自分は取るに足らない人間! |
強烈に自我意識の強い数人から
メールでの相談をされましたが、
そのことを巡り
心に浮かんだのは
「自分なんて
とるにたらない人間なんだ」
ということです。
そういう
意識を
どこか頭の隅においておくことが
実は
とても大切なのです。
この自覚というか
自戒が
が欠けている人は
自分、自分、という
<自意識>を
ありとあらゆる人に
ぶつけてしまうし
ありとあらゆる場面で
それが
出しゃばってしまい
せっかくのことや
大切なことを
めちゃくちゃにしてしまいます。
そればかりに
気をとられ
そこにエネルギーを注ぎこみ
そういうバトルには
全力で向き合うのに
ほんとうに大切なことには
見向きもしないし
気が付かない!
自意識がつよい
つまり
自己主張の<我が>強い人は
そこに
強烈な自分への固執があります。
なぜそれほど自分に固執するかというと
その裏側には
親やそれに類する人間から
自分を発露することを
封じられた
子供の頃の自分があり
それが無意識の中で内向し
しこって
ヘドロのように
なっているからです。
自分を受けれてもらえない
怒りが
ドロドロとあるのです。
だからその人間は
・誰に対しても
・構えが起き
・相手が自分を<どのように扱う>かに対し
・過剰に敏感に
・反応してしまうのです。
そして
相手の反応が、
・自分の欲求通りであり
・自分の望むようであれば
・満足して、安心し
しかしそれが
自分の思いどおりでも
なく
さらに
自分の欲求水準より
以下であったりすると
・過剰反応して
・感情的になり
・相手と対立(トラブル)をおこしたり
・心の中で憎んだりするのです。
こういう人は
自分の中では
・自分への幻想が最大に膨らみ
・その拡張した自己幻想を
・自分の実態と勘違いして
・過大評価しています。
そこには
◎客観性が抜け落ち
・自分が
・自分の事でうぬぼれているに過ぎないのに
あたかも
・自分は他者一般より優れているという
・錯覚の自意識を
持ってしまいます。
だから
自分は、それ相当に扱いを受けるのが
当然である…というような
<選民意識や優越感>が
・無意識に働いてしまうのです。
そしてごく
・当たり前に
・一般並みの水準で
扱われたり
・自分が無視されるような扱いを受けると
・感情が反応し、怒ったり、みじめになったりします。
しかし
・その水準の高い自分や
・その他大勢ではない
自分は
あくまでも
・その人が勝手にそう思い込んでいるに
・過ぎないのですが。
つまり
子供のころの
・親とその周辺での
・人間関係の中で
自分の事を
・そう思い込んだにすぎないのであり
かなり独りよがりな思い込みにすぎません。
だから
広い社会や世間に出てみれば
そんなものは
紙屑同然にしか
扱われません。
広い社会や世間においては
その人間が
他のどんな人間とも
◎<取り換ることができない>ような
その人間独自の<価値>を
産み出さない限り
特別な人間には
なれないのであり
そうでない限りは
<その他大勢>としてしか
扱われません。
そんなことなど
当たり前のことなのに
自意識過剰の人は
そう思わないし
思えないのですね。
しかし
ほんとうは
自分が
その他大勢のひとりとして
扱われても
一向に構わないし
傷つくこともない!
