放てばかえって手にあふれ! その4、道元そして羽仁進、小津安二郎! |
羽仁進監督の「不良少年」をみました。
いいですね~!
宝石強盗を働き
ネリカン(練馬鑑別所)から特別少年院へと
送られた少年の話を
ドキュメンタリータッチで描いています。
そこには一切の大人の道義や倫理や通念を
介入させず
ただただすべてを
少年にまかせたドキュメンタリーの眼が
彼を追っていきます。
つまり羽仁監督は
不良少年の心の中に介入せず
彼の現実に起きる
<彼の現象>だけを
追ってゆくのです。
ここに羽仁進という監督の
大きな人間哲学と包容力があるように思います。
その大きな人間哲学というのは
人間と世界を丸ごと相対化して
思想している
道元の世界に通じるものがあります
村上浩康監督の映画「無名碑」を
見たときも
そこに道元の世界観を感じました。
もっというと
小津安二郎監督の世界観も
道元に通じているようにも
思います。
道元の世界はとても大きくて
高次な思想の世界ですから
それを説明するのは
とても難しいのですが
あえて
言うなら
それぞれが
「なりきっていく」世界です。
鳥は鳥になりきって生きており
虫は虫になりきって生きており
空は空に成りきってあり
海は海になりきってあり
人間は人間(自分)になりきって生きる。
ただ
人間だけが自分になりきれず
苦しむ。
それは人間の自我世界が
不安や恐れの反動で疑心に汚れたり
さらにその反動で欲に冒されたりという
人間自身がつくりだす
たくさんの既成観念(思い込み)に
侵されているために
自分は
本来の自分から離れ
自分を見失い
自分の自我の意識に
がんじがらめにされて生きてしまうのです。
その分裂した自分と
本来の自分とが
せめぎ合いくるしむのです。
本来の自分とは
自我と対立しない自分で
大きな無意識世界の海の中で
渋滞や躓きがなく
自然の流れの中に
生きる自分です。
道元の世界では
坐禅を組み
雑念から解放され
心が空になり
一切の抵抗がなく
流れのなかに任せている自分です。
自分になりきるに
至るには
空なる自分へと
行こうとする
自覚的な意志が必要で
それは修行的な自分のありようを
とおして
そこへと至る(戻る)のだと
道元は言うのです。
断っておきますが
それは
修行をして悟りを獲得するのではなく
もともとあった
ピュアな自分へと
回帰していくのです。
そのピュアな自分こそが
仏性を有しているのですね。
ここらへんが
道元が他の宗教家や
思想家と違う
道元の真骨頂の世界です。
そして
姑息な自我が消えたとき
そこには
自分の全体性で生きる自分があります。
つまり
無意識の海に浮かぶ自分です。
無意識の自分は
行動に滞りがありません。
無意識の行動は
すーっと体と頭(脳)の中を
通り抜けていきます。
しかし
そこに意識が絡んだとたん
意識は抵抗をもち
アタマの中を
巡りだします。
巡りだしたと同時に
脳はシュミレーションをはじめ
不安や恐れをどんどん仮想しはじめるのです。
そういうとき
私は
あゝ
自分の自然性が侵されていく~と
思います。
からだが動揺して
中心をうしない
緊張が起こり
エネルギーが
どんどん分散していきます。
それは
せっかく私の心(脳)と体が
一体になり
まるでオーケストラのように
働きだし
自分の全体が奏でられているのに
つまり自分が全体で存在して
いきているのに
意識が入った途端に
自分が分裂して
さらに
意識がとらわれているところへと
連れ込まれてしまう
という自分になります。
そういう意識の作用を取り除き
もとの中心と統一を
取り戻すために
道元は
座禅を組み
さらに
生活の慣習を整えることで
(余計な事をそぎ落とした修行生活で)
常に
心と体が
少々のことには
動じない
集中した自分の常態を
創りだそうとしたのだと
私は考えています。
そういう風に
もともとあった全存在の自分に
なりきっていくのは
とても
大変なことですね。
まずは
自分の中に
そういう
自我の汚れやそのネガティヴな感情が
あると
気づかなければ
その窓は開きません。
しかし
自分をみつめきり
自分の中にある
純粋で純真なピュアな自分に
気づき
自分を縛っている
通俗的な固定観念や
既成観念を
外していくと
そこにあるのは
ただひたすらに生きている自分です。
それは
人間社会の桎梏から
解放された自分で
そこには
自分が生きることによって
体験し
経験し
考察してきたことが
純粋に培養されて(汚れがおちて)
自分と繋がります。
人間社会の通念や常識や
序列の価値観や
階級性や
貧富の有無を
超越した自分です。
醜悪に固執しない自分です。
自分という現象を
そのまま
生きようとする自分です
つまり
自分になりきってゆく
ということですね。
羽仁監督の映画「不良少年」には
傷ついている少年に
一切介入しないで
そのまま見ている羽仁監督の
大きな眼差しがあります。
さらに小津安二郎監督も
もしかしたら
道元の世界に
通じていたかもしれないと
私が思うのは
小津は
ちょっとセレヴな階級の人間の
日常を描き続けました。
さらに
大道具や小道具にも
こだわったかということは
自分の階級性や文化を
そのまま受容し
そして
自分になりきることこそが
翻って
人間の普遍性を描くことにもなると
わかっていたのではないかと
思います。
つまり自分を究めてゆくその先に
人間の普遍的、本質世界が
現れるという自信が
あったのではないでしょうか。
お二人が道元の世界に通じていたかどうかは
わかりませんが
少なくとも
人間通念の一切を
超越しようとして
自己の思い込みを自戒しながら
カメラを廻していたと
私には思えます。
さらに
村上浩康監督の「無名碑」にも
今を生きる無名の人々が
そのまま写されています。
そして
偶然カメラの前に現れた
95歳の伊藤翁が語る
シベリア抑留の経験は
まさに翁の人生に洗われ、浄化されたように
あっけらかんとして語られます。
人生の困難を生き切って
さらにそのままの自分を生きる翁の姿が
とても
素敵です。
人間はもともと
こういう素敵さを
もっているのです。
空は空にまかせる。
そして空は空になりきっている。
同様に大地も大地になりきり
海も
鳥も虫も草木も
それぞれが
自分になりきって
生きている。
生きるということは
故岩田慶冶先生のことば
「人間は個の断絶を介して繋がりながら生きている」
のです。
私たちは一瞬、一瞬を
断絶を介しながらも
他者と繋がり
さらに
空や大地や海や鳥や虫や動物や草木の
そのはたらきの同時性のなかを
その
全体性のなかで
その一瞬を共有しながら
いきているのです。
そういう
大きな
大きな
世界の必然性のなかで
私たちの
固有な自分世界が
今
この瞬間も
息吹いていると
いうことですね。
花になりきって
咲いているんだね!