内なる子供・インナーチャイルドの世界 その6 |
鍼灸にいきましたら、
一時間待ちということで
時間つぶしに
近くの本屋へ行きました。
田舎の本屋なのに
なかなかいい本がおいてあり、
吉本隆明さんの未発表講演集の2巻
「心と生命について」という本を
買いました。
まあ、いわゆる吉本流廻りくどい語りくちで笑!
いろいろと話しておられるのですが
最初に「ものがたり」について講演されているところで
村上春樹さんと河合隼雄さんの対談の中から
村上さんの作品について話しています。
村上さんは、自我意識をあえてぬかし
無意識がどんな行動を起こすかについて書いていると
対談で話しているのですが
それを踏まえて吉本さんが
分析をしています。
その吉本さんの分析を読んで
私は、なるほど、やはりそうであったかと
ちょっと納得しました。
私も世人が騒ぐ村上春樹なるひとの本を
読んでみるかと
何冊は買って読んだのですが
それらの本は全部途中放棄してしまいました。
というより
面白い本なら、無意識にどんどん目が字に食いついてゆくのですが
村上さんの本は、どうしても目が進まない!つまり
飽きちゃうのです。
なんか、空疎でね。
それでもういいやと思い
そのまま棄ててしまいました。
だから、もう村上春樹という作家のことは
あたまにはなく
忘れていたのです。
しかし、
あの空疎さがどこから来るのかということを
吉本さんの分析から
納得しました。
河合隼雄さんとの対談で
村上さんは、自分の小説を
「漱石的自我、あるいは存在論的自我の葛藤ということを
小説の本筋だとは自分は考えたくない。
そうじゃなくて、自分の無意識がどんな事件をひきおこし、
どんなことを考えるのかということを
描く。今のじだいならなおさら、そういうものを掘りおこすことが
自分のモチーフだ。」と云って、
そう位置付けている。と吉本さんは書いています。
しかし吉本さんはそれに対して
「僕が客観的にみたら、そういう風にはできていないよ。
できているといっても
半分ぐらいだととしかいえないと思います。」と
言っています。
なぜかというと
無意識に着目し
そこに自分を据えてかこうとしたことは
それでいいとしても
しかしそれは、
漱石が徹底的に自我と意識を緻密に書き込み
さらにそこから
自我を解体したのに比べ
村上さんは、
その無意識的な描写はできても
解体ができていないからだと。
そのために無意識は自分の閉じた世界から出ておらず
だから通俗的なとこにとどまっていると
いう風に吉本さんは言っています。
(だからこそ、本が売れるのですが・・・。)
ほんとうに
その通りだと、私も思います。
つまり村上さんも
無意識を書くといいながら
その無意識のところになにがあるのかを
追及するために必要な
自我意識を解体しないで
意識(自我)を通して無意識を
ただみているに過ぎないために
あのような
<閉じた傍観者的な文>しか書けないのだと
思います。
人間が無意識にやる行動や感情を理解するためには
●意識を通して
●無意識にある記憶を突き止めなければ
出来ません。
記憶の中にある
自分の行動の動機としての
・記憶の初期設定や
・後天的に思い込んでしまってことを
・突き止めたうえで
自分の意識である
自我を解体しなければ
それは、書くことすらできません。
つまり
無意識とは
自分の行為行動が
直列電流として脳の中通り抜けていく行為ですが
その無意識がなにかに引っかかって
通り抜け出られずに
並列電流となり
言葉へと変換され頭の中を巡るのです。
だから言葉に変換された瞬間からそれは
自我意識の検閲と検証の中にあるのです。
だから
言葉化するというその時点で
無意識は自我意識に規定され
検閲をうけるのでが、
その検閲を外し書こうというのが
村上さんのスタンスではないでしょかね~!
でもね、
そういう連関の中で
自我意識そのものをまず
解体していくとう作業をしない限り
無意識にある<自分のバイアス>を相対化できません。
村上さんは
無意識を書くといいながら
その無意識のところになにがあるのかを
解体せず、
意識(自我)を通して無意識を
ただみているに過ぎないから
あのような
<閉じた傍観者的な文>しか書けないのだと
思います。
そこには
村上さんバイアスがかかった無意識があるのみですが、
もしかしたら
彼は
自我意識に
感情移入をしていないのを
無意識としているのでは
ないでしょうか?
そして
現代の人たちは
自我が葛藤するのを嫌がり
村上さんのように
「じぶんは日常生活の中にでてくる意識的なレベル、
あるいは自己とか自我というものと外界、人間関係としての
葛藤には主流をおきたくない」
という生き方になり
そういうところで生きようとします。
だからこそ
村上さんと同類、同質、そして同座標の住人のひとたちが
彼の読者であり、熱烈な支持者になるのだと
おもいますがね~?
