2015年 10月 02日
<ロベール・ブレッソン>の世界・自我の狂気、その1 |
今日からは<ロベール・ブレッソン>の世界について
書こうと思っていますが
それはなかなか
難しいです。
彼の映画は難解ですので
書くのも
難解なものになるかもしれませんが
少しずつ
書いていきます。
読んでくださる方は
自分の自我現象を
しっかりと観察し
検証しながら読んでいただくと
あゝ、そうか
実感とできるかもしれません。
とても厳しい地平です。
では・・・・。
映画監督の村上浩康さんとの
次の対談の候補として
フランスの映画監督
<ロベール・ブレッソン>の作品を
見ました。
村上さんに紹介していただくまで
<ロベール・ブレッソン>のことは
全く知りませんでした。
しかし
最初に「抵抗・死刑囚は逃げた」という作品をみて
びっくりしました。
もう最初から最後まで
私の集中が解けることなく
固唾をのんでみました。
次に「バルタザールどこへ行く」
そして
「ラルジャン」と見ましたが、
それらの作品は
何度も推敲をかさねられ
無駄なものが一切そぎ落とされ
厳冬の中に立つ
裸形の木々のように
人間の本質と孤独が
究められており
素晴らしい芸術作品を
見ているようでした。
ほんとうは
「抵抗」で何となく感じ
「バルタザールどこへ行く」を見たときから
<ロベール・ブレッソン>氏が
何を意図しているかは、おおよそ
わかったのですが、
でも
それを確かめたいと思い
さらに
「田舎司祭の日記」と
「「ジャンヌダルク裁判」も
見てみました。
ロベール・ブレッソンの世界を見て
私が一貫して感じたのは
三つあります。
一つは
人間の
●<自我の狂気>です。
さらに
作品の奥深くに
まるで
炙り絵のように見えてきたふたつめは
自我の狂気を凍結した氷点に立つ
ロベール・ブレッソン氏の
●<極北の孤独と孤立>です。
この<極北の孤独と孤立>は
自我を相対化し凍結できた人間の
宿命として
覚醒した者が
背負わなければならない
孤独と孤立です。
西洋においては
イエス・キリストから、
手渡されたかすかなる点のような
それは
ドストエフスキーや
日本では道元や良寛、漱石など
自我と格闘した人間が
背負ってきたものと
同質の
孤立と孤独です。
ロベール・ブレッソンは
映画のなかで
観衆を対象にしてそれを
相対化しながら
描いています。
大衆の前で命を奪われた者たち
映画の中の司祭や
ジャンヌダルクや
もっと前のギリシャ・ローマの優れた
思想家や哲人たち
例えばソクラテスやなどもですし
また
ピタゴラスやガリレオ・ガリレイのような
科学者なども
そういう覚醒を
していたかもしれませんし
近代の思想家や哲学者や宗教家も
同じような
誰も知りえない
孤独と孤立を
引き受けてきたと
思います。
三つめは
それらを熟知したうえで
●<映画(映像)の本質とは何か>という
映画を創る人間への
問いかけです。
今日はまず
●「自我の狂気」から
書いていこうと
思います。
●「自我の狂気」とは
人間はいつも
自分の自我の中にある
欲望、疑心、妄想、幻想と
それに付着する感情と執着が
なにかの刺激に反応し
それらに人格が乗っ取られてしまい
暴走するという
<危うい契機>を
孕みながら
生きています。
そのネガティヴな感情と
それを制する理性との綱引きのなかで
かろうじて
理性がその暴走を歯止めしながら
生きています。
みなさんも自分の感情の動向を
冷静によく観察してみると
わかると思いますが、
ネガティブな感情や妄想や幻想が
一瞬にして、
アタマの中に立ち起こり
それが巡りだすと
人格を支配し
さらに
それを果たそうとする行動への
衝動が
自分の中には
あるでしょ。
