他人とつながる!その6自己幻想とナルシズムから抜ける! |
ちょっと思いついたので
書いておきます。
世俗的な色気とは
自己幻想とナルシズムと
書きましたが
自己幻想もナルシズムも
世間対自分という中での
自分像です。
それは実際の自分ではなく
外から見た自分が
どう見えるかという視点で
創り上げた
自己像です。
他者と比較して
創り上げた自分でもあります。
だから等身大ではありません。
等身大の自分を脚色したり
装飾したり
膨張させたり
うぬぼれたりしている
自分です。
そこには
世間に対して気取った自分もいますし
構えた自分もいます。
だから自己幻想もナルシズム
自分を世間一般より
すこし上位においています。
少し他者や世の中を
見下したり
舐めているかもしれませんね。
そういうものを
いっさい捨てて生きようとしたのが
良寛です。
良寛も内面の闇があったからこそ
国上山の小屋に籠り
時々里に下りては
行乞したのだと思いますが
彼は行乞している時も
子供とてまりをついて
遊んでしまいます。
時に木下で眠りこけることも
あったようです。
そういう良寛の姿を見て
農夫の爺さんから
おまれは僧としての修行もせず
そういう風に遊び呆けて
怪しからん
と
説教されます。
しかし良寛は
言い訳もせず
反論もせず
ただただ
うなだれて
話を聞いているばかりでした。
つまり
良寛にとって
なにもしない
無為に生きるということこそが
修行であり
いっさいの説法すらしない
口にしない、
仏法の<ぶ>の字すら
言わず
ただひたすら
施しを受け
その施しで生かされる自分。
すなわち一切の民の下に自分を置く
ということこそが
僧としての修行だったのです。
だからこそ
良寛の残した漢詩も
書も
そこには
<自我の色気>が
いっさい
ありません。
それは
自己幻想も
ナルシズムも
打ち砕いて
自分を最下段に
据えることこそが
修行であり
覚醒への道であるからです。
同じように
私がすごいなあ~と
思うのが
葛飾北斎です。
北斎は自らを
画狂老人卍と
称し
七十歳までに描いたものは
とるにたりない。
七十三歳でようやく禽獣虫魚の骨格や
草木の出生を悟りえた。
従って八十歳にして
画業は益々すすみ
九十歳にして更にその奥義を極め
百歳では神の技に至ろう!
と書いています。
世間の評価や金銭には
頓着せず
貧苦のなかで
一日も休まず
描き続けました。
そこには
自己幻想もナルシズムも
ぶっとんで
絶え間なく
ひたすら真摯に
自分と向き合う
北斎がいます。
究極的にいうと
自我の汚れが
自己幻想やナルシズムへと
なっていきます。
しかし
そういうものを
浄化して
浄化して
ひたすら
自己の核心と本質で生きようと
したのです。
良寛も北斎も
だからこそ
そこに創り出されるものが
無条件に
私たちの心を打つのですね。
良寛も北斎も
究極的には
ただの
人
です。
しかしそこには
自分にとって
もっとも大切なものは何か
そして
何としても
それを
譲らない!
売り渡さない!
という
自分への信頼と
愛情がありました。
それは
彼らの自己の底に
純粋に流れる澄んだ水です。
それが
翻って
作品となり
多くの人々の心と
繋がっていったのだと
思います。
以前の私なら
良寛も北斎も
まれにみる特別な人であり
それを目標にするのは
狂気に近い・・・と
言ったでしょうが、
しかし
今の私は
良寛や北斎こそを
自分の<極北の星>にして
生きてごらんなさい!と
言います。
なぜなら
そういう風に
ひたむきに生きることこそが
そういう生き方が
日々の中で
塵のように積り
その人が
そこにいる
という
自分への証になり
他者へのつながりになるからです。
そうした暁には
いつも
デンと
自分がそこにいて
アッケラカン
と
サラサラに
生き
スタスタと
ひたすら
前を向いて行く自分が
完成するかな~と
思っています。
まだ68歳ですからね~・・・笑!
君たちにナルシズムはあるのだろうか?