<魂>に出遭う、その4、それさえわかっていれば! |
書いた後も
あゝ私のことを
愛情深い、人格者のように
思われると
やばいなあ~と
思いながら書きました…笑!
私は愛情深い人間でも
人格者でも
ありません。
むしろ
かなり気難しい人間です。
ただ、
人と向き合う時
スイッチが入ると
ドストライクにその人の<魂>に向き合い
そして
ささやかな、ささやかな
愛が湧いてくるだけです。
この
ささやかなる愛というのは
・あなたもわたしも
・大変な世の中を
・懸命に生きているなあ~
という
共感と労わりです。
生きることが
いかに
大変であるかということを
心得ている。
と
言ったほうが
いいでしょうかね~。
たいがいの人は
他人のほうが
自分より良く見えたり
幸福そうに
見えたりするものです。
だからこそ
自己ディスカウントが
起きるのです。
でも
人間の現実は
そうではありません。
みんな半分半分です。
いいとこ半分
悪いとこ半分でね、
それでも
中には
ぬかるみにはまり
ほんとうに苦しい人も
いるとは思いますが。
以前にも何回か書きましたが
漱石最後の随筆作品である
「硝子戸の中」に
自分を訪ねてきた女性が
もう
救いようのない身の上話をします。
それを聞いた漱石は
どうすることもできません。
ただ
その女性が帰ろうとすると
夜も更けていますので
漱石は、その辺まで送っていこうとします。
そして四つ角までくると
その女性が
「先生に送っていただき光栄です。」といいます。
すると漱石が
「そう思うのなら、死なずに生きていらっしゃい。」といいます。
この送っていくという
漱石の行為の中に
言葉にはならない漱石の愛があります。
この救いのない泥沼の中で生きている女性に対して
ただただ無言で聞いているしかない漱石が
無言で彼女に寄り添い
送ってゆく。
それでいいし
それしかない。
もう消えそうな女性の灯のそばで
ささやかに灯っている
漱石の
明かりです。
私はおそらく
漱石も良寛も
かなり気難しい人間だったと
思います。
やすやすと
他者に心を開くような人間では
なかったと
おもいます。
でも
人間の心の本質は
分っていた。
最近朝の散歩をするのですが
その時「お早うございます。」と
声を掛けられるのが嫌で
煩わしくて
どんどん出掛ける時間が
早くなっています。
なるべく人に遭わないように
5時ごろ
真っ暗なかを
でかけます・・・・苦笑!(気難しいでしょう・・・)
それでも
帰りの頃には
夜が明けてきて
散歩の人たちが出てきます。
声を掛けられたら
頭だけを下げて通り過ぎるのですが
2,3日前でしたかね、
もう
明るく元気で大きな声で
「お早うごさいまーす。!!」と
声をかけてきたおばちゃんに
思わず
「声をかけないで!」と
例のドスの効いた私の声で
言い返しました。
あっと思ったときは
もう
言ったあとでした・・・・笑!
相手はびっくりしたでしょうね~。
明るく元気に挨拶することが
いいと思っているのでしょうから・・・・・。
明るく元気がいい・・・というのも
通俗世界の
思い込みです。
そして
元気の押し売りでもあります。
人格者でもなく
愛情溢れる人でなくても
いいのです。
元気で明るくなくてもいいし
根暗な自分のどこが悪い・・・でいいです。
ただね
人間はいつも
暗闇のなかを
手さぐりで歩いているということ。
自分の中には
複雑に点滅する命の灯があり
相手の中にも
複雑な感情に翻弄されながらも
生きることを
探し求めている
ささやかな明かりがあるということだけを
こころえている。
それさえ分かっていれば
いいです。
それさえわかっていれば
人間の心の本質=魂のことが
なんとなく
分るのではないでしょうかね~!
それぞれの生きている底流に
流れるているものを
なんとなく
わかるのではないでしょうかね~!
まだ咲いてる!
すごい生命力だな~!
「内なる子供・インナーチャイルドの世界」が
ユーチューブでアップされました。
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第1回
●「内なる子供・インナーチャイルドの世界」第2回