2016年 01月 27日
文化も経済も周辺から中央へ!その2 |
なぜ日本がなかなかデフレの沈滞から抜けだせず
元気が出てこないかという原因については
まあ政府の経済政策や
世界経済の動向など
専門筋の話はいろいろとあるでしょうが
私は地方が元気になっていないからだと
おもっています。
人口減なども深刻で
地方都市もその背後に
限界集落的影がちらつくのは
地方自身が
自分の根っこを掘っていないからだと
私は考えています。
また同時にそれは
日本人個々人が
自分の根っこを忘れているから
ということも
アルと思います。
根っことは
日本は
稲作文化の国であるということです。
でも、その根っこは
ナショナリズムなんかでは
ありませんよ!
このところ私は
遠野物語を読みながら
そこにでてくるキャラクターを
分類しています。
すごく面白いですよ。
人間は
こういう風に物語をつくりながら
自分達の環境と風土のなかで
ファンタジーを創りだして
生き延びてきたのだな~と
思います。
ちょっと飛躍しますが
賢治が愛した法華経の世界も
原始宗教の釈迦の世界を
時代に合わせて
ファンタジーに作り直したもので
そのファンタジー性があるからこそ
民衆の間に
爆発していったのですね。
その物語の中で活躍し、
彩っているのが
あのたくさんの
菩薩たちです。
日本は正徳太子が
日本国家のアイデンティティーとして
仏教を取り入れたために
仏教は国家宗教として始まりました。
でもね
菩薩たちの使命は
民を救うものですから
日蓮や法然や親鸞などがでてきて
はじめて
菩薩たちは民衆のところに
下りてきたのです。
つまり
人間はいつも
物語やファンタジーを
造り続けながら
生き延びてきたのですね。
地方にある伝説や伝承も
同じでしょう。
そこには様々なその土地と風土の中で
生きてきた人間の痕跡があるはずです。
自分達が生活しているその地域の
地理や風土や歴史の中には
営々とバトンされた
地域の固有性や
個体差があるはずなのです。
そこに何かがあるから
人が棲みついたわけですからね。
しかし残念ながら
この100年の日本はいわゆる
西洋化と都市化により
中央へ中央へと
ベクトルが向けられ
また
そういう世界化のなかに
組み込まれる必然も
あったと思います。
それは、それでいいと
私は思います。
しかし一方で
ちょっと立ち止まり
もう一回
歴史と世界を見渡してみようよと
思うのです。
その時やはり
結果として顕われている
地方の疲弊ぶりが
気になります。
元気がないな~と
思います。
でもそれでも
香川県などは
ちゃんと自分のアイデンティティーの根をほり
<うどん県>と称して
ガンバっているし
いわゆる
ゆるキャラという着ぐるみ人形で
パワーを盛り返しいるところも
あります。
でもね
私は一番肝心なのは
地方の人自身が
地方人としての自分に
誇りと自信をもち
そのアイデンティティーを
確立していくことだと
思います。
それができているだろうか・・・???
つまり
ベクトルは都会に向けるのではなく
自分と
自分の地方性に向けて
そこを掘る!!!
そういうことに
気づいているだろうか・・・ね~?
今ちょうど
小川紳助監督の「映画を獲る」という本も
読んでいるのですが
その中で小川監督が
田んぼには一枚一枚個体差があり
それはそこを耕す農民ひとり一人の中にも
農作技術の技術の中にも
その人の目、手、足、体全体の
感性がいきていて
その人間自身が独特にに獲得している
他にはない
個体差があり、
それが
その人の田んぼ一枚一枚に生かされている。
そのことは棲みこみをとおしてしか
わからない!
というようなことを
語っておられます。
ここから見えてくることは、
つまり
どんな人間も
他者にはない
自分の個体差の世界をいきており、
それは人間も
勿論
地方も
地域も
そうであり、
それが
抽象化されたものが
生活臭を落として
洗練され
都会で記号化されて
一般化されいくのですね。
一般化とは
誰でもわかるようにフラット化されていく
ってことです。
ではそういう都市化によってフラット化され
失われた、
或は吸血された地方の(すごい表現だね、吸血されたなんて!!・・
)
生命力を取り戻すには
どうしたらいいか?
都市化や世界化の中に
地方が吸収されて
そのプリミティヴな独創性とエネルギーの
パワーや
土着性や
呪詛性や毒素が
抜き取られ
洗練されて
抽象化され
記号化されたものを
もういっかい
地方に戻し
さらに
抽象化されたものを
具体化に戻す作業を
やり直すなかで
きっと
自分達の骨格はなにか
筋肉はなにか
さらに何が骨髄で
血液であるかが
見えてくると思います。
それこそが
自分達の命、および生活の
ドメインのラインでもあり
アイデンティティーの
立脚点でもある。
そこを掘ることが
もっとも自分達にあった
或は
無自覚に身についている
無意識に
熟知しているなにかがあるはずで
それこそが
創造的可能性をもった
具体的な
何等かの宝物の
原石なんだね!
私も少しずつ
そういう地方の
自己覚醒のお手伝をしようと
考え始めている。
何度も言うけど
地方こそに
地底深くに眠るエネルギーがあり
もしかしたらそれは
ヘドロの中かもしれないが
そういう土着の中を
掘り返してみることです。
文化も経済も
周辺から起こり、
始まるのです。
それら土着のエネルギーの渦は
中央へとたどり着いた時は
毒素も創造性も洗練されて
もうほゞ
抜け殻寸前であり
その華やぎこそは
死への終焉の華やぎなのですからね。
地方の若者よ
頑張れ!

今日は花の写真が何もないので
代わりに
遠野物語を読みながら浮かんだ
座敷わらしの絵!
