映画「無名碑」の世界その3. |
無意識の世界が科学によって
さらに解明され
誰でもが
無意識のメカニズムを理解できるようになるかも
しれない。
その時
今起きているトラブルのほとんどが
つまり小さな個人間のいざこざも
大きいものは戦争まで
それらがほとんど
お互いの錯覚や思い込みによる
エゴ(自己保存)の仕業であることが
判明すると思います。
さらに宗教も人間が
考え出した産物であることを
人々が受けいれなければならない時も
やがてくると思います。
エゴの仕業とは
自分の思い込みによる不安や怯えが
反動して起きる
自己保身、自己防衛です。
それは個人間でも
国家間においても
原理は同じです。
また文明の差によっておきる
地球資源の独占や収奪の関係も
エゴが拡大したもので
次の100年にはぜひとも解決しなければ
ならない深刻な課題です。
人間が滅びないために
です。
もっというと
人間の有史のなかで
人間は
自分達が作り出したものを
解決しなければならない時が
来ているのです。
地球の悲鳴は
それを人間に突き付けている。
そのためには
人間はまず
自分に起きる意識の解明を
しなければならない。
人間とはなんであるかを
まず、そこにメスをいれて解明しなければならないと
思います。
意識の根底にあるものはなにか。
根本的な心理動機を
作りだしているものは
何か。
それを
解明しなければならない時が
もう
きているのです。
心理学は勿論
脳科学や物理学や医学や生物学など
ありとあらゆる学問科学を総動員して
人間を解明し
さらに
人間が作りだす
意意識と無意識の関係についての構造と内容解明と
そこから来る行動原理についても
その解明が為されて行く過程で
どんなに人間が
思い込みと錯覚と誤解の中で
生きているかが
解明されるでしょう。
21~22世紀にかけて
それらに対する人々の理解が
深まることが
様々な問題を止揚、解決への道だと
私は思っています。
たとえば
中国や韓国の発言にも
日本の国民は違和を感じるでしょう。
それは
アメリカに対しても西欧諸国もアラブ諸国、イスラムの発言も
同じですね。
それぞれの自国のエゴが
どんなに地球や人間や自然を収奪し
疎外してきたか。
そして
私たち日本人も同じです。
人間の意識とはなにか
無意識とはなにか?
人間の無意識にあるものは
ひたすら
自分を生かそうとする心理と
生命リピドーです。
※リピドーというとフロイトの性的リピドーを指しますが
私はその性も含めた
生きようとする衝動エネルギーだと
考えています。
よくも悪くもそこには
命をいかに保全するかが
働きます。
意識はその命の保全のリピドーの現象を
言葉で文脈化した世界です。
映画「無名碑」の深層には
池をめぐって、そこに集う人間は
何等かの形で
池が創りだすコスモスの中に存在する。
そこにあるのは
命のリピドーとそれを保全しようとする人間の営みが
現象化して顕われているのです。
池を巡って行楽に来た人も
池の周りを散歩する人も
池のそばで歌う人も
体操をする人も
また何かの用事でたまたま来た人も
みんなが
無意識のうちに
命を保全しようとして
そこに
いるのです。
それが何を意味するのか。
人間の無意識がその人間の生命の保全や命のリピドーにあるということは
すべての人間は意識という分子の下に無意識という分母がある
という風に考えてみてください。
意識はその人間の生命活動である無意識がある行為、行動として突出し
それを言葉で説明しようとするものであると
考えてみてください。
ただ人間の無意識は私がそれを海と例えているように
それは広い海のような倉庫の中に
たくさんの要素、無数の要素が混沌としてあり
脳がそれを統計し
整理して
意識に載せ
説明しているのです。
つまり命の保全と生命リピドーは
すべての人間にある現象です。
だからこそ
様々なバリエーションがあるにしても
その本質は
ひとつなのです。
人間は
命は痛む時は悲しいのです。
命が輝くときは嬉しいのです。
それはどんな人間も同じ本質の現象なのです。
高松池の周囲に集まってきた人はすべて
池を媒介に
命が輝いたり、痛んだりしている
ただ、ただ
人間なのです。
ただただの人間である人間が
実は
無意識に高松池を媒介に
不連続に連続して
顕われている、現象化している。
そしてもう一つ大切なことは
このお祭りを創りだしたのも
人間です。
このお祭りを
喜びをもって
企画し実行しているのも
人間です。
それは喜びのエネルギーの周囲
つまり生きようとする命の磁場にあつまる
人間の命のリピドーでもあるのです。
もしかしたら、そういうお祭りや
喜びに
そっぽをむきたい人間も
そこに来ているかもしれない。
しかしそれもまた
倒錯した
命の保全であり、
命のリピドー現象です。
人間に今必要なことは
◎すべての人間が肯定されるということです。
能勢広監督の映画「生命の誕生」で
メダカの赤ちゃんは
喜び勇んでこの世にとびだしました。
ここにこそ
命の原理があります。
つまり生きようとして
みんな生まれてきたのです。
村上浩康監督とは今まで6回ほど
映画の対談をしてきました。
映画オタクと称しておられる監督が
対談のテーマに選んだ作品はどれも
人間を根本的に
根源的に追及しようとする
気迫に富んだ先人の映画監督たちでした。
その監督たちが創った作品を通して
村上さんが獲得した眼差しが
彼の作品「小さな学校」と「流れ」の中にありました。
確かにそれは自然の姿でもある
自然破壊のテーマのでもあり
絶滅危惧種の花や生きものに投影した
自分のちいさな世界を守ろうとする翁の姿でもありますが
私はその奥に
村上監督のもう一つの大きなテーマ
それはもしかしたら永遠に追及と解明が必要なのかもしれない
テーマ。
自然や生きものは勿論
人間も含めて
『生きるとは
生きているとは
何だろう!』
という
テーマです。
それは村上さんからお聞きした言葉
「謝肉祭的世界」でもあり
私のことばでいうと
「善悪の彼岸を超えた世界」でも
あるかしれませんね。
人間と言う「存在の全てを網羅する」世界でも
あります。
先人の監督たちも優れた人は
容赦なくそこを
開いていきました。
そして時代は過ぎ
今たくさん起きている人間社会の危機
世界の危機も含めて
人間とはなにか?
を再び
厳しく解明しなければならない。
なぜなら
もうこれ以上
愚かしい間違いを
人間はしないために
です。
確かに危機をテーマにした映画も
危機をあおる映画は
たくさんあるでしょう。
残念ながら
人間の危機、世界の危機をあおる映画のほうが
評価をうけるのが
今の現実です。
でもね
ほんとうに大切なことは
◎人間が肯定されることです。
人間だけではなく
自然も草や木や空や生物の
ありとあらゆる現象
◎いきとしいけるものすべてが
肯定されることです。
高松池という無意識の磁場。
祭りという
人間の手によって
ギフトされた磁場。
しかしそしてその奥にひろがるのは無意識の集合する
海。
そこに集う人々のすべてが
その海を通して
村上監督の無意識とその眼差しに出遭い
カメラの中で
肯定されている。
最後のエンドロールと
映画のタイトルに
何が込められているか。
皆さん
一緒に
生きていきましょうね!!
それがとても嬉しいです。
村上浩康監督の映画「無名碑」がもうすぐ盛岡で上映されます。
その公式サイトができましたのでご覧ください。
映画「無名碑」についての対談をしました。
よかったらご覧ください。
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