<ロベール・ブレッソン>の世界・極北の孤独 その1 |
以前読んだ
漱石について内田百閒が
いろいろ書いている本を
読み返しました。
その中で漱石が
シェークスピア、ドストエフスキーは
高く評価しているが
トルストイやゲーテについては
そこに彼らのナルシズムがあり
いまいち評価していないようなことが
書いてありました。
実は私も
ドストエフスキーの
「カラマーゾフの兄弟」を読み返し
ついでに
トルストイの「アンナカレーニナ」を
読み返し始めたのですが、
どうもトルストイの人物描写や
文体そのものが
ドストエフスキーなどと比べ
感情が甘く、
いまひとつ稚拙だなあ~と思い
とうとう読むのをやめました。
トルストイもドストエフスキーも
高校生の時に読んだもので
今70歳近くなって読み返してみると
トルストイは人間洞察も感情的も中途半端で
ドストエフスキーの方が
遥かに
鋭く冷徹です。
おそらくトルストイは
<自我の狂気>を追及しきれておらず
ドストエフスキーはやりきっている。
トルストイはやり切れていない分
まだまだ
ヒューマニズムの感傷の中におり
ドストエフスキーは
やり切れている分
ヒューアマにズムさえも
しりぞけ
人間の幻想を身ぐるみ剥いでいます。
そこにこそ
漱石やドストエフスキーが
否応なく
凝視しなければならなかった
厳しい人間の現実が
ほんとうは
あるのです。
突き詰められた人間とは
断絶した個々であり
自分は他者をわかりえず
他者も自分をわかることはあり得ないという
厳粛なる
人間の事実です。
そして当然ながら
その
<極北の孤独>と
その厳しさを受け入れた者は
孤立せざるをえない。
そしてそれは
イエスがたどる極北の孤独と孤立でも
あります。
各地での説法を終え
いよいよエルサレムに入城したとき
あれほど「ホザンナ、ホザンナ!」という
歓呼を持って迎えられたイエスが
捕縛された瞬間から罪人とされ
最後は
民衆の選んだ判決として
十字架にかけられます。
その凍てつくような
人間の真実を
受け入れがたい人間は
耐えられなくなり
ヒューマニズムへと
走ります。
つまり
そういう孤独と孤立を
幻想化(カムフラージュ)せずには
いられないからです。
つまり民衆は
イエスの説く
<極北の孤独も孤立>も
受け入れられないから
イエスを
殺したのです。
しかし
そのイエスの極北の孤独を
ブレッソンも
ドストエフスキーも
漱石も
無言で眺め
ごまかさず
その氷点に自分も立ち
それを
創作の原点にしたのだと
私は思います。
映画「ラルジャン」の主人公は
偽札事件に巻き込まれ
濡れ衣をされたまま
獄中へと放り込まれます。
はじめは正直な人間であった彼は
どんどん他者の<自我の狂気>
<社会(集団)の自我の狂気>に翻弄され
冒されていきます。
ついには
自分の
<自我の狂気>の負のスパイラルの中に
呑み込まれていきます。
彼の絶望の中にあるのは
自分以外の他者(人間)への
不信、憎しみ、殺意です。
そして最後には
その自分の<自我の狂気>を
正当化するために
自分に親切を施してくれた老婦人までを
殺害してしまいます。
なぜなら、彼女が懸命に生きていることすら
彼には不毛にしか見えなかったからです。
<自我の狂気>の負のスパイラルに呑みこまれた人間は
その負のスパイラルを
◎肯定せずにはいられにないというスパイラルに
呑みこまれていきまます。
ほんとうは
その負のスパイラルは
自分への言い訳にすぎないのですが。
しかし
彼らは、
負のスパイラルを肯定しなければ
自分が存立できません。
彼らのアイデンティティーが
すっぽりと丸ごと
負のスパイラルに呑みこまれているからです。
そこには
身勝手なエゴの自己保全しかありません。
人間は
どこかで
自我の狂気が生み出す
この負のスパイラルを
断ち切らなければ
どんどんそれが脳の中で
幅をきかしていきます。
だからこそ
覚悟と決意という意識的な
断ち切りを
イエスは必至で説きましたが
殺されてしまいました。
しかし
殺されたが故に
それは
反動となって
<人間の原罪と神の許しの秘跡>として
イエスは神格化され
宗教化されていきました。
※イエスを神格化したのも
