2015年 10月 23日
良寛の座! |
私がいつも自分の座としていることがあります。
それは、私が「良寛の座」と呼び
心がけている
私の立ち位置です。
良寛と親しく
死ぬまで交流のあった
<解良栄重・けら・よししげ>によると
解良家に逗留しているときの
良寛は
お経を読むでもなく、
善い話をするわけでもなく
台所のそばで薪をくべたり
ひとりで坐禅を組んだり
多くをかたるひとではなかったらしい。
むしろ寡黙で
いるかいないくらい
ひっそりとしている。
むずかしい漢詩や仏典のはなしなど
いっさいせず
いても目立たず、
のほほんと、していたらしいのです。
だから、たとえ主人の食客であっても
家の者や雇人たちも
気をつかうこともなく
かまってあげることもなく
むしろ自然体である良寛に
親しく和んだということらしいのです。
私は良寛のこの話(良寛禅師奇話)を読んだとき
あゝいいな~と
思いました。
いるかいないかくらい
ひっそりとして
自分の存在を消している。
つまり
自我が
◎沈黙の静謐の中に収まっているから
ことさら
自分を主張するこもないし
自意識を働かすこともないし
自分の存在すらを
示そうともしないのですね。
良寛の自我が
無色で透明で
風のふくままに凪いているから
だれも
彼との間で緊張をおこさないのです。
むしろ
あら、そこにいたの?
というくらい
存在が消えています。
つまり
自我の自意識が
消えているのです。
なんて素敵なんでしょう!!
以来私も
なにかの集まりやパーティーや法事などで
集団の中にいなければならないときは
いつも
すみっこの
なるべく目立たず
人が寄ってこないところにいることに
しています。
決して中央へは
いかない。
人間とは困ったもので
自我の自意識が働き始めると
自分の存在が承認されないと
落ち着かず
また
他人から無視されると
感情が動いてしまいます。
自分が他人から
どう見られているか
どう扱われるかに
神経をとがらせてしまう。
孤立していることを恐れ
孤立している自分を
見られることも
恐れる。
でもね
優れた人ほど
良寛のような<座>にいるもんですよ。
ことさら
自分を主張することもなく
むしろ
目立たない方がいいんです。
別にどう扱われてもいいし
気づかれなくてもいいし
そして用事がすめば
さっさと帰り
まあ
面白ければ
もっとそこにいる
くらいの自由が
あります。
私などは
むしろ
もてなされない方が
嬉しいです。
自我というのは
もともと
・他者や
・対外的世界との関係の中で
対立し、対抗する・・・わ、た、し・・・です。
だから
自我意識≒自意識が
薄くなればなるほど
対立がなくなり
楽になるのです。
逆に
自分がしっかり確立できればできるほど
自意識は薄くなり
他者も対外世界も
関係なくなります。
つまり
対立や対抗など
どうでもいいのです。
それは
賢治が最後にいきついたように
ホメラレモセズ
クニモサレズ
という
いっさい、がっさいから
解放された自分です。
いるかいないかくらい
ひっそりとして
自分の存在を消し去る。
「風の良寛」を書かれた
中野孝次先生は
それを
良寛の深い「無為の世界」だと
書いておられます。
ことさら自分を主張せず
流れの中に身を浮かばせて。
そういう自在さと
心の広さが
なんと
心地よいかと
思います。
最終的には
自分という微かな点さえも
消えたとき
すべてが
わたしの中で成就されるのだな~と
思います。
おそらく
そこが
最後の私の座であると
思います。
そうなれるかな~!

柚子の実が、こんなにも色づいてきた!
漫画家の奥友志津子さんとの対談
「内なる子供・インナーチャイルドの世界」が
ユーチューブでアップされました。
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第1回
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第2回
それは、私が「良寛の座」と呼び
心がけている
私の立ち位置です。
良寛と親しく
死ぬまで交流のあった
<解良栄重・けら・よししげ>によると
解良家に逗留しているときの
良寛は
お経を読むでもなく、
善い話をするわけでもなく
台所のそばで薪をくべたり
ひとりで坐禅を組んだり
多くをかたるひとではなかったらしい。
むしろ寡黙で
いるかいないくらい
ひっそりとしている。
むずかしい漢詩や仏典のはなしなど
いっさいせず
いても目立たず、
のほほんと、していたらしいのです。
だから、たとえ主人の食客であっても
家の者や雇人たちも
気をつかうこともなく
かまってあげることもなく
むしろ自然体である良寛に
親しく和んだということらしいのです。
私は良寛のこの話(良寛禅師奇話)を読んだとき
あゝいいな~と
思いました。
いるかいないかくらい
ひっそりとして
自分の存在を消している。
つまり
自我が
◎沈黙の静謐の中に収まっているから
ことさら
自分を主張するこもないし
自意識を働かすこともないし
自分の存在すらを
示そうともしないのですね。
良寛の自我が
無色で透明で
風のふくままに凪いているから
だれも
彼との間で緊張をおこさないのです。
むしろ
あら、そこにいたの?
というくらい
存在が消えています。
つまり
自我の自意識が
消えているのです。
なんて素敵なんでしょう!!
以来私も
なにかの集まりやパーティーや法事などで
集団の中にいなければならないときは
いつも
すみっこの
なるべく目立たず
人が寄ってこないところにいることに
しています。
決して中央へは
いかない。
人間とは困ったもので
自我の自意識が働き始めると
自分の存在が承認されないと
落ち着かず
また
他人から無視されると
感情が動いてしまいます。
自分が他人から
どう見られているか
どう扱われるかに
神経をとがらせてしまう。
孤立していることを恐れ
孤立している自分を
見られることも
恐れる。
でもね
優れた人ほど
良寛のような<座>にいるもんですよ。
ことさら
自分を主張することもなく
むしろ
目立たない方がいいんです。
別にどう扱われてもいいし
気づかれなくてもいいし
そして用事がすめば
さっさと帰り
まあ
面白ければ
もっとそこにいる
くらいの自由が
あります。
私などは
むしろ
もてなされない方が
嬉しいです。
自我というのは
もともと
・他者や
・対外的世界との関係の中で
対立し、対抗する・・・わ、た、し・・・です。
だから
自我意識≒自意識が
薄くなればなるほど
対立がなくなり
楽になるのです。
逆に
自分がしっかり確立できればできるほど
自意識は薄くなり
他者も対外世界も
関係なくなります。
つまり
対立や対抗など
どうでもいいのです。
それは
賢治が最後にいきついたように
ホメラレモセズ
クニモサレズ
という
いっさい、がっさいから
解放された自分です。
いるかいないかくらい
ひっそりとして
自分の存在を消し去る。
「風の良寛」を書かれた
中野孝次先生は
それを
良寛の深い「無為の世界」だと
書いておられます。
ことさら自分を主張せず
流れの中に身を浮かばせて。
そういう自在さと
心の広さが
なんと
心地よいかと
思います。
最終的には
自分という微かな点さえも
消えたとき
すべてが
わたしの中で成就されるのだな~と
思います。
おそらく
そこが
最後の私の座であると
思います。
そうなれるかな~!

漫画家の奥友志津子さんとの対談
「内なる子供・インナーチャイルドの世界」が
ユーチューブでアップされました。
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第1回
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第2回
by denshinbashira
| 2015-10-23 11:02
| 良寛の世界
|
Comments(0)

