いのちがいぶく、その3、<ジャルジャル>はなぜダメなのか? |
フブラマヨと愉快な仲間たち「アツアツ」で
M1の決勝にでた<ジャルジャル>がでていましたが、
M1を見たときに感じだこのコンビの
問題点がよくわかりました。
それでこのことは
とても大切なことでもあるので
ちょっと書いてみます。
M1の時の<ジャルジャル>を見て
私が感じたことは
このコンビはお笑いを
◎ 頭で組み立てている。
ということでした。
とても観念的な漫才であり
その観念的というレベルが
あまりにも
浅いので
局所的な笑いはとれても
客の存在全部を包括するような笑いは
取れないということです。
それは中川家の礼二氏も
おなじようなことを
述べられていました。
つまり
自分達の頭の中のデーターで
「笑う」ということを
理詰めに考え出しているが
そこには
人間の<存在>が
見えていないのです。
存在とは
人間の全体の在り方を指し、
・意識と
・無意識
・見えているものと
・見えていないもの
・感じているものと
・感じていないもの
・感じられないもの
・感じているけれど正体をつかめないもの
・欲望と
・欲望にはならないもの
・理解できるものと
・理解できないもの
等々が
混然一体となっている
自分という人間の
<全体性を創りだしている>ことを
指します。
それは
言葉になるものと
言葉にならないものとが
混然化しながら生きている
という
人間の特性で
そこを統合し、
止揚するものとして
人間は
◎ 直観を
働かせながら
言語化できないものを
無意識に
カヴァーして
生きています。
つまり
笑いとは
そういう人間の存在のすべてを
相対化しながら
ネタをつくっていかないと
彼らみたいな
表面をくすぐるような
断片的な笑いになってしまいます。
つまり彼らは
自分たちの芸を笑ってもらう他者=客の<存在>に対しての
客観性がかなり
貧しいのですが
そこに気づいていないのです。
なぜそうなるかは
先日の「アツアツ」をみていて
よくわかりました。
それは
◎<自他の分離>が
できていないからです。
特に
福徳君はそれが著しい。
自他の分離ができていない人は
他者と自分との距離が
著しく
近いです。
だから
他者と自分とを
すぐに
一体化し
混同して考えてしまいます。
ほんとうは自分の考えていることは、
自分の狭く貧しい情報の範囲での
主観でしかないのに
その主観をそのまま
他者にあてはめて話してしまうのです。
勿論
自分の主観を洗い直すことも
そのうえで
自分の情報が
狭く貧しいという自覚もありません。
その顕著な例が
ブラマヨが話すと
すぐ
福徳君は反応して
彼らの言葉に
喰いついてしまいます。
ブラマヨの言葉が
終わるか、終わらないうちにもう
反応しはじめのです。
そこには
ブラマヨの言葉を聞いて
ひと呼吸してから
答える・・・という
ひと呼吸が
ありません。
このひと呼吸が
相手との距離です。
福徳君は
相手の話がピリオドを打つ前に、
もう
自分の頭が作動して反応してしまうのです。
つまり
そこに距離がない
ということは
相手が
見えていないことでもあります。
距離が近すぎるから
相手が見えないのであり
相手の全貌がみえないから
言葉の小手先(部分)のところで
反応してしまうのです。
相手が見えないから
すぐ
自分の主観でものを言ってしまう。
相手がみえないということは
翻って
自分の等身大も
見えていないということでもあります。
逆に自他の分離ができている人は
すぐに反応しないし
すぐに
喰いつきません。
なぜなら
距離があるからこそ
相手の全貌の輪郭が
見えているのです。
全貌の内容がみえていることと
輪郭が見えているということにも
そこには、かなりの差があります。
相手の全貌が見えてくるには
それだけの
人間的な成熟が必要です。
それでも
輪郭だけでも見えると
そこに
距離感が働いてきます。
だからこそ
ひと呼吸もふた呼吸もあり
その間に
その人の・目と・耳と・頭とが
ちゃんと主観と客観とを作動させ
相手を見極め
考えて
言葉を発しているのですね。
※このことは俳優さんたちにも
言えることで、
いわゆる間の取り方ができていない
俳優さんのなんと多いことか!と
思います。
