大島渚と小津安二郎 その4 生(性)のリビドーの中に! |
人間のミクロコスモス、
すなわち
魂の部分へ
ドストライクの球を
打ちこんでくる。
映画に関しては
ド素人の私が感じ取ったことが
ほんとうにそうであるかどうかは
分かりません。
でも
それを頑張って書き表したいと
思うのですが
うまく書けるかな~???
大島の映画を
国家への対峙
社会道徳への対峙
集団及び官僚性への対峙
民衆の恣意性への対峙
などという
映画の外側のフレームで見ると
尤も根底にある
大島の姿を
見誤るような気がする。
それは梅干しのたね の中の
そのまた種の中にあるようなもので
初期の
大島自身の意識は
もしかしたら
それに気づいていないかもしれません。
大島作品の中に
一貫して流れているのは
<生へのリビドー>であり
それへの希求でもあると
私は思いました。
「少年」の中にも
「愛のコリーダ」にも
それが尤も極限的な形で
表現されています。
そして更に
「愛のコリーダ」よりも、もっと
洗練されて
出てきたのが
「愛の亡霊」のような気が
します。
※リビドーとは生命が発露する本能的な
エネルギーのことです。
フロイトは性への衝動として限定的に
捉えましたが
ここではユングのように
生命が生きるために起きてくる、
生命現象として
人間の内部から突き上げてくる
すべての生の衝動を
私は考えています。
そのリビドーが
大島の前期の映画では
対社会
対国家
対民衆というような
ある種、視点が外側のフレームへと
焦点化されており
それは大島自身が
自分の殻の中に
まだいたのではないかと
私は思いますが。
その殻が破れて
いよいよ
リビドーが
主役的な座を占めてきたのが
「少年」という作品ではないかと
思います。
「少年」という作品では
少年の魂というか
それに被せるように
自分の内部のリビドーを
大島が探し当てたと
思います。
そこにもう
見事に照準が合わさったように
思います。
いよいよ大島のインナーチャイルドが
表舞台にでてきたなあ~と
思いました。
以来
「儀式」においては家族のなかの
リビドーです。
戦前の家父長制の中の人間たちの
集団に渦巻く
リビドーの交錯と錯乱と
陳皮を描き
そしてそのあと
いよいよ
「夏の妹」で
これまでの
外側の世事的フレームの世界とは
もう
一線を画す決心をし(そうであったかどうかはわかりませんが…苦笑)
人間の内的世界一本に
照準をあてていこうとしているように
思えました。
まあ私の直感が
当たったかどうかは
分かりませんし
大島に
何かがあったのか
なかったのかも
分かりませんが
そこから大島は
ひたすら
個人の内的世界へと
走りだした気がします。
そこからの映画の中の登場者たちは
自分の内部にある
言語や理性を超えたリビドーが
噴出し
それは
人間社会の
道徳や倫理や規範のフレームをどんどん超えていきます。
むしろ
その人間のフレームに
リピドーが蛇のように巻きついて
粉々にしてしまうような
破壊力があり
最終的には
破滅があります。
それは言葉による欺瞞やごまかしや
脚色を許さない
プリミティヴな
泥のついた情念であり
欲望であり
また
「少年」のように
からだを硬直させ
屹立させながらも
守ろうとする
自分自身のみの固執する
<理の世界>でも
あるように思います。
そして
そこは
いかなる人間も
侵犯できません。
大島は
実際にあった犯罪事件を基に
シナリオを創り
映画にしたそうですが
犯罪事件とはまさに
その社会の底に圧迫された
<個>のリビドーの
ヘドロ化したエネルギーが
が発熱し
外へと
突出していくことであり
最後には
社会の通念とフレームを突き破って
暴走し
破綻と破滅において
失速していきます。
そこには
はかり知れない
深い底なしの井戸のような
リビドー世界があり
人間の欲望や情念や想念の
度し難いエネルギーがあります。
それは
悲しいものであり
あわれなものであり
禁じられたものでも
あり
やがては
日本の文化の中で
はかなきもの
移ろいゆくものとしての
<詫びと寂び>の中に加工されて
幽玄世界の芸術として
生き延びていったと
私は思います。
平安からの
貴族、武家社会の中の
格式ある
高尚な美の世界は
民衆においては
芸能の始原である
河原乞食の自由で奔放で
魑魅魍魎たる
自由自在の
美の世界です。
その根底には
<官能>のリピドーと
陶酔のエクスタシーが
あり
また一方
自己を保全するための意欲や欲望
のなかに流れるエネルギーにも
官能が
あります。
自己を保全するということは
自我はなかなか気づきませんが
そこにも
倒錯したエクスタシーが
あります。
※自分に拘泥しtり、
執着するときや
自己を憐憫するときなど
よーく自分を観察しなければ
気づきませんが
そこには快楽のエネルギーが
あるでしょ!
悲しみも絶望も快楽です。
ホントはね。
倒錯した自己肯定があるでしょ。
それは人間が
宿命的に持っている
生命の発露と継続(子孫を残してゆくという継続)でも
あるのです。
大島の映画を連続してみているうちに私は
理では擬しがたい
<もののあわれ>と<無常観>が
底流に流れていると感じました。
そこには
私たちの日本人の
美の世界があるとも
思いました。
そして
そこに
具体的に
何があるのかを
大島が切り開いてみせてくれているような
気がしました。
小津安二郎も
おそらく
そのことを熟知していたのではないかと
思います。
しかし小津はその品格を譲らず
磨き上げました。
反対に
大島はそれを
泥の中に置いたような
きがします。
いずれにしても
幽玄的美しさの両極に
この二人の巨匠がいるように
思いました。
次回は「愛の亡霊」を通して
<幽玄的美しさ>とは
一体
何なのかを
書いてみようと
思います。
難しいなあ~
書けるかな~!
※ 私は<自分を光の中に放つ>と
いうことを唱えています。
つまり自分をはっきりと
表面に打ちだすということです。
そういう意味で原則として
非公開のコメントはお受けしていません。
どうぞ
いつも自分を光の中に置き
自分を他者にシェアすることを承知して
コメントを書いてください。