遠野に吹く風!その2、ほんとはウエルカムで! |
行ってみました.
曲がり屋が6軒あり
これは遠野の原風景でしょうか。
大きな藁屋根は重厚で
長いあいだ厳しい冬の風雪に耐え抜いてきた
風格があります。
いいですね~!
曲がり屋の中は
黒光りした床や几帳面に縦横にレイアウトした柱と壁には、
いかにも日本の風土の中で磨かれ
洗練されてきた暮らしの美しさがあり
私は見とれました。
曲がり屋には馬もいましたし
その隣の土間に掘った
たしかうま釜とかいった大きな釜の湯が
グラグラと湯気をたてていました。
寒さの中で働き
冷えてしまった馬の体を
このお湯の湯気で温めてやるのだそうです。
優しいね~。
厳しい自然の中で
馬と人とが肩を寄せ合いながら生きてきた文化に
何とも言えない郷愁を感じます。
この曲がり屋と馬が創りだす文化こそ
遠野のアイデンティティーではないでしょうか。
でもね、
遠野パンフレエットを見ると
コンテンツは良く書かれていると思うのですが
遠野全体をカヴァーするコンセプトが
あるのかな~?
ないのかな~?
。。。。。。
ないのかな~???
たしかにコンテンツはたくさんあるのですよ。
でも
コンセプトとしての
思想や遠野全体をまたがるビジョンが
見えてこないな~・・・・。
それと
遠野だけではなく
全国の地方都市も
同じ病にかかっていると思うけど
それは<文字文化>の病で
時代はもう
<絵>の文化時代にはいっているのに
それに気がついていないんだね。
でもこれ遠野だけでなく
地方都市の多くは
そうなんですよ。
つまり
・物を売るということや
・何かをアピールするということが
これまでのように
そのものの
・内容や宣伝を
・文字(言葉)で
・説明して売る・・・という時代では
なくなっているということです。
勿論言葉で説明、
宣伝する必要のあるところは
それが有効であれば、
それはそれでいいのです。
しかし現代は
お客さんにより早く製品の内容をキャッチしてもらうには
まず
・視覚を刺激すること。
今はそういう時代に入っている。
時によって
・嗅覚や
・聴覚を刺激して
一番最後に
・文字ですね。
文字でツラツラ書くよりも
その製品を
・一目で説明できる絵や映像や写真などの方が
・ダイレクトに
・お客の心と
・繋がるのだという
ことです。
でも遠野の観光協会のサイトなんかは
ちゃんそれに気づいてとても良くできています。
一方パンフレットを見ると
もう
文字だらけで
これでもか、これでもかというくらいに
文字を詰め込んでいます。
そういうことを伝える
ディレクターやプロデユーサーが
誰もいないのかなあ~。
やはり遠野全体を見渡せるプロデューサーが
必要ですね。
そして遠野のひとが
ちょっと気づけるといいなあ~と
思うことがあります。
それはね、
それは遠野駅前の広場に
河童のモニュメントが4体あるのだけれど
もうその顔の表情がすごいの。
どういう風にすごいかというと
蛇のような顔をして
口から鋭い歯をだして
さらに
その目つきはもう憎しみのような
攻撃性があるよ。
これを見た瞬間の観光客の心理を
遠野の人は考えたことがあるのかな~???
気づいてもらえるといいんだけど。
つまり駅からでてきた観光客が
最初に目にするのが
あの河童だとしたら、
その時、
この町は楽しそう、面白そう!
とか
この町にはなんだか
わくわくしそう~って
思うかなあ~???。
子供がみて
わあ~い!!と
はしゃいだり
喜んだりするかな~?あの河童に???
むしろ
なんだか嫌なものをみちゃった!とか
嫌な予感をかんじたりすると
思うけど。
つまり
観光地のつかみのところが
ちっともウエルカムではない!!
のですよ。
ここ大事なんだけどなあ~!
私が会った遠野の人達はみんなウエルカムで、
みんな温かいこころでもてなしてくれました。
遠野の人の心はきっとそうなんだと
思います。
でも
こういう河童をみたら
人は無意識に嫌なものを感じてしまいます。
むしろ来るな!というメッセージを発信している
とまでは言わないけれどね~。
ホントはね、
柳田国男がかけた
遠野に対する呪文から
遠野が解放される時がきていると
私は思います。
つまり柳田が書いた序文のあの一文からの
解放です。
「願わくばこれを語りて平地人を
戦慄せしめよ。」
という柳田が遠野に掛けた呪詛です。
もう平地人を戦慄せしめるよりは
仲良くすることへとシフトする時代が
きたんじゃないかなあ~・・・・。
次回は<文字の時代>から<絵の時代>へをテーマに
書きます。
そして真田丸で北条氏政をやっている高島君そっくりの
右大臣