そして理性の留め金は
極めて簡易で
外れやすいものです。
そういう感情の暴走をもう
理性が
くい止められなくなり
人格全体を汚染し冒し、
支配すると
犯罪へと
走ってしまいます。
「ラルジャン」では見事に
それが描かれています。
そして
そういう
大衆と
国家の
自我の狂気の病理が
ファシズムであり
さらに
戦争へとなっていきます。
私が最初にみたブレッソンの作品
「抵抗・死刑囚は逃げた」は
そういう人間と国家の狂気(戦争)のなかで
レジスタンスをしてドイツ軍に捕まり
死刑判決をうけた人間の脱獄が
息をのむような
緊張と弛緩の中で
描かれます。
そこには主人公である
囚人のフォンテーヌの
研ぎ澄まされた理性のみがあり
綿密な理性の観察と計算と行動が
脱獄の成功へと
彼を導いてゆきます。
観客の眼も神経も
ひたすら映画の画面にくぎ付けされ
そこには
観客の自我が介入する前に
観客自身の感性と理性が
映画に同化していきます。
無駄な台詞や感情も感傷も一切が
はねのけられ
厳しい画面が持続するがゆえに
観客自身の感性と理性が
フォンテーヌと一体化し
研ぎ澄まされていくのです。
さいご、脱獄に成功した瞬間の
フォンテーヌの顔に
私はブレッソンの自信と確信を
みました。
ブレッソンの凄さは
観客の脳の中をも
コントロールしてしまうことです。
つまり
遮断のない緊張と弛緩の画面を見る
観客の
一切の
自我の
感情、妄想(シュミレーション)、幻想、感傷、が
入る余地を
ブレッソンが
許しません。
自我は
画面とその推移に
凍結されてしまいます。
もっとわかりやすくいうと、
観客は
画面に集中し、
そこに自己没入するために、
体と心(神経現象)が
統一されて
画面を追います。
つまり
観客の主観的意識のバイアスが凍結され
その反対に
客観的世界が刺激されて
もっと原初的で原理的な
全体性(存在全体)の自己が
画面と対等に向き合うという
現象を
起こしているのです。
つまり
自分の自我の妄想、幻想、そして
感情や感傷のバイアスが
取りのぞかれた観客の
その
普遍的、
原理的理性が包括する世界を
ブレッソン自身が
曳きだして
連結するのです。
観客は
自我の意識(言葉の意識)ではわからないが
<存在全体>では
何となく
わかる、感じとり
もっとも本質的なことと
向き合わざるをえません。
そのためには
自我が1ミリでも反応しそうな要素を
全部、
身ぐるみ剥ぎ取る作業を
映画の作り手である
ブレッソン自身がやらなければ
なりません。
もしそこに
彼の
自我のバイアスが
1ミリでもあるなら
観客の自我は
それに即座に反応するでしょうからね。
つまり
人間の自我とは何かを
熟知し
その反応を
限界まで裸形化していく作業です。
それは
キリストや釈迦が
やり遂げたものでも
あります。
つまり
ブレッソン自身が
厳しく自己の自我を相対化し、
内省し
そこから
人間が生き延びてゆくための
人間の理性の原理と原点を
再構築するという
厳しい自己精査を
したのだと
思います。
人間にとっては
時に
手に余る
自分の自我世界とその現象を
いったいどうするのか?
そのためには
まず
自分の自我を
裸形に
し
徹底的に
検証していく。
そこは
絶望の崖しかないのか
そこに
希望は
あるのか?
自我のネガチィヴな偏りや
感情と感傷の湿度や
安易な甘えや幻想を
全部
剥ぎ落して
考えなければならない
人間の課題が
提示されていると
思います。
こうして書く私も
もう
むずかしいなあ~と
思いながらも
書いています。
でも
一緒に
考えていきましょう!
次回へ続く!!

よそんちの塀から、こぼれそうな
葡萄です。(散歩の途中で!)
