト教の規範とフレームの世界を
分析していきます。
そこはもはや息苦しい呪縛や桎梏となり
世界を犯しいるようにさえに
思っています。
しかしその発想は
反キリスト教の思想を
キリスト教に対峙させているため
キリスト教のフレームの中で
彼の意識が堂々巡りを
してしまいます。
つまり構造的には
キリスト教の枠を出ていないため
キリストの対局に悪魔の世界を対抗させることで
解決を図ろうとしますが
思惟が巡ってしまい
そこから抜け出られないのです。
そしてそこに登場するのは
キリストが荒野で対決した
あの悪魔です。
ドミトリーの裁判が始まる前の夜に
この悪魔がイワンの夢に出てきます。
それはイワンの精神を犯してゆき
イワンは幻覚症状を起こしてゆきます。
イワンもまた
キリスト教世界のフレームの中に
取り込まれた中での
格闘であるが故に
キリストの対局にある悪魔との確執の中で
もがき自滅しているのです。
しかしこのイワンを見つめる
ドストエフスキーがいます。
彼はキリスト教の枠(フレーム)内に限界を感じ
その枠外に飛び出すことを
試みたのではないかと
思います。
そこを飛び出して
もっと超越的な次元で
対立する
キリスト世界と悪魔世界を
止揚しなければならない。
その止揚した存在として
長老ゾシマと三男アリョーシャを
設定したのではないかと
私は思うのです。
長老ゾシマは
ロシア正教の教会での指導者ですが
しかし
ゾシマ自身はもうそういう教会や教団の枠を超えて
存在しようとしています。
勿論そこにはキリスト教の僧として
その教義に忠実であり
神の実在、霊魂の不滅、そして隣人愛を
説くのですが
しかしその存在は
それすらも超克した
「愛」一点へと
終結していっているようにすら
見えます。
だからこそ
彼はもう
不条理の中を生きるであろうしかない
ドミートリーの前にひれ伏し
彼のために祈ったのでしょう。
その愛とは彼のその死の際ことば
「神の子である民衆を愛してください。」と
いう言葉に
凝縮されていように
思います。
修道院の神父たちを前にした
最後の説教では
ここに来て(修道院に来て)
この壁の中に隠遁しているからといって
俗世の人々より神聖であることはない
むしろここに来ることは
俗世のだれよりも劣っているということを
自覚したことになる。
俗世の人たちより劣っているばかりか、
生きとし生けるものに対して罪がある。
それは
人間の罪、俗世の罪、個人の罪に
責任を負っていると
自覚した時はじめて
修道者としての目的が
果たせる。
と説きます。
この罪とは勿論
聖書に元ずく
キリスト教の原罪という意味もありますが
そもそも人間が
存在するということが
善と悪の狭間にしかないこと。
たくさんの垢や毒や闇のなかに
生きるしかない
そういう業の中に
人間が生きるというこそが
罪という
深い深い人間の深淵にあることを
指しているようにも
私は
思います。
人間の苦悩に対して
頭を垂れよ!
そこには
誰よりも自分に厳しく
謙虚であれという
ゾシマの愛が
見られます。
もはやキリスト教という
狭い枠をこえ
人間の苦悩を全身で
引き受けようとした
ゾシマです。
だからこそ
ゾシマは聖人のような尊敬を
受けたのですが。
しかし
そのキリスト教の神秘と権威を
ドストエフスキーは
覆してしまいます。
それは
彼の死後、ほとんどの信者が
彼を神格化し聖人として
その肉体の不滅を望み期待したにも
関わらず。
彼の遺体は腐臭を放ってきます。
つまり彼は
ふつうの人間と同じように
腐食していったのです。
そこにはキリストの不死の奇跡も
三日後の蘇りもありませんでした。
このゾシマに対峙させて
登場した無神論者イワンも
厳しい人間の隘路に立たされます。
神を失った人間が
むきあわねばならない現実。
その精神の
荒涼凄愴な
極北たる世界へと
立つことを
余儀なくされたのです。
※イワンの精神世界を
荒涼凄愴な極北と比喩したのは
松岡正剛さんですが
あまりにも適格で
これ以上の表現はないと思いましたので
それを引用させていただきました。
神の神秘及び
神の規範と
神への幻想を失い
神に依存することができなくなった人間の
精神活動が
よりどころを失い
むき出しの自分を抱えて
荒野を彷徨うしかなくなる世界です。
その人間の存在の厳しさは
まことに極北の中に立つしかないことを
ドストエフスキーは知っていたのでしょう。
逆に
そうだからこそ
人間は<神>という存在を
創り出し
神話化し
神秘化し
そして幻想化して
依存したのです。
神の手によって
創り出した秩序のフレームが
その効力を発揮する中で
かろうじて
人間はお互いを共存させて
生きてきたとも
言えます。
※仏教の世界も
同じように
原始仏教の修行の厳しさと
過酷さに耐えられなくなったからこそ
BC1世紀~AD3世紀にかけて
大乗仏教が出現し
現代に残こる
法華経や華厳経などの仏典が
編み出されていきました。
人間の想念は
何処へと終結していけばいいのか?
