2015年 09月 20日
内なる子供・インナーチャイルドの世界 その7.無意識の指紋! |
コメントにもかきましたが、
私たちはいつも無意識の海のなかで
意識と葛藤しながらいきています。
その意識に引っかからなかったものは
無意識としてスルーしていきます。
意識にひっかかったものは、
8の字型に脳のなかを巡りながら
検証や精査されながら
やがて消えていきます。
意識を言語化するのは人間だけであり、
ほかの生き物、動物にも意識があるのかもしれませんし
もしかしたら植物にも、単純なそれらしいものが
あるかもしれません。
しかし
人間だけが意識を言語化する能力を身につけている。
ということは
極論的に言えば、
意識で無意識をみなければならない必然が
あったと
ということだと
私は考えています。
原初的な人間において
その生命を保全するために
無意識から意識をとりだし
言語化しなくてはならない
何かの危機があったのではないかと
思います。
つまり意識を言語化して
無意識領分にあることを
伝える必要が
あったのではないかと
思うのです。
無意識のなかから
何かを限定して
伝える必要があった。
しかし進化および
文明と文化の進行とともに
だんだん言語が自立化して
独り歩きを始め
原初的な、伝える機能から
複雑で複合的な存在になってしまった。
言語そのものが
・幻想や
・偽事をつくりだすように
なってしまったと
私は考えています。
だから今
自分の無意識をみるのさえ
困難になっている。
しかし
無意識は人間の行動に
指紋のように現れています。
そして
その無意識の指紋は
人間世界のありとあらゆるもの、ところ、にも
同様に顕われている。
それは表面的な指紋というだけではなく
それを導入にして掘り下げていくと
すべてにおける構造において
無意識が関係しているということが
わかってきます。
そしてその意識と無意識のねじれ
つまり
無意識と自我の意識的との葛藤が
苦しいのです。
だから自我の中に何があり
それが
無意識領域の何と
揉み合っているか。
つまり、
その無意識領域になにがあるかを
突き止めることこそが
もっともリアルに
人間、存在、すなわち
自分を知ることになるのです。
だから無意識に現れる現象をつきとめていくには
まず
自分の意識現象の根幹を
つきとめいかなければ
無意識の鉱脈には
突き当らないということです。
芸術家の仕事は
そういう
常人では
なかなかできえない
極度の集中と没入により
自我意識が消えて<無>になる水準まで
自分を投入していくことで
自我でははかりしれない思いもよらない
自分の無意識の風景に出遭い
とりだしてゆくことだと
私は考えています。
その時
もしかしたら
そこには
自分のみたくない風景
うけいれがたい事象が
顕われてくるかもしれません。
しかし
勇気と意志をもって
その扉を開いたとき
そこには
ごまかしようのない
リアル世界がたちあらわれてくると
思います。
しかし
そのリアル世界は美しいのですよ。
つまり現れるくる形象が
どのように
醜くとも、
それは
人間の自我の妄想や幻想に汚染されていない
品格と美しさがあります。
ホンモノだからね。
作家がそれにたじろがずに
表象しえたとき
それは芸術的な価値と
意味を持ってくると
思います。
また文学の場合は
言語というものに変換しなければなりませんが
その言語に変換されたものを
厳しく見つめる作家の意志が必要です。
厳しさとは
言語、文章、文脈、そして行間に現れる
自分の自我の指紋や脚色を
一語たりとも
ごまかさないと
いうことです。
そのためには
自我の妄想(自我が思い込んでいるもの)を
厳しく査証し検証し
さらに
自分の自我の感情も
あらいざらい
光の中にさらす必要が
あります。
その厳しく
厄介な作業を
漱石はやり遂げたのですね。
一見、私小説のようにみえるが
そこには
私小説的な主観のあれこれや
感情のグダグダしたものは
書かれていません。
そういう油汚れのようなものは
ないのです。
なぜなら
漱石の覚悟のなかに
一貫して
すべてのことから
<等距離>であろうとする
極めて客観的な<目>があったからです。
自分のことも
家族のことも
そして世の中のことも
世界のこと
すべてに対して
そういう等距離を
漱石が
持っていたからです。
このことにおいては
漱石は秀逸で
ほかには
そういう作家は
なかなか見当たりません。
人間がなぜ
客観世界を相対化する能力を
獲得したのか。
このことの大きな意味と意義は
これからの人間と人間社会を
どのように構築していくかなかで
だんだん明らかになると
私は考えています。
それが明らかになり
衆目すべてが
そのことを理解できるようになる頃まで
私は生きておられませんが・・・・・笑い!
村上さんの本がたくさん読まれるということは
半分は、そういうことに
何かに気づきたい
しかし
半分は
自我の解体という厳しさには
向き合いたくない!
という人たちが
たくさんいるということでは
ないでしょうか。
でもね、
自分の無意識のなかにどういう世界があり
どのような感情が潜んでいるか。
それが自分の行動の
どのようなモチベーションになっているかを
知るのは
逆に
そこから
新しい生き方が展望できるようになるということでも
あります。
勇気をもって
自分と向き合うことです。
そのことも含めて
今回の対談での奥友志津子さんの6年間の軌跡
「内なる子供・インナーチャイルドの世界」が
そのヒントになるといいなあ~と
思います。
もう少しお待ちください。

やっと雨があがり、陽が差してきた!
