放てばかえって手にあふれ! その11.自分を遇する! |
昨日書いた人のように
いつも自意識にかられ
自分が他人にどのように扱われるかに対して
神経をとがらせているのに
自分が
他人をどのように扱うかにつては
全く自分本位でしかない!
人間は関係性の中でしか
生きれないから
常に他人に作用されるのは
仕方がないのですが
だからこそ
自分は
・どのように存在するか
・他者との関係をどのように結ぶか
つまり
・自分はどのように生きるかについての
考察と自覚をもっていない限り
どんどん他者との関係に翻弄されてしまいます。
つまり
自分を自分がどのように扱うか
もっというと
自分をどのよう遇するか・・・という
事なのですね。
この<遇する>という言葉は
単に扱うということではなく
いかに<もてなす>かということでも
あります。
つまり
自分は自分をどのよう扱うかは
どのように
もてなしているかと
いうことでも
あるのです。
自分を粗末に扱うということが
昨日書いたように
自分の優越感を感じたいために
小刀(攻撃欲求)を懐にもってそれで
チクリと刺したり
自分を頂点において発想し
支配欲にかられている。
さらに
他人に自分を顕示せずには
いられない!
こういう人は
無意識領域では
真反対に
自分に自信がなく
心が
埋められない自分がいるんですね。
まあね、
そういう生き方もいいけどサ!
自分の心は
自分で埋めない限り
どうにもできないよ!
だから
そういうしょうもない
支配欲や
自己顕示欲や
優越感なんていうものとは
おさらばすればいいんです。
なぜ、そういう欲をもってしまうかというと
いつも自己憐憫の感情にばかり囚われ
自分で自分を埋める努力を怠り
いつも自分を突き放して
客観的にみることをせず
自分の主観ばかりを
のさばらせる。
その結果
自分の中にしっかりとした
他者との関係性に対しての
経験値に基づく冷静な考察や理念や
確信がないから
そこを埋めようとする
自己幻想(仮想の自分のナルシズム)を
安直に
持ってしまうんだね。
つまり自分のしっかりした
自分はどう生きる・・・という
自己イメージが
ぼけているから、甘いから
安易に自分の都合のいいように
自分を
幻想化するのです。
自己幻想をもつから
他者にも安直な幻想(期待)を
抱いてしまうのですよ。
自己幻想から
脱却するには
どうしたらいいかというと
それこそが
自分をもてなすことです。
自分を突き放して
遠くから眺め
どうしたら
自分が満たされるかを考えつくして
もてなす。
そして
自分の自然性に任せて
心を埋めてゆき
いつも
それでいいよ!
と
自分に言い続ける。
自分の中に欠落があるなら
それを
自分で埋めてあげる(もてなしてあげる)。
その欠落を
どう埋めるかは
それこそ
アタマをお使いなさいよ
知恵の出しどころでしょう!
そういう風に
行動すること。
人間はみな
懸命に自分をいきているから
他人は他人の事情が満載の人生です。
だから
他人をうらやむことなど
ひとつもありません。
嫉妬することも同じです。
何一つとして
嫉妬する必要はないのです。
みんな同じなのですから!!!
人はそれぞれが
それぞれで手いっぱいです。
それが人間の実相です。
人生というのは
つまり
自分が生きるということは
◎比較ということの埒外にしか
成立しないのですよ!
他者の人生なんて
分かりえないのですから
比較のしようがないでしょ。
自分に優しい目をむけ
自分を遇する者こそが
他者をも
大切に扱う(もてなす)!
そういう関係は
楽しいよ!
醜さを磨くとは
自分の中の毒やヘドロを
磨くということですが
いずれそれは
自家中毒になって自分を冒していきます。
怖いね~!
どうして
そんなもんを抱え込んでしまうかというと
人間は
そういう毒やヘドロを他者に放った瞬間に
エクスタシーがあるからです。
でも
それも瞬間のエクスタシーです。
本能的な攻撃感情が解放される
エクスタシーです。
でもそれは
下等動物のエクスタシーですからね・・・苦笑!!!
そういう感情を
いかに手放し
理性と考察力で
自分を制していくかが
人間が人間になる道だと
私は思っています。
そうなるときは
感情も成熟しています。
放てばかえって手にあふれ!
とは
自分の素敵さや
真摯さや
懸命さや
正直さに
気づき
愛することです。
そうなれば
もう
人生は自分の手のひらで
開花していきます。
そうなるといいね!