シリーズ「結婚と離婚のワークショップ」その4すぐに切り捨てない! |
最大に膨らむことであり、
結婚生活とは,
それが
どんどん醒めて
しぼんでゆくことです。
育成環境が全く違う人間が
一緒に暮らすのですから
それまで体験したことのない、
本当は大変なことが
はじまるのです。
目には見えない
行き違いがたくさんあると
いうことです。
日常生活は恋愛幻想など
吹っ飛ぶような煩雑さであり
幻想の中で許容したことなど
すぐ
許容できなくなります。
結婚生活とは
お互いが了解してはいないことだらけで
よほどそのことを
肝に銘じて
逐一了解、確認していなければ
お互いの距離がどんどん広がっていきます。
しかし
そんなことなど逐一確かめてなんか
いられませんね。
だからこそ、
知らないうちにどんどんそこに
溝ができ、
すれちがっていくのが
当たり前なのです。
よく離婚の時に聞く
性格の不一致という言葉は
はじめから
性格など一致するわけがないのに
夫婦は一心胴体で同化できる、
あるいは
そういうものだという幻想(思い込み)
があるのでしょう。
結婚生活とは
自分たちの知らないうちに
自分の中にも
相手の中にも
お互いの関係性によって生じる
澱や淀みが溜まると
いう生活です。
だからいつかは
それが爆発したり
破綻したりするのは
ごくごく自然のことなのです。
その時
なぜ夫婦は行き違うか
すれ違うかに
ハッと気がついて
その関係性の歪みを
逐一
修正できれば
いうことはありませんが、
それが関係性によって生じるということには
気づかず
相手が悪い
相手の性格や人格に問題はある
という風に思い込んでいくともう
そこには、バトルしかなくなります。
つまりお互いの綱引きがはじまるのです。
自分は悪くない
相手が悪いと
自分のことは棚上げして
相手に変わることばかりを
求める
潰し合いです。
そして、最後は
切り捨てて
お終いにしようとする。
ほんとうは
自分が勝手につくりあげた幻想が
壊れたにすぎないのに・・・・。
どんな夫婦も
一度や二度は
離婚の危機があります。
そんなことなど
当たり前のことなのです。
しかし
そこからが
始まりなのです。
自分の夢や幻想が
壊れるところから
人生が始まるといって過言ではありません。
自分の手に持ってものが
どんどん零れ落ちでゆく。
掌に大事に包み込んでいたものが
壊れていく。
現実を生きるとは
そういうもんなのです。
失望したり、怒ったり、悲しんだり
絶望したりしても
何度も
何度も気を取り直しては
関係性を修復してやり直す中に
冷めた目が生まれ
現実がリアルに見えてきます。
つまり、ほんとうのことが
見えてくる。
そういう中でこそ
相手のことも少しずつ理解できていきます。
そして
自分のことも、自分の幻想も
それが何であったかが
よーく見えてきます。
もし
相手が不倫をしたならば
当然、そんなことなど許す必要はありません。
結婚とは
お互いを幸福にしようとする
関係性のプロセスですから
自分の伴侶すら幸福にすることができず
さらに他人をつまみ食いする人間の行為など
もってのほかです。
もし
戦いがひつようなら
戦うことです。
その戦いの中からも
たくさんのものが見えてくるでしょう。
戦うということは
相手も
自分も
戦いの中で身ぐるみはがされて
裸になっていくと
いうことです。
しかし
それも大変意味のあることです。
相手の本質も
自分の本質も
光の中に
さらされるということです。
しかし
人間は誰でもが不倫をするわけではありません。
むしろ
不倫をしない人間の方が多いのです。
でも
その人は、どうして不倫をするような相手を
選んだのでしょうかね~???
その答えは自分の中にあります
相手では
ありません。
だから
いたずらに相手を切り捨てて
相手を
変えたら
今度は
結婚生活がうまく行くかというと
そうはいかないのです。
なぜ
自分は
そういう相手を選んだのか?
前回書いた
浅はかなバトルというのは
その、根本的なところへと
眼差しをむけず、
相手に原因をかぶせてしまうことです。
どうでしょうか?
幸せになるために
結婚したんでしょ。
でも
幸せになることは
しんどい、しんどいことを
潜り抜けてしか
手にはいりません。
落穂ひろいのように
手から零れ落ちた
自分の幻想のかけらを
また
気を取り直して
拾い集めるしかないのです。
しかしその小さなかけらを
辛抱強く、
コツコツと
拾い集めるプロセスが
確実に幸せに向かっていることは、
間違いありません。
拾い直した幻想のかけらは
色が褪せ、みるかげもないかもしれませんが
それでいいのです。
結婚生活で起きる
様々な障害やトラブルは
実は
自分が起こしている現象であることに
気づくこと。
勿論
相手の理不尽な行為や悪に対しては
決然として
NOを突き付けなけければなりません。
しかし
その一方で
自分に対しても
厳しい自己検証をしなければ
いけません。
なぜなら
相手は
自分の何かを
投影していたからこそ
相手に選んだのですからね。
相手の中には
自分はちっとも気づいてはいなかったが
もう一人の自分が
いるはずです。
その自分に気づけたらいいです。
でも気づくには
気づこうと
決心して
その扉をあけなければなりません。
離婚の危機があるときは
相手のせいにせず
すぐ切り捨てることを
考えず
急がず
時間かけて
時には戦いも辞さず
しっかりと
◎ 相手と向きあうことです。
感情的にならず
自己憐憫に陥らず
被害者の位置に
自分を置かず
しっかりと
相手と向き合い
相手を理解しようとうする。
そして
相手を許すことができれば
もう
いうことはありません。
なぜなら
相手こそは
自分の分身でもあり
自分も
相手の分身だからです。
自分が見ないようにしていた
自分の側面や
自分がなかったことにしていた
自分の本音や
自分が
受け入れがたい、
或は
禁止していたことが
相手にの中にあるとき
それを
許し
受け入れていく(統合していく)プロセスこそ
自分が
自分の全体性を取り戻し
自分が豊かに熟してゆく過程です。
このプロセスをやり抜いていかない限り
その人はいつも
一面的で
身勝手な自分の中から
抜け出られません。
でもね
やりぬくことはもう
ほんとうに
しんどくて、辛くて大変なんです。
生易しいことではないし
自分が見たくない扉をも
あけなければなりません。
しかし
これをやり抜く過程にこそ
自立ということが
具体的に
わかり
身についてきます。
それでも離婚した方がいいなら
離婚したらいいと思います。
それも
自分の決断です。
そしてその決断こそが
お互いが
憎しみや
人間不信になるのではなく
自分にとっての
新しい次の自分へと進めるのなら
素晴らしいです。

初々しかった!