漫画家の奥友志津子さんとの対談
「内なる子供・インナーチャイルドの世界」が
ユーチューブでアップされました。
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第1回
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第2回
書こうと思っていますが
それはなかなか
難しいです。
彼の映画は難解ですので
書くのも
難解なものになるかもしれませんが
少しずつ
書いていきます。
読んでくださる方は
自分の自我現象を
しっかりと観察し
検証しながら読んでいただくと
あゝ、そうか
実感とできるかもしれません。
とても厳しい地平です。
では・・・・。
映画監督の村上浩康さんとの
次の対談の候補として
フランスの映画監督
<ロベール・ブレッソン>の作品を
見ました。
村上さんに紹介していただくまで
<ロベール・ブレッソン>のことは
全く知りませんでした。
しかし
最初に「抵抗・死刑囚は逃げた」という作品をみて
びっくりしました。
もう最初から最後まで
私の集中が解けることなく
固唾をのんでみました。
次に「バルタザールどこへ行く」
そして
「ラルジャン」と見ましたが、
それらの作品は
何度も推敲をかさねられ
無駄なものが一切そぎ落とされ
厳冬の中に立つ
裸形の木々のように
人間の本質と孤独が
究められており
素晴らしい芸術作品を
見ているようでした。
ほんとうは
「抵抗」で何となく感じ
「バルタザールどこへ行く」を見たときから
<ロベール・ブレッソン>氏が
何を意図しているかは、おおよそ
わかったのですが、
でも
それを確かめたいと思い
さらに
「田舎司祭の日記」と
「「ジャンヌダルク裁判」も
見てみました。
ロベール・ブレッソンの世界を見て
私が一貫して感じたのは
三つあります。
一つは
人間の
●<自我の狂気>です。
さらに
作品の奥深くに
まるで
炙り絵のように見えてきたふたつめは
自我の狂気を凍結した氷点に立つ
ロベール・ブレッソン氏の
●<極北の孤独と孤立>です。
この<極北の孤独と孤立>は
自我を相対化し凍結できた人間の
宿命として
覚醒した者が
背負わなければならない
孤独と孤立です。
西洋においては
イエス・キリストから、
手渡されたかすかなる点のような
それは
ドストエフスキーや
日本では道元や良寛、漱石など
自我と格闘した人間が
背負ってきたものと
同質の
孤立と孤独です。
ロベール・ブレッソンは
映画のなかで
観衆を対象にしてそれを
相対化しながら
描いています。
大衆の前で命を奪われた者たち
映画の中の司祭や
ジャンヌダルクや
もっと前のギリシャ・ローマの優れた
思想家や哲人たち
例えばソクラテスやなどもですし
また
ピタゴラスやガリレオ・ガリレイのような
科学者なども
そういう覚醒を
していたかもしれませんし
近代の思想家や哲学者や宗教家も
同じような
誰も知りえない
孤独と孤立を
引き受けてきたと
思います。
三つめは
それらを熟知したうえで
●<映画(映像)の本質とは何か>という
映画を創る人間への
問いかけです。
今日はまず
●「自我の狂気」から
書いていこうと
思います。
●「自我の狂気」とは
人間はいつも
自分の自我の中にある
欲望、疑心、妄想、幻想と
それに付着する感情と執着が
なにかの刺激に反応し
それらに人格が乗っ取られてしまい
暴走するという
<危うい契機>を
孕みながら
生きています。
そのネガティヴな感情と
それを制する理性との綱引きのなかで
かろうじて
理性がその暴走を歯止めしながら
生きています。
みなさんも自分の感情の動向を
冷静によく観察してみると
わかると思いますが、
ネガティブな感情や妄想や幻想が
一瞬にして、
アタマの中に立ち起こり
それが巡りだすと
人格を支配し
さらに
それを果たそうとする行動への
衝動が
自分の中には
あるでしょ。
そして理性の留め金は
極めて簡易で
外れやすいものです。
そういう感情の暴走をもう
理性が
くい止められなくなり
人格全体を汚染し冒し、
支配すると