その最終点の不在は
人間を不安と恐怖に落とし入れるとともに
フレームのない世界は
個々の人間の想念の限りない膨張や
拡張を生んでしまいかねません。
だからこそ
すべての人間を統括し
フレーム化でき
そこに
共同の幻想を生み出すことができる
宗教が
人間の必然として
存在してきたのです。
これまでは
宗教の
その神格化と神秘が
幻想化されて
通用したということです。
しかし時代を経て
その幻想が覚め
そこにある矛盾が
一気に噴出してきている。
なぜなら
所詮人間が考えだしたものは
数々の矛盾を含まざるを得ないからです。
そして同様に
人間の存在そのものが
矛盾を含んでしか
存在できないからです。
人間は無意識と
それに逆立する意識の世界の
両方を孕みながら
生きているからです。
むしろ
その矛盾を埋めることが
生きる精神世界を生み出しているとも
言えます。
その神の存在と人間の存在の
拮抗する破れ目に
イワンは立っていると
言えます。
言い換えれば
ドストエフスキーも
同じように
立っている。
そして私自身も
心理や脳機能のことを
知れば知るほど
イワンと同じような
荒涼凄愴な極北の地
ぞっとするような虚無の地を
覗かざるを得ませんでした。
脳の機能と活動による
人間の意識と無意識及び
記憶のメカニズムの解明により
これまで神秘とされていたものが
解明されていくにつれ
脳と心理の関係および
そこからくる
人間(脳)の個絶こそは
神秘や幻想から
醒めざるを得ないのです。
その頃の私自身は
ひとりでその淵を覗きながらも
厳然たるその現実を
それを受け入れていくしかないと
覚悟を決めました。
人間は
ほんとうは
自身の思い込みの閉じられた世界で
それは
孤独の断崖の上で
かろうじて
幻想で繋がり
かろうじて
その真と虚の中で
綱渡りのよう繋がりながら
生きているというのが
真実です。
しかし
その幻想すらが
幻想であると
知ったとき
では
何をよりどころに
ひとは
生きていけばいいのか?
人間の本当の真実
ほんとうの現実が
これから
科学でドンドン解き明かされていくと思います。
最終的には
すべての人間が
この極北の地を見なければならなくなるかも
しれません。
それは100年後か200年後か
もっとかかるかもしれませんが。
しかしその極北の世界を受け入れたときこそ
人間は
争うことの愚かさを知るのだとも
思います。
そして
その厳しい現実認識から
また
新しい世界観がうまれるのであり
そこにこそ
ドストエフスキーの
贈り物があるのです。
ドストエフスキーの贈り物
とは
人間の脳の世界は
確かに個々に分断されて
個絶していますが
しかし
一方で
その個絶を止揚しようとする
機能もあると
いうことです。
それがこれまでは
宗教を生み出し
倫理を考えだし
そして
共同の幻想を
産み出してきました。
そういう風にして
人間を
生かしてきたのです。
人間の脳には
ネガティヴな感情や
否定的な感情や
攻撃を生み出す機能が
ありますが
一方
高邁なことや
尊いことや
美しいことに
反応していく
高次の機能も
あります。
それらは
その生命体(自分)を
生かしていくために
反応し
機能しています。
善と悪
光と闇の
両方を
包括しながら
人間が
生きてきたと
いうことです。
ドストエフスキーの時代は
まだまだ
脳に関しては
不明の時代でしたから
そのことを彼は
長老ゾシマという人間を
通して
さらに
アリョーシャと彼の仲間である
少年たち。
イリョーシャやコーリャや
スムーロフを
通して
読者に伝えようとしたのではないかと
思います。
つまり
究極には
愛の世界しかないこと。
その
人間の愛の世界は
なんであるかを
ゾシマを通して
語ろうとします。
それは
神の不在、
神の死を乗り越えて
なお
人間の裡に内在する
温かい血の流れる
息吹溢れる
人間の世界です。
ゾシマが説く
<謙虚の極みの愛>にこそ見えてくる
希望であり
他者を愛し
祈ることで
芽生える
人間愛の世界です。
そして<人間愛の世界>とは
自分が
<他者を愛する>ことで
初めて成立します。
自分が愛されることを望むことからは
始まらないのですよ。
人間が神や神秘から
自立し
さらに
自己の欲望や感情を
自分自身が超克し
人間が世界を
創造していく。
その未来を
ゾシマやアリョーシャや子供たちに
託したと
私は思います。
この物語の中の隠れたテーマに
幼児虐待のことがあります。
それも
自己のエゴにかられて
愛を貪る
人間の深層心理があります。
深い絶望と
不信と
愛への渇望という
愛の不在にこそその
苦い根があります。
それを人間が克服するためには
まず
自分が
愛を差し出すこと。
たとえ人間が
宗教や神や神秘という
幻想から
醒めても
それらを超越していける力が
