「カラマーゾフの兄弟」より、シャドウ、スメルジャコフ! |
いよいよカラマーゾフの父親殺しの
真犯人<スメルジャコフ>について
書きましょう。
このスメルジャコフこそ
いわゆるシャドウ的人間の
極限の姿です。
まあ、極北といってもいいくらいの
厳しい中を生きる
シャドウです。
「カラマーゾフの兄弟」の物語で
多くの人が
イワンの語る「大審問官」のことを
高く評価していますが
私は
それよりこの
スメルジャコフに投影されている
シャドウ心理の描写のすごさの方を
高く評価したい。
そのことをどうしたら
お伝えできるのかが
大変なんだけど
書いてみましょう。
ときにしつこくなることがあると
思いますが
どうぞイヤにならず
読みぬいてください。
スメルジャコフというのは
リーザヴェーザ・スメルジャーシチャという
知的障害のある女性から生まれた
私生児ですが、
彼女はカラマーゾフ家の庭で産気づき
スメルジャコフを産み落して
死にます。
そしてその父親の出自がわからないまま
スメルジャコフは
フョードルが引き取り
下男のグリゴーリとその妻マルファーが育てて
カラマーゾフ家の料理番として働きます。
だから世間では彼の父親は
フョードルではないかと
噂をしています。
フョードルは彼のことを
「パラムのロバ」と卑下して扱いますが
一方では
どこか彼に依存し
その正直さを信頼しています。
スメルジャコフは
無口でありながらかなり
傲慢に人を見下し
子供のころは猫を縛り首にして
そのお葬式をやるなど
かなり屈折して育ってしまいます。
あるとき猫のお葬式の現場を
グリゴーリに見つけられ
殴れたことが原因で
癲癇の症状を起こします。
下男の妻のマルファーは優しいのですが
グリゴーリに対しては
育ててもらったにもかかわらず
軽蔑し
憎しみと敵意すら持っています。
そして
長男ドミートリーは
彼を下男として
自分の道具のように扱い
父親に自分の愛する女性を
取られないように
彼にスパイをさせようとします。
その反対に次男イワンは
自分の世界観や持論を
スメルジャコフに話し
一時的には
スメルジャコフを評価します。
イワンは聡明で知的な理論家ですから
父親を嫌悪しながらも
微妙に距離を取り
父親と同居することも
できるという
理性的な人間です。
だからこそ彼はその理知をもって
スメルジャコフを差別せず
最初は
受け入れることができたのですが・・・。
三男アリョーシャは
どういうわけか
他の人には自分から
かかわるのですが
スメルジャコフにだけは
距離があり
関わろうとしません。
つまり
スメルジャコフとこの三兄弟は
もしかしたら
異母兄弟かもしれないのですが
しかし
スメルジャコフだけが
その出自ゆえに
蔑視され
さらに下男として
生きているのです。
もっというと
スメルジャコフは
もしかしたらその出自においては
ほんとうはカラマーゾフの一員でありながら
下男としてしか扱われず
自分の存在のアイデンティティーが
立てられない。
いわば
カラマーゾフ家の<影>のような
存在なのです。
だからこそ彼は
深く深く傷ついたその自尊心が反転して
傲慢に人を見下し
強いデモーニッシュな性格と
憎しみの感情をもって
常に影のように生きています。
しかし影=シャドウ人間は
頭がこざかしく働き
頭脳的プレーができ
ほんとうは逞しいのです。
影(悪)としての存在感は
時に
光を圧倒してしまいます。
そしてその影的人間スメルジャコフが
まさしく影のように
張り付いたのが
イワンです。
イワンは最初は自分を慕うスメルジャコフに
好意をもって接しますが
しかしだんだん彼の存在に
嫌なものを感じはじめます。
それは影であるスメルジャコフが
巧妙に
匂わせながら
ほのめかしながら
イワンを脅すからです。
その様子の描写を
ほんとうに見事に
ドストエフキーは本文で
書いています。
それはまさにシャドウ人間の特徴で
自分の姿を消し去り
まるで影のように
依存した人間に張り付きます。
まるで
宿り木のように
纏わりつき
一体化しようとします。
その本性は
まとわりついた人間に
いかにも忠実であるように
表面的には慇懃にふるまい、
その裏では
相手をコントロールしようと策します。
最終的には
その宿った木の生命を
自分のために
吸い付くそうとする
強烈な支配欲を持っているからです。
だからイワンは
スメルジャコフと別れたあと
何だかわからないが嫌なものを感じてしまい
だんだんその存在に
得体のしれない嫌悪すら
感じ始めます。
しかし
スメルジャコフは
自分の存在を掻き消してイワンに
べったりと密着して行きますから、
イワンはまさか
そういう風にスメルジャコフが
自分の心の中に
忍びこもうとしてしているなどとは
夢にも思わなないのです。
しかし
スメルジャコフの方は
イワンの心の中に入り込み
イワンが考えることを
・推測
・詮索し、
・シュミレーションしては
そのことと自分とを同化させ
勝手に、ひとりよがりに
相手と自分の混同を
図ります。
何度もしつこく書きますが
しかしそれは、
本当は
イワンが思っていることでも
何でもなく
スメルジャコフの推測と詮索に
過ぎません。
それなのに
さらにそこに
自分の感情や欲望を上乗せして
自分が(スメルジャコフが)勝手に
妄想したものを
あたかも
イワンの真実のように
思い込み
自分とイワンを
コピー化して
妄想で
既成事実化して
いくのです。
だからこそ
