ウエブ戦国時代!!その3,家康のドメイン! |
<見ていた人>ではないかと私は思います。
家康は
下層からなりあがった秀吉とは違って
始めから三河の小領主の長男として生まれます。
生まれたときから
将来の領主としての
教育を受けたかもしれません。
そして6歳の時には
今川義元の人質として駿府に送られますが
途中で家臣の裏切りにより
織田の人質としても取られます。
しかしその時も
家康は激しい気質の信長をまじかに
観察したと思います。
その時、癇癪もちの信長をみて
この人間も長くはないだろうと
思ったかもしれませんね・・・笑!
小さいころから人質として
いつ殺されるかわからないという環境の中で
他者に対する警戒が
家康の深い人間洞察眼を
培ったのでないでしょうか。
家康はいつも口数が少なく
何を考えているかわからない人間であったと
言われています。
そりゃそうでしょう!!
自分の感情を露わにしたり
腹のうちを見破られたりしたら
命が危険なんですから
もう幼少の頃から
注意深く、慎重に生きてきたと
思いますよ。
そういう家康だからこそ
いつも
感情を冷まし、
状況や他者を相対化して
観察し
そして
常に自分のドメインから
うかつには動かなかったと
思います。
どちらかというと
理系の人間といわれる家康は
感情に溺れない
論理的、構造的な頭脳をもって
時が熟するのを待ったと
思います。
もししたら
豊臣が自滅するのも
わかっていたかも
しれませんね~。
家康の構造的な頭脳は
幕藩体制においても
藩を厳しく取り締まり
常に江戸に人質を取り
幕府の眼に
藩の内容や財政が
丸見えになり
また蓄財ができないような
システムを創りあげました。
彼は自分のカリスマ性を過信せず、依存せず、
自分の脳の辺縁系に振り回されない、
つまり情動をコントロールし
冷静に冷静に
人間という現象をみて
社会全体をシステム化する方を
選んだのだと
思います。
そして
家康という人は
・他者のドメインや限界をも
見抜いていたひとではないでしょうか。
<見ていた人間>としての家康は
権力を手に入れても
時代の
受け皿としての自分をわきまえ
領分をわきまえながら
じーっとなりゆきを見たうえで
戦国時代の人間が
生存競争のなかで
利権を争い
殺し合うという
辺縁系の動物本能的の大暴れする時代を
終結すべく
藩の暴走を抑え
戦国時代のような混乱を
再び招かないように
社会を構造化して支配しました。
その一方で
民衆の世界は
士農工商をしっかりと世襲にして
ドメインを設定したのではないかと
思います。
個人の権力ではなく
支配のシステムで
日本を構造化したのではないでしょうかね~。
士農工商という世襲の身分制度は
それまでの戦国時代の混乱と無法社会に
秩序を与え
時間軸の戦略の中で
職業の世襲による文化と技術の成熟を図るということでは
何らかの成果があったのかもしれません。
しかし
それも支配の体系として
外から人間を縛るものですから
いずれは
破綻をきたします。
ただ250年間も
そのシステムが維持されたということの中に
何かがあるのでしょうが
それも解明されていくでしょう。
私は、もしかしたら
家康が権力を相対化でき
構造化できたことを背景に
彼の観察と洞察のなかで
・情報の自立性と
・脳の辺縁系の弊害という
・脳の構造と機能を
漠然と
或は直観的に
把握していたのかもしれないな~と
思います。
まあ、あくまでも私の推測です。
たいがいのリーダーは
人心を掌握する方にシフトして
リーダーシップをとろうとします。
しかしそこには
リーダーの器量や気質が問われるとともに
個々人の
さまざまな感情や
欲望の淵が障害として横たわります。
秀吉などはまさに、
そういう形のリーダーでした。
そして三成は、
当然のように失敗しました。
しかし家康はもっと冷めていたように思います。
そこには人間の<ドメイン>に対する洞察があったからです。
だからこそ
人心を掌握するという方法ではなく
ぼんくらな将軍でも
徳川体制を維持できるように
社会システムを構造化するという方法を
とったのだと思います。
次回は
家康が構造的に人間社会をみていたように
現代の情報社会を
グーグルはどのように構造化したのか
また日本のIT事業者達との違いを
人間の心理とドメインを通してみてみたいと
おもいます。

日差しは夏のように輝いています。