さらに村上さんは続けて
「もっと下のほう、無意識のうちに自分にぶつかるもの、
あるいは無意識のうちに受け入れているもの、
無意識のうちに自分がふるまっているものにレベルを下降させるというか
意識と無意識というものがあるとすれば、
無意識のほうに自我をぼんやりさせたうえで
しかし無意識としては非常に明瞭なレベルであるということを
心がけて書いてきた、そういうところに
自分の特徴があると思う。」
と
云っています。
これも
吉本さんのいうとおり
半分はできていると
いうことです。
つまり
自分というのは
自我意識と無意識の双方で成立しており
特に自我意識というのは
人間の創りだす固定観念や既成観念や文化や文明に
汚染されている・・・・らしい
だから
もっと
無意識にとっている自分の行動や振る舞いのなかに
なにか、自分の本質的なものが
あるのでなかか、
だからそれを書くと
いうのでしょう。
でもね
それは
半分だけ、気づいているということには
なりますが
しかし、
一方では
無意識にかかっているバイアスには盲目です。
そして
自我の葛藤や格闘を逃げています。
つまり
半分しかやり切れていないのです。
自我の葛藤や格闘こそが
実は
自分の<自我意識>と<無意識>の確執であり葛藤の
投影されたものであると
いうことが
理解されていないからです。
つまり
意識も無意識の
自分という
大きな体系と連関と循環のなかにあり
相互の連鎖のなかを
脳の電流がめぐっては
分流の現象化となっているということです。
だから
無意識だけを取り出そう、書こうとしたら
当然のごとく
その現象面しか書けません。
だから
傍観者的目線しか書けないし
それで限界いっぱいになってしまうのです。
こういう人は
本質に食い込む
その核となるものと格闘し
その解体をすることすらできません。
ひたすら周辺の現象を追い続けるか、書き続けるか。
いわば、
無意識現象としての自分の主観を
かきつづけるのです。
見事に
<無意識レベルを相対化する客観性が
ぬけおちてしまうのです。
●無意識レベルを相対化する客観性とは
意識が直面する自我の日常性において起きる
外界や人間関係のなかにひそむ
具体的で生々しい葛藤や格闘を通して
みえてくる
自分の中の潜在性を
相対化してみる
と
いうことです。
それは
自分の遺伝子による脳のデフォルトと
さらに
後天的に獲得してゆく記憶の中に
なにが
あるのかを
自分の行動や感情をとおして
突き止め
それを
客観的に
検証していくことです。
このブログでは
ずっとそういうことを
書き続けています。
また
読んでくださる方は
そういう傍観者である自分にきづき
そこから
どう脱出していくかを
模索し
自分の無意識に
なにが起きているかを
知ろうとしている方々であると
私は考えています。
さらに村上さんも河合隼雄さんもそうですが
村上さんがいみじくも
「もっと下のほう、無意識のうちに自分にぶつかるもの、
あるいは無意識のうちに受け入れているもの、
無意識のうちに自分がふるまっているものにレベルを下降させるというか
意識と無意識というものがあるとすれば、・・・」と
書いたように
意識の下に無意識があるというような
思い込みがあると思います。
私は意識も無意識もその分量は違いますが、並列にあり、
何かの外的現象に反応し
シンフォニックに連鎖しながら
脳のネットワークが
立ち上がっていくと
考えています。
だから
決して
無意識は意識の下降にあるのではなく
それを分母的なものと位置づけるのも
いかがなもかと
思います。
※脳の中は物理的な世界であり
その優先性は
命の保全にあえと
考えています。
漱石の素晴らしさは
自我の解体を徹底的に
やりとげたからこそ
逆に自我が
無意識の世界へと
突き抜けていったことです。
つまり
意識と無意識の世界を網羅して
漱石がたどりついた「則天去私」の世界こそが
無意識も意識もすべてを
包括し
自我の意識に拘泥せず
むしろ
無意識に自分をまかせ
自我が勝手をしない大きな世界=天に
運をまかせて、のほほん、のほほんの
世界観です。
そしてね、
<内なる子供・インナーチャイルド>は、
無意識の記憶の門の番人である<海馬>があけてくれた窓から
みえてくる、
子供の頃の記憶の指紋(風景)です。
さて
もうすぐすると
奥友志津子さんと対談した
「内なる子供・インナーの世界」が
ユーチューブでアップされます。
今日のブログの内容も含めて
是非
ご覧いただけたら
嬉しいです。



私も村上春樹さんは、田下さんのように過去何度もトライしたのですが、全く入り込む事ができず、海外にもコアな厚いファン層が沢山居るので、英訳が良いのではないかという結論に勝手に達していた次第でした。
今回のエントリーで、漱石を引き合いに、意識によって無意識を解体するという分析で深く納得すると共に、昨日丁度読み終わった本を通してその事について考えていましたので、とてもタイムリーでした。写真家の志賀理江子さんという方の、螺旋海岸notebookというテキスト中心の本で、制作を、時間をおいてから遡行的に言語化(意識化)するという試みをされていて、制作過程をある種解体するまでに徹底的に突き詰められた、高度に抽象的な思考過程をテキストとしてそのまま開示されており、私はその試みから本当に勇気をもらいました。田下さんのYouTubeの対談のアップも、とても楽しみにしております!
ごまかしようのない無意識と自我意識の葛藤が現れてきます。それは脳の中で、意識と無意識とがお互いに相互関係にあるからです。相互に乗り入れながら行動選択をしているからです。そしてその行動は意識を通してしか無意識の領分は見えてきません。意識を言語化するというのは人間独特の機能だからです。まさに没入(没自我)して表面に浮き上がった無意識の指紋をどのように言語化するかですね。それは作家にとっては大変心理的に厳しいことですが、だからこそ、ほんとうにリアルな無意識の地平が見えてきます。播磨さんの作品「顔」もそういう作品だと私は高く評価しています。