それを宗教化したのも
おそらく
イエスの死後弟子になった
パウロではないかと思います。
「ラルジャン」という映画は
トルストイの「にせ利札」という小説を
下敷きにした映画らしいのです。
私もそれを知り
その小説を読もうと
アマゾンなどで探したのですが
手に入りませんでした。
「にせ利札」という小説は
後半で、罪を犯した主人公が
神に帰依するということを
書いているらしいのですが、
さすがブレッソン
そういう後半をすべて切り落としてしまいす。
さらにブレッソンは
この映画のラストシーンに対して
「彼らは空虚を見つめているのです。
そこにはもはや何もありません。
“善”は去ってしまったのです」と
言及しているそうです。
また
映画「やさしい女」では
夫と妻のあいだの
埋めがたい溝と亀裂を
そのまま
受け入れようとする妻に対して、
そこを埋めるべく
自分を愛してほしいと願い
さらに
妻を理解し受け入れようとした夫に
妻は絶望します。
なぜなら
そういう夫の姿こそ
自分が支配されることであり
さらに
夫に従う忠実な妻になると
自分を言語化したとたんに
妻は
自分が失われていく絶望に襲われます。
もうどこへも自分の逃げ場がない妻は
身を投げて自殺してしまいますが
夫はどうしてそうなるかが
理解できない。
つまり
私たちは
愛される幻想も
愛する幻想も
諦めなければならないのか・・・??
自我の狂気と負のスパイラルの果てには
「虚無と空虚」しかないかもしれませんね。
人間の創りだした幻想も妄想もすべてを
身ぐるみ剥いで
なお
<自我の狂気>の先に
何があるのか?
ずーっと古代からの
人間の課題である
このことを
ブレッソンが容赦なく
私たちに
提示します。
ヒューマニズムでもなく
神への依存でもなく
なにが
人間を救いうるか?
では
ブレッソンは
絶望しているのか・・・?
いや、
そうではないと
私は思います。
絶望していないから
この映画を創ったのでしょう。
そして
だからこそ
自我の狂気が作動し
観客の勝手な
感情や妄想や幻想が
1ミリでも反応しないようにと
綿密な構成プログラムをたて
台詞と場面を厳選したのだと
思いますけど・・・。
それは
同様に
ドストエフスキーも
漱石も
そこを厳密化して
作品を創ったと
思います。
特に漱石は
自我の問題を
自分の私小説風に描きましたが
そこには
感情への感傷も
自己断罪の告白的な言葉も要素も
ありません。
だからこそ
漱石の小説は
いわゆる私小説の作家描く
人間の感情のグダグダがないのです。
さらにドストエフスキーは
「カラマーゾフの兄弟」の中で
キリストの再来のように
信者たちから崇められている
長老ゾシマが亡くなった時、
人々が期待した復活は全く起こらず
むしろ
ゾシマの遺体は腐食し、腐臭を放ちました。
聖書にかいてあるようなことは
起こらなかったのです。
しかし
ゾシマは遺言のように
アリョーシャに言います。
「神の子である民衆を
愛しなさい」
と。
ロベール・ブレッソン
ドストエフスキー
そして
漱石
さらに
極北の孤独と孤立に
気づいている人々たちが
提示する
人間とは
いったい何であるか?
自我の狂気の世界
さらに
愛される幻想も
愛する狂気にも
気づくという。
それは
なんとむずかしいテーマでしょうか。
おそらく理解できないひとの方が
圧倒的に多いのではないでしょうか。
そして
そんなことなど
考えたくもないし
受け入れたくもない
というひとも
たくさんいると思います。
それはそれでいいと思います。
でも
もう少し
お付き合いしてただけるなら
最後まで
よろしくお願いいたします。
こういう私も
書きながら
かなり疲れています・・・・笑い!
では
次回へ続く!
愛する幻想もねえ~!!!
漫画家の奥友志津子さんとの対談
「内なる子供・インナーチャイルドの世界」が
ユーチューブでアップされました。
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第1回
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第2回