<魂>に出遭う、その3、ドストライクに眼差しを向ける! |
目に見える
表面的なところで
人を判断しては
右往左往するけれど
目に見えない
その人の
心のありかたを
しっかり見ることができると
たいがいのことは
本人にまかせて
あとは
どうでもいいのです。
ほおっておいても
本人が
自分の行動に責任をもち
たとえ
何かがおきたとしても
本人が
そのあと始末をするでしょうし
してもらえばいいのです。
つまり
相手の魂のところを
ドストライクに
見てればいいのです。
夫婦でも
親子でも
友人でも
職場の同僚でも
その人たちの
表面に現れる
自我の癖や苦み(汚れ)ばかりに
目を奪われてるから
そこに不信感や行き違いや
苛立ちが
おきてくるのです。
例えば夫婦にしても
相手が真面目に生きようとし
一生懸命に生きていると分れば
相手の心に対しての
しっかり信頼し
あとは本人に任せていればいいのです。
相手の心が誠実であり
責任感や道義心があると
しっかり見抜いていれば
それをとことん信頼すればいいです。
しかし
そういう徹底的な信頼をせず
常に相手の表面的なことにばかりに
口出しをし
介入をしている限り
相手との信頼関係は築けませんから
やがては
お互いが不信になり
夫婦なのに
心が通じない関係になります。
それは親子でも、友達でも
職場の同僚でも
同じです。
魂のとこを
ドストライクに
見ている。
このことは
もう
ほんとうに
たいせつです。
たいがいの人間は
相手の表面的なことばかりに
どうしても
囚われます。
社会的な地位や経済力や
優秀であるとか
ないとか
さらに
みための
服装や
容姿なんてのも
そうですね。
器用だか不器用だとか
迅速だとか
のろまだか
明るいだとか
暗いだとか
まあ
いろいろと
表面的なものをあげれば
キリがありません。
しかし
そういうものなどいっさいが
どうでもいいのです。
まあ、私に言わせれば
価値がないことです。
私はそういうものなどに
いっさい惑わされず
相手のこころを
ドストライクに
見ようといつも
そう思います。
そうするとね、
ほんとうに
皆が
懸命に生きているということが
よくわかります。
表面がどうであっても
心の綺麗な人は
すぐわかります。
逆に
淀んでいるひとも
分ります。
しかし
淀んでいることは
苦しいから
淀むのですね。
そしてね、
人間は誰でもが
試行錯誤のなかに
いるものです。
だから
その
試行錯誤に対しても
アレコレ言うと
もう
本人は
どうしようもなくなりますよ。
そしてそういう時は
たいがいの人が
上から目線で
相手を見下しています。
しかし
人間の神経センサーは
そういうことを
本能的に
敏感に感じ取りますから
いくら
それが正論であり
正義であったも
受け入れません。
さらに
注意しなければならないことは
ラケット感情といわれるもので
本人のためと言いながらも
そこに
いわゆる
偽物の感情が
なかったか
どうかです。
本人はその人のためにと
思い込んでいても
実は
ほんとうは
自分のなかの
ネガティヴな感情、
つまり
嫉妬や支配欲の感情が
1ミリでも
なかったかどうか。
また
フラストレーションが溜まっている場合があります。
フラストレーションが溜まっていると
無意識に誰かをターゲットに
それを吐き出して
スッとしようとします。
そういう時ターゲットになるのは
自分より弱い人間や
スキのある人間
または
自分が見下している人間です。
決して手ごわい相手には
しませんからね…苦笑!!
残念なことに
そういうラケット感情には
本人はなかなか気づけないのですよ。
まさか
自分のなかにそういう裏の感情があるとは・・・・・
思いもよらないのです。
ほゞ無意識で
やってしまうからですね。
ただ、そういう時は
やられた方が不快感をしめします。
傷ついて落ち込み
その落ち込みから
なかなか立ち直れません。
そして
やったほうも
苦々しさや不全感が
のこります。
そういう自分のラケット感情には
なかなか気づけないのですが
しかし
時間がたつにつれ
はっと
気づくことがあります。
気づけたら
しめたものですね。
そこは
自分を知る通路ですからね。
私もカウンセリングや
ワークショップでは
かなり厳しいことや
辛辣なことを
言います。
でもね、
そういう時は
自分の感情がラケットではないと
確認しながら
心を空っぽにして
相手に向き合います。
そして
一見上から目線のように思えるかもしれませんが
上からではないんですよ。
私は
懐のなかに
相手を
抱きしめながら
言葉を吐きます。
傷つくかもしれないが
きっと乗り越えて
一番大切なことを
手に入れてくれる。
そう祈り
そう願いながらです。
『 ひとは
なにを以て
他者と出遭うか。 』
それは
わき目もふらず
ただ一心に
相手の魂へと眼差しを向ける。
そして
相手を
自分の懐で
抱きしめる。
このふたつこそを
以て
他者と出遭う。
そう言う風に
出遭うことができれば
もうあとは
相手を信頼するばかりです。
そして
この出遭うというのは
誰とでも構わず出遭うというのでは
ありませんよ。
心を通わしたい人と
で・あ・う・と
言う意味です。
まあ、良寛くらいの名人になると
誰とでも
そういう出遭いをしたかもしれませんね。
まあ、それは神話のレベルの話でしょう・・・・苦笑!!
自分を深く深く掘り下げてみると
自分の中にも
他者の中に
そういう
魂の座がある
ということが
分ると思います。
ドストライクに
出遭えると
いいですね~!!