犯罪へと
走ってしまいます。
「ラルジャン」では見事に
それが描かれています。
そして
そういう
大衆と
国家の
自我の狂気の病理が
ファシズムであり
さらに
戦争へとなっていきます。
私が最初にみたブレッソンの作品
「抵抗・死刑囚は逃げた」は
そういう人間と国家の狂気(戦争)のなかで
レジスタンスをしてドイツ軍に捕まり
死刑判決をうけた人間の脱獄が
息をのむような
緊張と弛緩の中で
描かれます。
そこには主人公である
囚人のフォンテーヌの
研ぎ澄まされた理性のみがあり
綿密な理性の観察と計算と行動が
脱獄の成功へと
彼を導いてゆきます。
観客の眼も神経も
ひたすら映画の画面にくぎ付けされ
そこには
観客の自我が介入する前に
観客自身の感性と理性が
映画に同化していきます。
無駄な台詞や感情も感傷も一切が
はねのけられ
厳しい画面が持続するがゆえに
観客自身の感性と理性が
フォンテーヌと一体化し
研ぎ澄まされていくのです。
さいご、脱獄に成功した瞬間の
フォンテーヌの顔に
私はブレッソンの自信と確信を
みました。
ブレッソンの凄さは
観客の脳の中をも
コントロールしてしまうことです。
つまり
遮断のない緊張と弛緩の画面を見る
観客の
一切の
自我の
感情、妄想(シュミレーション)、幻想、感傷、が
入る余地を
ブレッソンが
許しません。
自我は
画面とその推移に
凍結されてしまいます。
もっとわかりやすくいうと、
観客は
画面に集中し、
そこに自己没入するために、
体と心(神経現象)が
統一されて
画面を追います。
つまり
観客の主観的意識のバイアスが凍結され
その反対に
客観的世界が刺激されて
もっと原初的で原理的な
全体性(存在全体)の自己が
画面と対等に向き合うという
現象を
起こしているのです。
つまり
自分の自我の妄想、幻想、そして
感情や感傷のバイアスが
取りのぞかれた観客の
その
普遍的、
原理的理性が包括する世界を
ブレッソン自身が
曳きだして
連結するのです。
観客は
自我の意識(言葉の意識)ではわからないが
<存在全体>では
何となく
わかる、感じとり
もっとも本質的なことと
向き合わざるをえません。
そのためには
自我が1ミリでも反応しそうな要素を
全部、
身ぐるみ剥ぎ取る作業を
映画の作り手である
ブレッソン自身がやらなければ
なりません。
もしそこに
彼の
自我のバイアスが
1ミリでもあるなら
観客の自我は
それに即座に反応するでしょうからね。
つまり
人間の自我とは何かを
熟知し
その反応を
限界まで裸形化していく作業です。
それは
キリストや釈迦が
やり遂げたものでも
あります。
つまり
ブレッソン自身が
厳しく自己の自我を相対化し、
内省し
そこから
人間が生き延びてゆくための
人間の理性の原理と原点を
再構築するという
厳しい自己精査を
したのだと
思います。
人間にとっては
時に
手に余る
自分の自我世界とその現象を
いったいどうするのか?
そのためには
まず
自分の自我を
裸形に
し
徹底的に
検証していく。
そこは
絶望の崖しかないのか
そこに
希望は
あるのか?
自我のネガチィヴな偏りや
感情と感傷の湿度や
安易な甘えや幻想を
全部
剥ぎ落して
考えなければならない
人間の課題が
提示されていると
思います。
こうして書く私も
もう
むずかしいなあ~と
思いながらも
書いています。
でも
一緒に
考えていきましょう!
次回へ続く!!

葡萄です。(散歩の途中で!)
漫画家の奥友志津子さんとの対談
「内なる子供・インナーチャイルドの世界」が
ユーチューブでアップされました。
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第1回
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第2回
by denshinbashira
| 2015-10-02 06:46
| <ロベール・ブレッソン>の世界
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