私たちはいつも無意識の海のなかで
意識と葛藤しながらいきています。
その意識に引っかからなかったものは
無意識としてスルーしていきます。
意識にひっかかったものは、
8の字型に脳のなかを巡りながら
検証や精査されながら
やがて消えていきます。
意識を言語化するのは人間だけであり、
ほかの生き物、動物にも意識があるのかもしれませんし
もしかしたら植物にも、単純なそれらしいものが
あるかもしれません。
しかし
人間だけが意識を言語化する能力を身につけている。
ということは
極論的に言えば、
意識で無意識をみなければならない必然が
あったと
ということだと
私は考えています。
原初的な人間において
その生命を保全するために
無意識から意識をとりだし
言語化しなくてはならない
何かの危機があったのではないかと
思います。
つまり意識を言語化して
無意識領分にあることを
伝える必要が
あったのではないかと
思うのです。
無意識のなかから
何かを限定して
伝える必要があった。
しかし進化および
文明と文化の進行とともに
だんだん言語が自立化して
独り歩きを始め
原初的な、伝える機能から
複雑で複合的な存在になってしまった。
言語そのものが
・幻想や
・偽事をつくりだすように
なってしまったと
私は考えています。
だから今
自分の無意識をみるのさえ
困難になっている。
しかし
無意識は人間の行動に
指紋のように現れています。
そして
その無意識の指紋は
人間世界のありとあらゆるもの、ところ、にも
同様に顕われている。
それは表面的な指紋というだけではなく
それを導入にして掘り下げていくと
すべてにおける構造において
無意識が関係しているということが
わかってきます。
そしてその意識と無意識のねじれ
つまり
無意識と自我の意識的との葛藤が
苦しいのです。
だから自我の中に何があり
それが
無意識領域の何と
揉み合っているか。
つまり、
その無意識領域になにがあるかを
突き止めることこそが
もっともリアルに
人間、存在、すなわち
自分を知ることになるのです。
だから無意識に現れる現象をつきとめていくには
まず
自分の意識現象の根幹を
つきとめいかなければ
無意識の鉱脈には
突き当らないということです。
芸術家の仕事は
そういう
常人では
なかなかできえない
極度の集中と没入により
自我意識が消えて<無>になる水準まで
自分を投入していくことで
自我でははかりしれない思いもよらない
自分の無意識の風景に出遭い
とりだしてゆくことだと
私は考えています。
その時
もしかしたら
そこには
自分のみたくない風景
うけいれがたい事象が
顕われてくるかもしれません。
しかし
勇気と意志をもって
その扉を開いたとき
そこには
ごまかしようのない
リアル世界がたちあらわれてくると
思います。
しかし
そのリアル世界は美しいのですよ。
つまり現れるくる形象が
どのように
醜くとも、
それは
人間の自我の妄想や幻想に汚染されていない
品格と美しさがあります。
ホンモノだからね。
作家がそれにたじろがずに
表象しえたとき
それは芸術的な価値と
意味を持ってくると
思います。
また文学の場合は
言語というものに変換しなければなりませんが
その言語に変換されたものを
厳しく見つめる作家の意志が必要です。
厳しさとは
言語、文章、文脈、そして行間に現れる
自分の自我の指紋や脚色を
一語たりとも
ごまかさないと
いうことです。
そのためには
自我の妄想(自我が思い込んでいるもの)を
厳しく査証し検証し
さらに
自分の自我の感情も
あらいざらい
光の中にさらす必要が
あります。
その厳しく
厄介な作業を
漱石はやり遂げたのですね。
一見、私小説のようにみえるが
そこには
私小説的な主観のあれこれや
感情のグダグダしたものは
書かれていません。
そういう油汚れのようなものは
ないのです。
なぜなら
漱石の覚悟のなかに
一貫して
すべてのことから
<等距離>であろうとする
極めて客観的な<目>があったからです。
自分のことも
家族のことも
そして世の中のことも
世界のこと
すべてに対して
そういう等距離を
漱石が
持っていたからです。
このことにおいては
漱石は秀逸で
ほかには
そういう作家は
なかなか見当たりません。
人間がなぜ
客観世界を相対化する能力を
獲得したのか。
このことの大きな意味と意義は
これからの人間と人間社会を
どのように構築していくかなかで
だんだん明らかになると
私は考えています。
それが明らかになり
衆目すべてが
そのことを理解できるようになる頃まで
私は生きておられませんが・・・・・笑い!
村上さんの本がたくさん読まれるということは
半分は、そういうことに
何かに気づきたい
しかし
半分は
自我の解体という厳しさには
向き合いたくない!
という人たちが
たくさんいるということでは
ないでしょうか。
でもね、
自分の無意識のなかにどういう世界があり
どのような感情が潜んでいるか。
それが自分の行動の
どのようなモチベーションになっているかを
知るのは
逆に
そこから
新しい生き方が展望できるようになるということでも
あります。
勇気をもって
自分と向き合うことです。
そのことも含めて
今回の対談での奥友志津子さんの6年間の軌跡
「内なる子供・インナーチャイルドの世界」が
そのヒントになるといいなあ~と
思います。
もう少しお待ちください。

by denshinbashira
| 2015-09-20 07:02
| 内なる子供の世界(インナーチャイルド)
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