元気が出てこないかという原因については
まあ政府の経済政策や
世界経済の動向など
専門筋の話はいろいろとあるでしょうが
私は地方が元気になっていないからだと
おもっています。
人口減なども深刻で
地方都市もその背後に
限界集落的影がちらつくのは
地方自身が
自分の根っこを掘っていないからだと
私は考えています。
また同時にそれは
日本人個々人が
自分の根っこを忘れているから
ということも
アルと思います。
根っことは
日本は
稲作文化の国であるということです。
でも、その根っこは
ナショナリズムなんかでは
ありませんよ!
このところ私は
遠野物語を読みながら
そこにでてくるキャラクターを
分類しています。
すごく面白いですよ。
人間は
こういう風に物語をつくりながら
自分達の環境と風土のなかで
ファンタジーを創りだして
生き延びてきたのだな~と
思います。
ちょっと飛躍しますが
賢治が愛した法華経の世界も
原始宗教の釈迦の世界を
時代に合わせて
ファンタジーに作り直したもので
そのファンタジー性があるからこそ
民衆の間に
爆発していったのですね。
その物語の中で活躍し、
彩っているのが
あのたくさんの
菩薩たちです。
日本は正徳太子が
日本国家のアイデンティティーとして
仏教を取り入れたために
仏教は国家宗教として始まりました。
でもね
菩薩たちの使命は
民を救うものですから
日蓮や法然や親鸞などがでてきて
はじめて
菩薩たちは民衆のところに
下りてきたのです。
つまり
人間はいつも
物語やファンタジーを
造り続けながら
生き延びてきたのですね。
地方にある伝説や伝承も
同じでしょう。
そこには様々なその土地と風土の中で
生きてきた人間の痕跡があるはずです。
自分達が生活しているその地域の
地理や風土や歴史の中には
営々とバトンされた
地域の固有性や
個体差があるはずなのです。
そこに何かがあるから
人が棲みついたわけですからね。
しかし残念ながら
この100年の日本はいわゆる
西洋化と都市化により
中央へ中央へと
ベクトルが向けられ
また
そういう世界化のなかに
組み込まれる必然も
あったと思います。
それは、それでいいと
私は思います。
しかし一方で
ちょっと立ち止まり
もう一回
歴史と世界を見渡してみようよと
思うのです。
その時やはり
結果として顕われている
地方の疲弊ぶりが
気になります。
元気がないな~と
思います。
でもそれでも
香川県などは
ちゃんと自分のアイデンティティーの根をほり
<うどん県>と称して
ガンバっているし
いわゆる
ゆるキャラという着ぐるみ人形で
パワーを盛り返しいるところも
あります。
でもね
私は一番肝心なのは
地方の人自身が
地方人としての自分に
誇りと自信をもち
そのアイデンティティーを
確立していくことだと
思います。
それができているだろうか・・・???
つまり
ベクトルは都会に向けるのではなく
自分と
自分の地方性に向けて
そこを掘る!!!
そういうことに
気づいているだろうか・・・ね~?
今ちょうど
小川紳助監督の「映画を獲る」という本も
読んでいるのですが
その中で小川監督が
田んぼには一枚一枚個体差があり
それはそこを耕す農民ひとり一人の中にも
農作技術の技術の中にも
その人の目、手、足、体全体の
感性がいきていて
その人間自身が独特にに獲得している
他にはない
個体差があり、
それが
その人の田んぼ一枚一枚に生かされている。
そのことは棲みこみをとおしてしか
わからない!
というようなことを
語っておられます。
ここから見えてくることは、
つまり
どんな人間も
他者にはない
自分の個体差の世界をいきており、
それは人間も
勿論
地方も
地域も
そうであり、
それが
抽象化されたものが
生活臭を落として
洗練され
都会で記号化されて
一般化されいくのですね。
一般化とは
誰でもわかるようにフラット化されていく
ってことです。
ではそういう都市化によってフラット化され
失われた、
或は吸血された地方の(すごい表現だね、吸血されたなんて!!・・
生命力を取り戻すには
どうしたらいいか?
都市化や世界化の中に
地方が吸収されて
そのプリミティヴな独創性とエネルギーの
パワーや
土着性や
呪詛性や毒素が
抜き取られ
洗練されて
抽象化され
記号化されたものを
もういっかい
地方に戻し
さらに
抽象化されたものを
具体化に戻す作業を
やり直すなかで
きっと
自分達の骨格はなにか
筋肉はなにか
さらに何が骨髄で
血液であるかが
見えてくると思います。
それこそが
自分達の命、および生活の
ドメインのラインでもあり
アイデンティティーの
立脚点でもある。
そこを掘ることが
もっとも自分達にあった
或は
無自覚に身についている
無意識に
熟知しているなにかがあるはずで
それこそが
創造的可能性をもった
具体的な
何等かの宝物の
原石なんだね!
私も少しずつ
そういう地方の
自己覚醒のお手伝をしようと
考え始めている。
何度も言うけど
地方こそに
地底深くに眠るエネルギーがあり
もしかしたらそれは
ヘドロの中かもしれないが
そういう土着の中を
掘り返してみることです。
文化も経済も
周辺から起こり、
始まるのです。
それら土着のエネルギーの渦は
中央へとたどり着いた時は
毒素も創造性も洗練されて
もうほゞ
抜け殻寸前であり
その華やぎこそは
死への終焉の華やぎなのですからね。
地方の若者よ
頑張れ!

代わりに
遠野物語を読みながら浮かんだ
座敷わらしの絵!
by denshinbashira
| 2016-01-27 08:38
| 文化も経済もベクトルは周辺から中央へ向か
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