という
意識の自分こそが
とても重要なのです。
たとえそのように
扱われたとしても
自分という人間を
確実に積み上げてきている人は
自分への確信があり
それは
他者なんかに
理解されようがないし
世間一般のものさしなんぞでは
測り知れないし
・どんなふうに自分があるかわれようと
・ゆるぎない
・自分への信頼があるからです。
世間から見れば
・自分はとるにならない人間であり
・そういう風にぞんざいに扱われても
一向に構わない!という
腹の座り方(覚悟)が
あるのです。
社会というのは
人間が生み出す価値の集成によって
稼働していくものであり
いくら自分が自分を高く評価していても
それが
他者や社会の
・承認を受けない限り
それ相応の扱いしか
されません。
・自分に対する相対的な目と
・厳しい見識と
・自己検証を持たない人間は
どうしても
自分に思い込みの
自意識過剰の
◎空風船のような自己幻想が
・そのまま
・他者にも
・社会にも
・世間にも
通用するかのような
錯覚を
していしまいます。
自分が相手 に対して
或いは
社会や世間に対して
どれほどの
価値や意味がある
仕事なり
なんなりを
為し得ているか。
それが問題であり
大きくものをいうのです。
その自分の
内容をもって
社会や世間に
対峙しない限り
そんな空風船のような自意識は
ものの見事に
現実の厳しさの
針の一突きで
あっという間に
しぼんでしまいます。
若いときは誰でも
こういう自意識と自己幻想の
塊のような自分があります。
しかし
それも
社会の中でいろんな人にであい
厳しい体験をしたり
失敗や挫折の中で
少しずつ
目が開けていくのであります。
以前なら
30歳くらいになると
なんとなく
自分の限界も能力も
分かってくるものですが
今は
精神年齢が
かなり低下しており
まあ、40歳くらいになって
初めて
そういう自己幻想が覚め、
マアそこそこの自分の
実態が
分かってくるようです。
ほんとうに
その他大勢ではない
自分になるためには
10年、20年、30年の
時間軸の中で
・コツコツと
・自分を追及し
・相対化し
・たくさんの事を学び吸収し
・磨き上げる努力をする必要があります。
そのためにも
「自分はたかが知れている
とるにたらない人間である」
という
自戒を持っていないとだめなのですね。
そういう自戒をもっているからこそ
・他者との出会いの中で
・どんなに些細でも
・いかにも価値がなさそうなことの中にも
・学びがあり
・刺激があり
・思いがけない出会い(セレンディピイティー)がある
という
・生き方のスタンスを
とることができるのです。
また
「自分はたかが知れている
とるにたらない人間である」
は
いつも自分の着地点として
作用しますから
まあ、嫌なことや
思い通りにならない
不承知の事があっても
自分が
そう動揺したりすることも
ありません。
まあ、せいぜい揺らぐぐらいで
済みます。
◎最後にことわっておきますが
このことは
自分を嘆き
自分を貶め
自虐することとは
大違いですからね。
自分を嘆き
自分を貶め
自虐することこそ
そこに
風船のように膨らんだ自意識があるからこそ
それが反応して自虐的になり
そうなるのですからね。
そうではなく
最初は<無>すなわち
ゼロの自分から始まるのです。
自分にはない・・・という自覚があるからこそ
プラスすることが
出来るのですね。
そして20歳30歳ごろは
せいぜい20%か30%の内容の自分でしか
ないのです。
なのに
自我が膨張し、
拡張してしまっているに過ぎない自分が
傷つくのです。
中には
自分を過剰に憐憫して
自分は
こんな愚かで未熟な人間です・・・というです
いわゆる
<謙遜の美学>の中にいる若者もいて
私が
「ほんとに
その通りだね~!
そういう自己謙遜や自己憐憫は
どこかで
甘いエクスタシーがあるでしょ、
つまりは
自分に酔っているんだよ!」
と指摘した途端に
ぱったりと連絡してこなくなった青年も
います…苦笑!
マア、彼も
もうそろそろ30歳にちかくなると
思うけど
でもまだ
あと10年くらいたたないと
私の言葉の意味がわからないだろうなあ~と
思っています。
私ももう少しで70歳ですので
自分の内容が
やっと
70%くらいに
詰まってきたかと
思います。
人生は
◎諦めの連続ですが
その諦めの中にこそ
始まりがあります。
そのことを
分かり始めるのも
おそらく
老年になってからかもしれませんね。
私も何度も
うぬぼれの鼻をへし折られ
あっという間に
墜落しては
ズタズタになりましたが
おかげさまで
そのたびに
目からうろこが落ち
物事がやっと見えるようになしました。
もがき
あがき
続ける中にこそ
きっと
素適な宝物が
埋まっているよ!
だから
みんなも
がんばりナッ!!
●告知です。
映画の対談のユーチューブがアップされました!
今回は大島渚監督と小津安二郎監督について
映画監督の村上浩康さんとお話します。
もう村上さんが興味深いエピソードを
たくさんお話してくれます。
どうぞ
ご覧ください。
・「映画監督・大島渚と小津安二郎の世界」