人間の裡には
ある。
人間とは
関係性の中でいきている
生きものです。
だから
その関係性の中に
お互いへの信頼と愛とがあれば
お互いの故絶と孤独を止揚するものとして
ささやかな中に
希望がみえてくる。
そういう贈り物を
ドストエフスキーが
書き残してくれたように
思います。
さて
実はこの物語には
もう一つの隠れた
大きなテーマがあります。
それは
スメルジャコフという
真犯人でありながら
ドミートリーに罪をかぶせ
さらにそれを完成するために
自ら死んだ人間です。
スメルジャコフは
父親が知的障害をもった女性に産ませた
私生児であるかもしれない人間です。
カラマーゾフ兄弟の
異母弟でもあるかもしれない
という人間です。
このスメルジャコフこそ
カラマーゾフのシャドウとして
生きているのです。
次回はこの
シャドウ=スメルジャコフのことを
彼がなぜ自殺したのかも含めて
書いてみようと思っています。
長い文を
お疲れ様でした。

あでやかで楽しいね。
それはキリスト教世界の規範とフレームを
いかに相対化するかであったと
思います。
つまり次男イワンのいう
「神によって創られた世界」が
矛盾をきたし、
それが息苦しく人間を追い詰め
崩壊し始めているというテーゼです。
有名なイワン自作の劇の詩である
「大審問官」のことはもう
語られ尽くされていると思いますから
私はそれは通りすごして
キリスト教の規範とフレームが
破綻したのちの荒涼たる世界に
人間は
何を打ち立てたらいいかを
ドストエフスキーが
書いているように思います。
そのことを書いてみようと
思います。
カラマーゾフ家の二男で
無神論者のイワンは
自身の中にも流れている
カラマーゾフ一族の
物欲と愛欲の権化のような人間の淵から
自己を相対化し
深い思慮と思惟の中沈みながらも
この世、つまり
キリスト教の規範とフレームの世界を
分析していきます。
そこはもはや息苦しい呪縛や桎梏となり
世界を犯しいるようにさえに
思っています。
しかしその発想は
反キリスト教の思想を
キリスト教に対峙させているため
キリスト教のフレームの中で
彼の意識が堂々巡りを
してしまいます。
つまり構造的には
キリスト教の枠を出ていないため
キリストの対局に悪魔の世界を対抗させることで
解決を図ろうとしますが
思惟が巡ってしまい
そこから抜け出られないのです。
そしてそこに登場するのは
キリストが荒野で対決した
あの悪魔です。
ドミトリーの裁判が始まる前の夜に
この悪魔がイワンの夢に出てきます。
それはイワンの精神を犯してゆき
イワンは幻覚症状を起こしてゆきます。
イワンもまた
キリスト教世界のフレームの中に
取り込まれた中での
格闘であるが故に
キリストの対局にある悪魔との確執の中で
もがき自滅しているのです。
しかしこのイワンを見つめる
ドストエフスキーがいます。
彼はキリスト教の枠(フレーム)内に限界を感じ
その枠外に飛び出すことを
試みたのではないかと
思います。
そこを飛び出して
もっと超越的な次元で
対立する
キリスト世界と悪魔世界を
止揚しなければならない。
その止揚した存在として
長老ゾシマと三男アリョーシャを
設定したのではないかと
私は思うのです。
長老ゾシマは
ロシア正教の教会での指導者ですが
しかし
ゾシマ自身はもうそういう教会や教団の枠を超えて
存在しようとしています。
勿論そこにはキリスト教の僧として
その教義に忠実であり
神の実在、霊魂の不滅、そして隣人愛を
説くのですが
しかしその存在は
それすらも超克した
「愛」一点へと
終結していっているようにすら
見えます。
だからこそ
彼はもう
不条理の中を生きるであろうしかない
ドミートリーの前にひれ伏し
彼のために祈ったのでしょう。
その愛とは彼のその死の際ことば
「神の子である民衆を愛してください。」と
いう言葉に
凝縮されていように
思います。
修道院の神父たちを前にした
最後の説教では
ここに来て(修道院に来て)
この壁の中に隠遁しているからといって
俗世の人々より神聖であることはない
むしろここに来ることは
俗世のだれよりも劣っているということを
自覚したことになる。
俗世の人たちより劣っているばかりか、
生きとし生けるものに対して罪がある。
それは
人間の罪、俗世の罪、個人の罪に
責任を負っていると
自覚した時はじめて
修道者としての目的が
果たせる。
と説きます。
この罪とは勿論
聖書に元ずく
キリスト教の原罪という意味もありますが
そもそも人間が
存在するということが
善と悪の狭間にしかないこと。
たくさんの垢や毒や闇のなかに
生きるしかない
そういう業の中に
人間が生きるというこそが
罪という
深い深い人間の深淵にあることを
指しているようにも
私は
思います。
人間の苦悩に対して
頭を垂れよ!
