放てばかえって手にあふれ! その13、素晴らしい道元の認識論! |
禅の問答はなかなかむずかしくて
理解できません。
それに
中にはこれって
ひねくれているんじゃない?と
思えるようなものもあります。
しかし
それも
◎この世のすべてが
<現象>であるということを
理解できると
よくわかってきます。
よくわかってくると
それが
凄い<認識論>であり
西洋の哲学などをもう
遥かに凌駕した
世界論であることが
わかります。
特に
道元の世界観は
抜群に
優れているように
思います。
特に
「正法眼蔵」の現成公案にでてくる
「薪と灰」の話など
私はう~んと
唸ってしまいます。
つまり
道元は
薪が燃えて灰になるのではない。
薪は薪という現象で
それに
火という現象が加わり
さらに
そこから
灰という現象へと変化していく。
灰は灰という物理現象で
薪は薪という物理現象で
それぞれが
自立的な現象であると
言うのです。
普通は
薪が燃えて灰になると考えると思います。
つまり
薪が燃えるという時間の推移のなかで
灰に変化する
と
いうふうに
考えるでしょ。
しかしそうではないのですね。
道元はアインシュタインよりもはるか前に
時間という概念を
解体してしまうのです。
すごいね~!
今
薪は薪という自立した現象で
そこにおきている現象であり、
そして
もし
火で燃やさなければ
薪は
薪自身の自己変化をしていきます。
つまり灰とは違う変化を
だんだんしていきますね。
たとえば枯れてしまうとか
或は
朽ちて腐るとか。
つまり
薪は薪で
薪という外装の形状で
現象化しているが
しかしそれは薪自身が
刻々と現象が変化しながら
そこにあるということです。
もっと詳しくいうと
薪の中の物理現象は
常に変化しているということです。
つまり
薪を構成する
原子や分子の構造が
刻々と変化しているのですね。
そして
灰は
火という熱力が加わることで
灰という形状の現象が起こり
その灰自身も
刻々と変化する中に
ある。
つまり
すべての物質は
刻々と変化する物理現象のなか
在る
ということです。
それは
人間も同じことで
人間というおおきくフレーム化された現象であり
外部との関係性において
刻々と変化する元素の物理現象を下敷きにして
有機的連関をもって生物化している生命現象が
刻々と変化しているに過ぎない。
つまり
私たちは
いつも細胞という生物現象が
刻々と変化しているから
歳をとり
やがて
死ぬのですね。
私たちも刻々と
変化しているでしょ!!
そして最終的に死があり
死んだ私たちは
火に燃やされて分解して元素にもどるか
土に埋葬されて
分解して元素が
さらに分解されるか。
或は
他の生物に食されて
その一部の細胞になるか・・・。
まあ
すべてが
関係性のなかで生滅する
現象なのですね。
生も一時のくらゐなり、
死も一時のくらゐなり。
たとえば冬と春とのごとし
冬を春となるとおもわず、
春の夏といはぬなり。
「正法眼蔵」現成公案
<訳>
生といえば一瞬々々において
生になりきっており、
死といえば
一瞬々々において
死になりきっている。
それはたとえば
冬と春のようなものである。
人は
冬そのものが春に変わるとは思わず、
春そのものが
夏になるとは
いわない。
つまり一瞬々々の関係性でおきる現象としての
春というフレームで概念化された
現象と
同じように
生というフレームの概念のなかで
刻々と変化する生命現象であるのが
私たちです。
もっと広くデッカクいうと
宇宙の物質と反物質の
対称性の破れめから
私たちの素となる物質現象が
生まれ
その先に
地球現象が生まれ
さらに生物現象が生まれ
さらに
私たちという人間の
脳と体の現象が起きていると
いうことですね。
私たちも
一瞬を刻々と
現象化しているからこそ
成長し
歳をとるのです。
道元は
一瞬々々を生き
自分になりきれ
といいます。
そのために
不純物を
おとし
捨て去りなさい。
不純物はみんな
人間の欲と妄想が
創りだしたものですよ!
というのですね。
科学も
脳の研究も
なかった時代に
こういう認識ができたというのは
素晴らしいです。
凄いね~!
日本人の頭脳の素晴らしさです。