足穂と蛭子とチギラさん! |
プロペラ作家のチギラフミコさんと
青梅に行きました。
青梅の丹三郎屋敷という
お蕎麦屋さんで
お蕎麦と沢蟹の素揚げや鮎の塩焼きを
食べながら
お話をしました。
このところ私は
稲垣足穂の本をよんで
衝撃をうけましたので
以前
稲垣足穂を好きといっておられた
チギラさんから
是非お話をききたいと
思い、
青梅にお誘いしました。
市民、大人としては
はちゃめちゃな足穂ですが
彼の妄想のなかにひそむ感覚と感性はもう
キラキラとしています。
そういうことをお話ししながら
私の頭がインスパイヤーされて
どんどん新感覚が刺激されて
脳の窓が開いていきます。
私は一応女なのですが、
彼の本を読んだ後
なぜか男のように
そして
大正から昭和モダンのなかに
浸りたくなったり
懐かしい子供の頃にみていた世界が
よみがえります。
私は<今>現代の世界に生きていますから
それらが
<今>と接続して
なにかオモロイ世界へと繋がらないかと
模索します。
足穂少年の遊びの世界
あのブルドックのような
ブサイクなる顔の劣等感からうまれる
ピュアなる世界、
大人からいうと
ショーモナイ事ばかり妄想しやがってこのガキきゃ~!
という世界が
面白くてたまりません。
「A感覚とV感覚」を読み終えたとき
私はそこに
なぜか古事記の中の<蛭子>の世界が
思い浮かびました。
イザナギとイザナミとの間にうまれた
神の最初の子でありながら
手足が奇形のため葦の船入れて流されたという
蛭子です。
なぜ蛭子を思い出したかというと
蛭子は手足が奇形なため
むしろ足穂のいう
A感覚、V感覚さらにP感覚が
分断されないで
その芋虫のような筒状の体のなかで
相互に接続してたのいではないかと
思ったのです。
つまり
歴史が進むにつれ
人間は
頭と体が分断されていきます。
その結果として
現代は
どんどん感覚が
無機化していく人間になりつつありますが
いわゆる
人間の
もっとも原型なるものとして
蛭子があったのではないかと
そういうインスピレーションが
走ったのです。
海に流された蛭子伝説はやがて
福をもたらす釣り爺さんのえびす様として
蘇ります。
このあたりも
人間が魚類から進化したとこを
考えると
符号があい
微妙です。
蛭子の話はちょっとドロドロしているのですが
しかし異形のもの
奇形のもの
排除されたものの中から
福なるもの
豊穣なるものが
生まれてくるという
人間の秩序の外にこそ
なにか福があるということを
人間はどこか無意識の暗渠に
共有していたのではないかと
思うのです。
蛭子は
つまり
自由に縦横に走り接続する
官能の感覚が
やがて
モダンに変身して
飛行機になったり
天文学になったり
さらに芸術へ
美の本質へと
自由自在に飛翔する。
まあ、私の想念も
ずいぶん飛躍していきますが
しかし
そういうジャンピングの中から
思いがけない発想も
飛び出してきます。
頭がジャンピングすると
すっとします。
つまり
頭が発火して
エネルギーが
流れるからです。
これからも
オモロイ人に
どんどん出会い
いわゆるエランヴィタール(命が瞬間的に発火して輝くこと)が
たくさんおきますように!
チギラさんとも
なにかオモロイことを
できるといいな~と
思います。
さて
いよいよ
梅雨があけるのかなあ~!