そこには
誰よりも自分に厳しく
謙虚であれという
ゾシマの愛が
見られます。
もはやキリスト教という
狭い枠をこえ
人間の苦悩を全身で
引き受けようとした
ゾシマです。
だからこそ
ゾシマは聖人のような尊敬を
受けたのですが。
しかし
そのキリスト教の神秘と権威を
ドストエフスキーは
覆してしまいます。
それは
彼の死後、ほとんどの信者が
彼を神格化し聖人として
その肉体の不滅を望み期待したにも
関わらず。
彼の遺体は腐臭を放ってきます。
つまり彼は
ふつうの人間と同じように
腐食していったのです。
そこにはキリストの不死の奇跡も
三日後の蘇りもありませんでした。
このゾシマに対峙させて
登場した無神論者イワンも
厳しい人間の隘路に立たされます。
神を失った人間が
むきあわねばならない現実。
その精神の
荒涼凄愴な
極北たる世界へと
立つことを
余儀なくされたのです。
※イワンの精神世界を
荒涼凄愴な極北と比喩したのは
松岡正剛さんですが
あまりにも適格で
これ以上の表現はないと思いましたので
それを引用させていただきました。
神の神秘及び
神の規範と
神への幻想を失い
神に依存することができなくなった人間の
精神活動が
よりどころを失い
むき出しの自分を抱えて
荒野を彷徨うしかなくなる世界です。
その人間の存在の厳しさは
まことに極北の中に立つしかないことを
ドストエフスキーは知っていたのでしょう。
逆に
そうだからこそ
人間は<神>という存在を
創り出し
神話化し
神秘化し
そして幻想化して
依存したのです。
神の手によって
創り出した秩序のフレームが
その効力を発揮する中で
かろうじて
人間はお互いを共存させて
生きてきたとも
言えます。
※仏教の世界も
同じように
原始仏教の修行の厳しさと
過酷さに耐えられなくなったからこそ
BC1世紀~AD3世紀にかけて
大乗仏教が出現し
現代に残こる
法華経や華厳経などの仏典が
編み出されていきました。
人間の想念は
何処へと終結していけばいいのか?
その最終点の不在は
人間を不安と恐怖に落とし入れるとともに
フレームのない世界は
個々の人間の想念の限りない膨張や
拡張を生んでしまいかねません。
だからこそ
すべての人間を統括し
フレーム化でき
そこに
共同の幻想を生み出すことができる
宗教が
人間の必然として
存在してきたのです。
これまでは
宗教の
その神格化と神秘が
幻想化されて
通用したということです。
しかし時代を経て
その幻想が覚め
そこにある矛盾が
一気に噴出してきている。
なぜなら
所詮人間が考えだしたものは
数々の矛盾を含まざるを得ないからです。
そして同様に
人間の存在そのものが
矛盾を含んでしか
存在できないからです。
人間は無意識と
それに逆立する意識の世界の
両方を孕みながら
生きているからです。
むしろ
その矛盾を埋めることが
生きる精神世界を生み出しているとも
言えます。
その神の存在と人間の存在の
拮抗する破れ目に
イワンは立っていると
言えます。
言い換えれば
ドストエフスキーも
同じように
立っている。
そして私自身も
心理や脳機能のことを
知れば知るほど
イワンと同じような
荒涼凄愴な極北の地
ぞっとするような虚無の地を
覗かざるを得ませんでした。
脳の機能と活動による
人間の意識と無意識及び
記憶のメカニズムの解明により
これまで神秘とされていたものが
解明されていくにつれ
脳と心理の関係および
そこからくる
人間(脳)の個絶こそは
神秘や幻想から
醒めざるを得ないのです。
その頃の私自身は
ひとりでその淵を覗きながらも
厳然たるその現実を
それを受け入れていくしかないと
覚悟を決めました。
人間は
ほんとうは
自身の思い込みの閉じられた世界で
それは
孤独の断崖の上で
かろうじて
幻想で繋がり
かろうじて
その真と虚の中で
綱渡りのよう繋がりながら
生きているというのが
真実です。
しかし
その幻想すらが
幻想であると
知ったとき
では
何をよりどころに
ひとは
生きていけばいいのか?
