映画「無名碑」の世界その2。 |
いつも思います。
なぜなら
私たちはただ
この地球の大地に
存在が
置かれているにすぎないと
思うからです。
なのに
人間は大地をはじめ
様々なものを
所有できると
思っている。
いや
誰もなん人も
大地も空も海もありとあらゆる物質も
所有できない。
人間は何ひとつ
所有できないのですが
ただ
人間の観念は所有できると
思っている。
そしてほんとうに
大地に置かれているにすぎないのですから
人間は孤独で
ひとりひとりは断絶しているのです。
そうは思いたくないひとの方が
圧倒的に多いでしょうが
しかし
ごまかさないでいうと
そうなのです。
ただ
断絶していることを
熟知した人間こそは
孤独ではありません。
断絶と孤独を当たり前のことだと
思っている人間は
それを
そんなものだろうと
受け入れるからです。
おなじように
人間はみな繋がっているとか
自分と他者とが一体であるかのように
思っている人間は
いつも
裏切られます。
なぜなら人間は
もともと誰とも
繋がっていないからです。
ただそういう底冷えのするような
孤独と断絶のなかでも
自分を掘り下げた人間
或は
自分を投影させた何かを
掘り下げた人間は
もしかしたら
地下に流れる人間の存在の共同の水脈を
見つけられるかもしれません。
なぜなら
断絶している人間も
孤独の中にいる人間も
無意識という大きな海の中では
繋がっているからです。
無意識の中には
地球という場所で
同じ時間が流れ、
同じ時代に生き(同じ環境に生き)
という
空間と時間の同時性と共同性が進行し、
そして
<存在>としての
人間の志向と行為の普遍性が
あるからです。
それは
存在としての人間を
抽象的に
繋いでいるからです。
大地に置かれているだけの人間
ただただ
路傍の石のようにいきているだけの私も
私の中に垂直に流れる時間軸こそは
自分が
所有してるのです。
そしてその時間軸は
必然として他者との共同性のなかでしか
成立しません。
なぜなら人間はいつも
関係性のなかで
生きているからです。
時間軸は
自分の時間軸と他者が作り上げる時間軸とが
常に交叉し、錯綜しながら
時に衝突したり
合流していくものを
自分が常に
それを止揚しながら獲得していきます。
そして必要のないものは
脳が自動的に削除していきます。
そして自分が必要としない人間(他者)も
スルーしていきます。
刻々と或は一瞬一瞬に表出される
私という現象は
他者との無意識の海での
常に
自分が相対化されるという
現象化が
起きているからです。
それは
目には見えない関係性の中で
起きるのです。
つまり
断絶している個々の命の営みは
めには見えない
無意識の海の関係性の中では
何らかの形で
連続しているのです。
そして
無意識の海の中の他者はすべて
自分の分身です。
これも理解するのがとても難しいですが
他者とはすべて
無意識の中の自分が思い込んだ資料(データー)に
基づき、
推測しシュミレートし設定した人間
すなわち自分の分身なのです。
自分の観念が作り上げたイメージを
拡大して
相手に当てはめている。
それが他者です。
だから他者がほんとうに
自分の推測とシュミレーションのとおりかどうかは
わからないのです。
ただ自分がそう思い込んでいるにすぎないのです。
自分の観念とは
自分が体験し経験した脳データーが作り上げるものですから
それも自分固有のものであり
その脳データーに基づいて
他者を推測、想定してるに過ぎないと
いうことです。
つまり
他者とは
自分の観念が作り上げた想念のの延長上にある
自分の分身なのですね。
そして他者とは
そういう自分の数限りない分身(バリエーション)として
確実に自分と繋がっている。
断絶し
孤独の中にいる人間が
実は
無意識の海においては
常に自分を投影した他者と
交錯し、交差し 錯綜し
さらに不連続に連続している。
他者と自分は
自分という脳と体のワールドで
起きている自分現象なのです。
人間の世界を
思想や理念や感情で捉えてしまうと
そこには人間の意識のフレーム枠の限界でしか
物事をとらえることしかできません。
たとえば
善悪とか倫理とか
ヒューマニズムや環境のエコや情緒(感情)など
人間が作り上げた想念と観念の
価値と意味の世界です。
それらは
人間が意識で自覚しうる範囲のフレームだと
いうことで、
その範囲だと
人間(自分他者も)を説明しやすいし
わかりやすいのですが
たいがいの映画はそこでストップしており
その奥にある人間の
不合理な世界を
説明することができません。
なぜならそれは
意識という狭いフレームの中で
説明をつけようと
しているからです。
しかし人間を
意識を超えた
無意識の磁場(フィールド)の関係性によって生じる
現象であると捉えていくと
映画「無名碑」は格段に掘りの深い貌を
見せてきます。
「無名碑」の中の人間たちは
見事に<池>を媒介にし
意識のフレームを越えて
不規則不連続に
時に逸脱して
自由に奔放に生成消滅しながら繋がる
無意識の層と貌を
見せてくれているからです。
<池>は見事に無意識を象徴しています。
村上監督の無意識を含め
人間の無意識の
不思議な連環のなかで
連鎖し交叉し、
不連続に連続していき
それが≪映画>として花として
開かれていきます。
もしかしたら
これまでの映画監督たち
特に質の高い映画を撮ってこられた監督たちの
その先が
ここから始まるかもしれません。
そういう文明の質がいま
少しずつ開き始めているかもしれませんね。
人間はここから
どこへ行くのか?
そこには
人間が作り上げた意味や価値を
遥かに凌駕している
人間の<存在>と<関係>が
あるのみです。
『わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です』
という
宮沢賢治のことばのようにです。
そういう頭の柔らかさを
持ってもらいたい。
現象が交差し錯綜しときに衝突して
時にジャンピングしたりして
現象が生じる。
そういう現象の連鎖と連環の中にこそ
私たちが生きている。
それが出遭ったり
出会わなかったり
という
なんともファンタジックな夢の世界を(無意識の世界を)
もしかしたら
人間は彷徨しているのかもしれませんね。
でもね
だからこそ
人間の可能性が
ひろがるのです。
そこに意識ではとらえがたい未知なる無意識の世界での
連鎖やジャンピングが
あるからこそ
可能性が生まれるのですよ。
※だから予定調和にいきようとしては
勿体ないのですよ!!
こういうことを
いつか皆さまと直にお話できたらいいなあ~と
思います。
そのことも実現できるように
今
考えつつあります。

こぼれんばかりに!!
村上浩康監督の映画「無名碑」がもうすぐ盛岡で上映されます。
その公式サイトができましたのでご覧ください。
映画「無名碑」についての対談をしました。
よかったらご覧ください。
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