スメルジャコフは
イワンの代理として
フョードルを殺してしまいますが
主犯はイワンで
実行犯は自分であると
言います。
それは
イワンの深層心理にある
父親を殺したいという
イワンの欲求を
自分が代理したのだというわけです。
シャドウ、つまり
自分が光のなかでは
受け入れられないと
思い込んでいる人間は
自分の姿を消して影となり
誰かにとりつき
その影のように張り付きますが
それは
最後には
その人間の命と行動を
影の中に引きずり込み
支配してしまうのです。
※ これはまさしくシャドウ的人間の傾向そのものです。
ドストエフスキー観察眼と洞察が
いかに鋭いかです。
イワンはドミトリーの裁判の前日に
やっとスメルジャコフこそが
真犯人であると気づき
彼を追い詰めて白状させてしまいます。
そして法廷の論争点の一つである
フョードルのベッドから奪われたお金も
スメルジャコフが奪ったことが
白状されます。
しかしスメルジャコフは
自分がフョードルを殺したのは
イワンの心理の代理であり
イワンも
自分が心のどこかで
父親の死を願い
兄のドミートリーが
もし父親を殺してくれたら
自分は手を汚さずに
自分の思いを成し遂げられる
と思っている
自分の姿を
スメルジャコフから
突きつけられます。
つまり
自分の中にある
デモーニッシュな自分が
スメルジャコフによって
暴かれてしまうのです。
イワンという人間は
いつも自省的に
自分の内面を検証できるからこそ、
キリスト教の内部矛盾や
呪縛に気づき
反宗教、無神論まで
宗教を深化することも
論理的に宗教を
解体することも
できるのですが
それだけに
スメルジャコフの指した矢は
イワンの
自分の内的世界に対する
信頼が崩れ
深い絶望と良心の呵責を呼び起こし
ドンドン強迫的心理に
追い込まれいきます。
彼のアイデンティティーが
崩壊してしまうです。
そしてスメルジャコフに白状させたその夜
再びあの悪魔が出てきて
イワンの中に
幻覚症状がでてきます。
そこには
自我がその内部で格闘し
大審問と悪魔に分裂し
それを統合できない
イワンがいます。
自分の中にある影を
承認できていない人間は
うかうかと
影的人間に取りつかれ
ドンドン影に
命の息吹を吸い取られていきます。
人間は誰でも
そういう
デモーニッシュな願望を
抱く瞬間があるものです。
そして
誰でもがそういう
暗部を持っているものです。
しかし
自分の内面に向き合うこともなく
自分のそういう暗部に気づかず
自分を明るい
善良な人間であるという風に
一面的に
思い込んでいると
無意識に
そういう<影的>な人間を
自分の周囲に引き寄せ
依存し
自分の心理のバランスを図ろうと
します。
そういう共依存関係を
無意識に
築いてしまうのです。
そういう場合
自分でも気づかないうちに
その影的人間に
知らず知らずの
マインドコントロールされたり
心理浸食されて
自分がどんどん不安に陥ったり
弱くなったり
自信をなくしたり
します。
それは親子の関係でも
夫婦の関係でも
友人関係でも
また
学校や会社など社会的集団においても
そして
国家においても
そうい影を
必然的に
産み出していきます。
それが人間の宿命でもあり
それこそを
いかに克服するかで
成熟が
始まるのです。
そういう影を受け入れ
統合していない関係性は
影に付け込まれ
影に吸い取られ
だんだん力をなくし
滅びへとむかっていきます。
※ だからこそ
自立することが
大切なんですよ。
自分の中の影も光も
すべてを自分で賄うという
自立こそが
影(他者)に付け入るすきを
許さずに
その人間を生かしていくのです。
自分の影、暗部を
しっかり見つめ
そういう自分を承認し受け入れた人間は
自分の内的世界が
今度はその影で
補強されて
つよくなります。
つまり
自分の全体性で生きることが
できていくからですね。
そして最終的には
影(スメルジャコフ)と本人(イワン)の
主客が転倒していきます。
あのアンデルセンの作品「影」でも
最後は
影が本人を乗っ取って
滅ぼしていきましたね。
ほんとうにドストエフスキーは
「影」とはなにかを
見事に描いています。
しかし
とうとうイワンは
影として自分に張り付いた
スメルジャコフと
対決しました。
しかし
それは大変な心理的格闘であり
その整理がつかないまま
その夜にまた
イワンの夢に
悪魔が表れてきます。
しかし一方
スメルジャコフは首をつって
死んでしまいます。
つまり
姿を消して
<影>のように生きている自分が
光の中で
暴かれたとき
影はもう
存在できなくなるのです。
次の日
イワンは
法廷で
スメルジャコフが持っていたお金を
証拠として提出し
ほんとうは
真犯人はスメルジャコフであることを
証言しようとします。
しかし
もう精神がかなり混乱し
幻覚に
犯されているイワンは
自分の中にこそ
父親を殺したい欲望があり
それを
読み取ったスメルジャコフが
それを実行してしまったと
なんとか説明しようとするのですが
あまりに唐突で
混乱したその証言に
法廷は騒然となり
それを
イワンの自白と勘違いした
ドミートリーの婚約者カテリーナが
ヒステリーを起こし
ドミートリーが酔っぱらって書いた
父親を殺すことを予告した文章を
証拠品として
出してしまうのです。
それがいわば決定打となり
ドミートリーは有罪となります。
この事件を
スメルジャコフの方からみたら
どうなるのか?