人間の本当の真実
ほんとうの現実が
これから
科学でドンドン解き明かされていくと思います。
最終的には
すべての人間が
この極北の地を見なければならなくなるかも
しれません。
それは100年後か200年後か
もっとかかるかもしれませんが。
しかしその極北の世界を受け入れたときこそ
人間は
争うことの愚かさを知るのだとも
思います。
そして
その厳しい現実認識から
また
新しい世界観がうまれるのであり
そこにこそ
ドストエフスキーの
贈り物があるのです。
ドストエフスキーの贈り物
とは
人間の脳の世界は
確かに個々に分断されて
個絶していますが
しかし
一方で
その個絶を止揚しようとする
機能もあると
いうことです。
それがこれまでは
宗教を生み出し
倫理を考えだし
そして
共同の幻想を
産み出してきました。
そういう風にして
人間を
生かしてきたのです。
人間の脳には
ネガティヴな感情や
否定的な感情や
攻撃を生み出す機能が
ありますが
一方
高邁なことや
尊いことや
美しいことに
反応していく
高次の機能も
あります。
それらは
その生命体(自分)を
生かしていくために
反応し
機能しています。
善と悪
光と闇の
両方を
包括しながら
人間が
生きてきたと
いうことです。
ドストエフスキーの時代は
まだまだ
脳に関しては
不明の時代でしたから
そのことを彼は
長老ゾシマという人間を
通して
さらに
アリョーシャと彼の仲間である
少年たち。
イリョーシャやコーリャや
スムーロフを
通して
読者に伝えようとしたのではないかと
思います。
つまり
究極には
愛の世界しかないこと。
その
人間の愛の世界は
なんであるかを
ゾシマを通して
語ろうとします。
それは
神の不在、
神の死を乗り越えて
なお
人間の裡に内在する
温かい血の流れる
息吹溢れる
人間の世界です。
ゾシマが説く
<謙虚の極みの愛>にこそ見えてくる
希望であり
他者を愛し
祈ることで
芽生える
人間愛の世界です。
そして<人間愛の世界>とは
自分が
<他者を愛する>ことで
初めて成立します。
自分が愛されることを望むことからは
始まらないのですよ。
人間が神や神秘から
自立し
さらに
自己の欲望や感情を
自分自身が超克し
人間が世界を
創造していく。
その未来を
ゾシマやアリョーシャや子供たちに
託したと
私は思います。
この物語の中の隠れたテーマに
幼児虐待のことがあります。
それも
自己のエゴにかられて
愛を貪る
人間の深層心理があります。
深い絶望と
不信と
愛への渇望という
愛の不在にこそその
苦い根があります。
それを人間が克服するためには
まず
自分が
愛を差し出すこと。
たとえ人間が
宗教や神や神秘という
幻想から
醒めても
それらを超越していける力が
人間の裡には
ある。
人間とは
関係性の中でいきている
生きものです。
だから
その関係性の中に
お互いへの信頼と愛とがあれば
お互いの故絶と孤独を止揚するものとして
ささやかな中に
希望がみえてくる。
そういう贈り物を
ドストエフスキーが
書き残してくれたように
思います。
さて
実はこの物語には
もう一つの隠れた
大きなテーマがあります。
それは
スメルジャコフという
真犯人でありながら
ドミートリーに罪をかぶせ
さらにそれを完成するために
自ら死んだ人間です。
スメルジャコフは
父親が知的障害をもった女性に産ませた
私生児であるかもしれない人間です。
カラマーゾフ兄弟の
異母弟でもあるかもしれない
という人間です。
このスメルジャコフこそ
カラマーゾフのシャドウとして
生きているのです。
次回はこの
シャドウ=スメルジャコフのことを
彼がなぜ自殺したのかも含めて
書いてみようと思っています。
長い文を
お疲れ様でした。

by denshinbashira
| 2015-05-23 11:44
| 「カラマーゾフの兄弟」より
|
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