逆に優れているなあ~と思う俳優さんは
間の取り方が素晴らしいです。
間とは、
人間の脳が作動するほんの数秒の
間隔です。
この<間>の間隔の中で
観客の脳が反応し作動し受容しているということを
熟知していることこそ
演技や芸の熟成に繋がるのだと
私は思います。
そういうことが
福徳君は全くできていないのです。
後藤君は、すこし
それに気づき始めているように
見えました。
だから福徳君は
自分が
自分の主観でしか見ていないことすらにも
気づかず、
中川家のことも
ますだおかだのことも
上から目線で彼らのことを
話してしまいました。
中川家の礼二氏の言葉が
いかに重要な指摘であったかにも
芸風が違うというような
◎自分の浅い認識の範囲でしか
理解できないのです。
※こういう福徳君の問題性は
彼の性格や人格が云々ということではありません。
自他の分離ができていないことから来る
彼の限界であり
もし、分離ができてきたら
今度はよくわかるようになると
思いますよ。
自他の分離ができるためには
他人と自分が
いかに
◎ベツモノであるかの
深い認識が
必要です。
そのためには
まず、無意識領域にある
親との共依存からの脱出し
さらに
親を乗り越え
自分独自の目線を育てることが
必要です。
※ このことは「共依存からの脱出!」で書いています。
親との分離を果たしてはじめて
自他の分離が
すなわち
自分と他者との距離が
<感覚的>及び<感情的>に
掴めてきますから(ピンときますから)
分離しないと、
それは
なんのことやら
わからないと
いう感じです。
それと同時に
不可欠なのは
たくさんの失敗と挫折の経験です。
なぜなら
失敗と挫折の中にこそ
理性の脳が働く機会があるからです。
そして、まず主観反応が
働いてしまうのは
◎主観がへし折られるチャンスが
なかったからです。
※へし折られる前の自分の主観は
親の主観をそのまま自分へとスライドして
投影していますが、
へし折られてはじめて
そこに亀裂が生じ、
親とは違う意識が生まれてきます。
共依存の底には
情動(感情)の幼稚さや不安があります。
情動(感情)の熟成ができていないのです。
情動(感情)の熟成ができるためには
主観がへし折られ
情動(感情)が動揺し
その情動(感情)を
立て直すために
客観的に
自分の情動(感情)を分析する
理性的な脳のはたらきが
必要なのです。
おそらく福徳君は
<我が強い>のではなかろうか。
なぜなら
<我の強い>ひとほど
負けん気の強い人ほど
その深層心理には
不安や自信のなさがあり
それが
裏返って
<我の強さ>になるからです。
この負けん気や<我の強さ>こそ
取りのぞかないとね~”!
<ジャルジャル>を
見ていてわかるように
この<自他の分離>ができていないことは
そのまま
その人間の能力の開発と発揮が
できないことに
繋がります。
おそらく本人たちは
何が原因なのかも
わからないでしょう。
だからこそ
自分達に欠けているのは
人間味だという風に
片づけていましたが・・・。
人間は<関係性>の中に生きていますから
その<関係性>が
客観的に見えてくるには
他者との距離が必要です。
<ジャルジャル>の場合は
その距離を自分の主観で測っていることに
気が付いていません。
なぜなら、相手が見えていないからです。
※ もし彼らが
相手が見えてくると
<中川家>や<ますだおかだ>に対するような
軽々しい発言は
できなくなると思います。
なぜならそこには
埋め尽くしがたいほど大きな
自分達とは違う
<芸の差のゾーン(距離)>が
見えてくるからです。
他者との距離(冷静なゾーン)があってはじめて
他者や
自分をとりまく外的世界が
視野の中で認知されていくのです。
そこではじめて
では
どうしたらいいかが
見えてくるのです。
人間が苦しむのは
ほとんどが人間関係で
その人間関係が
客観的に、冷静な距離をもってみえると
感情が冷めて収まっていきます。
だから冷めてくると
そういうことも
笑い(苦笑い)の中に
収まっていくのですね。
自他の分離が必要であることは
すべてのことのベースに
共通することでもあります。
勿論
お笑いも
同じです。
<ジャルジャル>もいつか
そのことに気づけると
いいね。

ベツモノさ!

