放てばかえって手にあふれ! その5、道元の認識論! |
脳のメカニズムが解明されればされるほど
道元の世界観が立証されるように
思います。
鎌倉時代の道元が
いかに優れた洞察力をもち
あまねく世界を相対化していたかに
驚嘆します。
道元は宗教家であり、
思想家であり哲学者でもあります。
中でももっともすぐれてるのは
その認識論で
この認識論こそが
現代の脳科学や心理学をさえ
縦断し網羅しているのに
私は
驚かされます。
認識論とは
彼が
人間や世界を
どのように
認識していたかです。
人間は<すべてのことを>
自分を通してしか
認識できません。
まず800年も前に
道元がこのことを
認識していたことが
もう驚きです。
つまり世界は
その人間の五感を通してしか
見えず、感じられず、思われず
また
その人間が、自分の存在のありようや
外的世界との関係性において
脳と体のセンサでー収集した
データから
世界を解釈し、把握し
さらに自分の考察を量ねて
自分および自分以外の外的世界を
省察しているにすぎないのです。
だから
すべてが
自分というフィルターを
通してみえていることであり
そういう思いこみのなかで
人間はいきているのです。
だから
自分の考えや
思いが
はたして
ほんとうにそうであるか
どうかは、
客観的に立証されたものや
科学的に実証されたもの以外は
不確実なものなのです。
つまり人間は
自分の主観をとおしてしか
ものごとをみることができません。
そしてほとんどの人間は
自分の主観的世界をそのまま
正しいとして生きています。
だからこそ
その
主観が問われるのです。
主観とは脳がおこす現象です。
つまり自分の脳内データーによって
分析され、判断され、認識されたことにより
成立する自分という現象(自我)が
外へと向かって放たされる思いです。
だからきわめて
個人的であり
その脳内データーに
自我の
バイヤスがかかっていたり
汚れやゆがみがあると
当然自分のことも
外的世界も
そのようにしか
見えませんし、思われません。
そして
人間は生まれた瞬間から
その人間の自我のバイアスの中を
いきてしまいます。
その自分のバイアスと
他者とのバイアスとが
衝突して
人間の苦しみが
起きるのです。
だから道元は
そういう自我を
坐禅という修行によって
自分を<空>にしてく。
つまり
自分の雑念を取り除き
空っぽにし
無意識状態へとなる。
いわゆる生まれたときの自分のように
人間社会に汚染される前の自分に
もどすように
しなさい。
そのために修行しなさいと
言っているのだと
私は
思います。
道元の覚醒は
心身脱落によるといわれていますが
心身脱落とは
自意識が消え
一切の執着がなくなり
空っぽになった自分が現れてくる。
つまり
自分が溶けてゆき
世界と自分が
ひとつの全体性のなかで
不連続に
連続していることだと
私は自分の経験から
そう思っています。
自分を<空>にするには
ふたつの方法があるように
思います。
ひとつは
1、自分の自我のありようを
客観的に厳しく検証していくこと(洗い直していくこと)と
もうひとつは、
2、フロー現象を体験することです。
フロー現象とは
◎自分になりきることで、
自分になりきっている現象です。
自分の中の集中がたかまり
いわゆる
没我状態になった自分です。
我をわすれて
なにかに没入している状態です。
1、については、
現実に直面し
悩み苦しむ中で
コツコツと自分を
客観的にみつめていくことで
少しずつ自分の偏りや汚れがみえてきます。
それに気づき、それらを取り除いていくことで
だんだん自分の中が空っぽになっていきます。
つまり
執着や自分の思い込みがとれてゆくのです。
と同時に
自分の意識にぐるぐる巻きにされていた自分が
世俗的緊張から解放されて
自由に、自在になっていきますが
それは人生の
長い時間のなかでの
ゆっくりとした覚醒となります。
※物事を
客観的にみることも
脳の機能にあり
それが無意識の中でも
自動的に働いていますが
その機能を生かすには
意識的に
感情をコントロールし
ものごとを
第三者の位置から
客観的に冷静に見る訓練を
しないと
なかなかその能力が育ちません。
2、については
なかなか体験されない現象ですが
これを体験すると、一気に人間観、世界観が変容します。
つまり人間は
一切のことを忘れて(一切の雑念から解き放たれて)
眼の前のことに没我し
◎自分になりきったときこそ
その能力がフルに発揮されるのです。
この心身脱落による
世界と自分とが一つになったことを
理解できるようになると
道元のことがわかってきます。
逆にそれがわからないと
道元は難解で
何をいっているのやら・・・・と
いうことになってしまいます。
つまり
◎ 世界はすべて自分であり≒主観的認識
◎ 自分はすべて世界と一体である≒客観的認識
という
認識です。
これを理解できてくると
道元のいう
「絵に描いた餅」論も
真理である
ということが
理解できてきます。
つまり絵とは
そこに(絵の中に)
自分のすべてが現れるのであり
「絵にかいた餅」には
実はそれを描いた人間の現実が
絵に現れているのです。
そして
それを見る他者も
その絵をどういう風に感じ
みているかこそが
その人間の現実なのです。
だから
「絵にかいた餅は食えない」というのは
凡夫のたわごとであり
つまりは
何も覚醒していないことであるよ!
と
道元はいうのです。
このことは
芸術の本質を言い当てていることでも
あるのですね。
だから前回書いたように
もしかして
小津安二郎監督は道元世界と通じるものを
熟知していたとすれば
おそらく
自分になりきり
自分の世界を映画で描き切ることが
そのまま
人間の共時性や普遍性を描くことになるという
覚醒があったのではないかと
私は思うのですが・・・。
つまり
映画でも
芸術でも
そこには
自分の裸の姿(自分のすべて)を
さらすことしかなく(注ぎ込む)
その裸の自分こそが
空になっていく自分で
空になった自分が
無意識の底に流れる地下水のように
他者と繋がっていく。
と
わかっていたのではないかと
思います。
このことは
個々の脳が起こす現象である人間が
なぜ
<人間世界>を維持していけるのか
ということにも
繋がります。
つまり
道元は
人間の無意識の中に
仏性をみようとしたのですね。
そして
私たちも
無意識の中に
自分への信頼があり
他者への信頼を
持っているからこそ
こうして
個々の断絶がありながらも
その断絶を介して存在する(生きている)ことが
できるのです。
覚醒するとは
このことがわかってくることです。
究極には
自分を生き切ることだと
いうことですね。