スメルジャコフこそ
この物語の<影の主役>です。
その出自の曖昧さから
自分という根拠を持たない人間の
深い絶望を感じないわけには
いきません。
彼は生まれたときから
差別と偏見と軽蔑の中を
生きるしかありませんでした。
そこに深く深く傷ついた自我が
あります。
だから
彼は
カラマーゾフ家の影であり
彼らのネガティヴな感情の
受け皿でもありました。
父親ドミートリーも
そして
イワンでさえ
自分の感情のはけ口を
無意識に
スメルジャコフに依存しています。
スメルジャコフがイワンを
尊敬したのは
イワンの理性と理知が
幼児虐待にたいして
目を開いていたかも
しれません。
なぜなら
スメルジャコフも
その子供時代は
グリゴーリをはじめ
周囲の人間から
虐待をうけていたかもしれないからです。
受けていたからこそ
猫を殺して
お葬式をして遊んでいたのでしょう。
だからスメルジャコフは
幼児虐待を非難するイワンを
自分の同胞であると
思い込んだのかもしれませんね。
しかしそのイワンも
彼との距離を取り出したとき
スメルジャコフは
絶望します。
だからこそ
イワン自分に引き戻すために
イワンが深層心理で望んでいる
自分の中から
父親を排除するということを
イワンに代わってやってしまった。
それはイワンへの倒錯した愛情であり
執着であり
イワンへの報復でもあり
また
自分をこの世へ生み出した
フョードルへの
復讐でもあり
カラマーゾフ家全員への
<自分の存在>をアピールする
最後の手段でもあったかも
しれません。
三人の兄弟も
スメルジャコフも
その出自は
フョードルです。
根は
一つなのです。
そして
この四人ともが
父親に対しての
嫌悪や軽蔑や
憎しみを持ち
それ故に
自分の存在に対しての
肯定観が
希薄です。
四人ともが
自分の内的世界を
見つめ
修正することもなく
父親を忌み嫌い
憎むことで
かろうじて
自己存在を維持しようと
します。
その中で
スメルジャコフは
そういうネガティヴな感情を
言葉で吐き出すことも
父親にぶつけることも
●許されない存在として
出口のない闇の
ひたすらその毒を
自分の中に廻らせて
いきているのです。
自分の存在の根拠を持たない
影のように生きるしかない
スメルジャコフの闇こそが
実は
人間が宗教に依存せず
自らが向き合わなければならない
虚無と罪の世界です。
その人間の懊悩と
そこからの
解放を
ドストエフスキーは
描いたのだとも
思います。
そしてスメルジャコフは
自らの命を立ちますが
カソリックでは
自殺することは
神への背信行為とみなされて
います。
しかし
自死する人間の
懊悩こそを
人間は
理解し
受け入れなければと
私は
思います。
そのことを
ドストエフスキーは
長老ゾシマを通して
「地上でみずからを滅ぼした者は哀れである
自殺者は哀れである!
彼ら以上に不幸せな人たちはいない
いるはずがない。
教会も、表向きは彼らをしりぞけているようだが
わたしの心の底では
その人たちために祈ってもよいのではないかと
考えている。
愛ゆえの祈りに
キリストが腹をたてることはないからである。
神父様、先生方、私は告白する
私は心の中で
そうした人たちのために
ずっと祈ってきたし
現にいまも毎日祈りを捧げている。」
と説きます。
ここには
そういうキリスト教の
教義の規範を
こえて
人間を
愛し、
祈ろうとする
ゾシマがいます。
そして
なぜアリョーシャが
スメルジャコフと
関わらなかったんか?
或いは
関われなかったのか
について
私はこう考えます。
それはアリョーシャが
あまりにも
純粋で素直な
善良な
・一面的な光の人間であるばかりに
スメルジャコフの闇と
その邪悪な殺気に
近寄れなかったのではないかと
思います。
この物語は
一方の極に
光のアリョーシャという若者と
もう一つの極に
影と闇の若者、スメルジャウコフが
います。
その両極から放たれる世界の中にこそ
日々を生きる人間の
苦悩ともがきがあり
そして
喜びも
あります。
それがやがては
生きる逞しさへと
変貌していく
そのことを次回
アリョーシャを通して
考えてみようと
思います。