情報社会で踊らないための自己イメージ・その4 |
書いてみましょうかね~。
ただ脳のことを説明するのは難しく、
私が自分が理解しやすいように
比喩的にイメージしていることを
ほんとうにざっくりと書きますので
どうぞ
皆さんは細部にわたり納得するためには
ご自分で勉強してくださいね。
脳の世界とコンピューター世界は
ともに「1+1」の計算を
ものすごいスピードでやり続けている機械です。
またその細部のチップではいつも
0か1の値を取る二進数の
デジタルの計算をやっています。
0か1というのは
具体的にオンとオフを繰り返しながら
最小のパーツがついたり
消えたりして電流が流れているわけです。
もうこれを説明するだけで
私はつかれます。つまり苦手なのです。だから
私流にざっくりいうと
脳の中は最小単位<要素>のデーター記憶が
常に連鎖して結合したり
また計算したり、接続詞しながら
私たちの命と体を保持するために
働いているということです。
最小の単位とは
例えば私たちが<リンゴ>という風に
認識しているものも
脳のなかでは
色、形、味、質感、などの<要素>に分解処理されて
脳の中に記憶として
格納されているという訳です。
だから私たちがリンゴを見たら、
脳の中ではすぐに
これらの要素が次から次へと連鎖しながら接続して
「あゝこれはリンゴだな」と認識されるわけです。
つまり
私たちははじめから「リンゴ」を見ていると
思っていますが
脳の中ではこれらの要素がどんどん自動的に
連鎖反応を起こして接続され
計算が必要なら、統計が必要なら
アッという間にそれらも
自動的に為されていき
そして出来上がったもの、すなわち結果だけが
私たちの意識に下ろされてくると
いう訳です。
脳は常にこういう現象を起こしながら
私たちを
生かしてくれているのですね。
私はこういう脳のはたらきを
まるで
シンフォニーのようだと
いつも言っています。
つまりある刺激に対して
脳のが各部署の
記憶の小片、あるいは断片や
エピソードが
音符のように立ちあがり
フレーズやメロディーを奏でるように
繋がっていきます。
それはさらに
各楽器の演奏によってより
具体化され曲(内容)となり
最後に
フィナーレとして結論を
出して終わる。
というイメージです。
脳のはたらきは
まるで
シンフォニーが奏でられているのと
おなじようなスケール感があると
私は思うのです。
そしてもう皆さんは
おわかりになったでしょうか。
脳の世界は
瞬間々の
・現象であり
それは常に新しく始まりが
始まるという
リセットの世界なんです。
つまり脳の中は宮沢賢治が書いたように
常に電気が交流して点滅している
現象の世界なんです。
ということは
私たちは
常に
あたらしく
そして
いつも
スタート地点にいて
常に
変化しながら
いきてるということです。
それでも自分は
いつもおんなじことを考え
いつも後ろ向きになってしまう
と思う人もいるでしょう。
でも
それは
脳の可塑性として
よく使われる回路に
電流が流れ
使わない回路は退化していきますから
いつも後ろ向きのひとは
脳は正直に
そういう回路を優先して
発火してしまうのです。
だからこそ
意識的に
こう言う風に自分を変えよう
半ば強制的に自分を制して
生き方をリセットしない限り
後ろ向きの人は
ずーっと後ろ向きになってしまいます。
また
以前のご紹介したように
遺伝子のなかに
・悲観的遺伝子と・楽観的遺伝子とがあり
もし
悲観的遺伝子をもって生まれたなら
当然悲観的な自分になってしまいますから
そういう自分に気づいたら
もう
意識的に
粘り強く
自分を楽観的なほうへと
自己洗脳していくことが必要です。
どうでしょうか。
もしかしたら皆さんの中には
自分の中には
<性格>という柱みたいなものがあり
それに従って自分が生きていると
思いこんでいる人はいませんか?
というより
たいがいの人はそうおもっているでしょうね。
でも
その柱みたいに思えるのは
脳と体の<反応現象>が
そのように偏っているということです。
だから
それも
その人の気づきと努力によって
変えられるのです。
たいせつなのは
脳の中には
・恒久的なものは
・なにもなく、
・脳の現象はいつも
・一回きりであり
常に
・リセットの状態(始まりの状態)であり
自分とは
いつも瞬間瞬間の変化のなかを
いきていると
いうことです。
ではさらに
「こころ」というのは
どういう現象なんでしょうか。
ごくごく普通にいうと
「こころ」とは
自分の中に起きてくる
自覚的自分現象で
脳科学的には
<自己意識のクオリア>とされています。
心理学では
・自我というものと
・自己というもの
大きく分けられますが
そういう総体の自分現象をいいます。
自我というのは
◎自分の主観に基づいて
・感じたり、考えたり、また感情が起きたりする
・自分目線の現象ですね。
自己というのは
おおきな自分総体のフレームといいますか
・自分の主観的世界と
・他者や社会の
・客観的目線からながめた自分の
◎総体をみている自分です。
まあ、自分を大きく包み込んでいる枠のような
想念だと
私は思っています。
では
そういう自我や自己が
脳のなかで
どういう風な現象としておきるのか
については
まだまだ不明ですが
しかし
自我が
・自分という人間のあり方や感情に執着することや
逆に
自己は大きく包み込むように
・理性的な眼差しであることは
脳の現象として
その生命体である自分という認識に対しての
認識現象として
自我も自己も
それぞれは使う回路がちがっており
強く自分に固執していく主観としての自我は
もしかしたら危機管理として
防衛や攻撃のエピソード記憶の感情などが
強く反応するのかもしれませんし
また
自己の世界は
前頭葉の
・理性の回路が関係しているのかもしれませんが
私には説明が不可能です。
そして自我と自己を含めて
「こころ」という現象がおきるのも
その時々の
・脳の現象としておきてくるもので
・脳の辺在的な現象ではないかと
言われています。
つまり
脳の中に「こころ」という
確定的なものがあるのではなく
その時々の反応現象としてある。
私はその現象は
その生命の保全とともに
他者との共生をも図るために
自分と他者とを止揚しょうとする
脳現象ではないかと考えていますが
これは
私が独善的に
そう思っているのです。
そしてその「こころ」現象も
常に断片の
オンとオフの
リセットの中にあり
自我も自己も
もしかしたら
強い刺激がない何も起きていない時
つまり神経が安定して現状を維持している
ニュートラルの時は
ゼロ状態の自分ではないかと
私は思うのです。
ゼロ状態というのは
自我も自己も消えている状態です。
つまり心というのは
まとまった何かや
確定的な中心の柱があるのではなく
脳の反応現象として体系化され慣習化されているのを
自分と思いこみ、
そこに常に自分がいるような錯覚を
しているのではないかな~あと
思うのです。
そしてその現状は、常に変化し
常にオンとオフと
ニュートラル状態にある。
そして
人間が一番幸福である状態とは
・自分のことを忘れている状態です。
自分の意識の中から自分が消えている状態です。
例えば
まあ
とても卑近な例ですが
美味しいものを食べている時は
もう夢中で食べることに集中していて
自分のことも他人のことも
忘れているでしょ。
その時の脳は
<空っぽ>ではありませんか・・???
すごく嬉しい時も
脳は
嬉しいことだけでいっぱいで
自分のことや他人のことなど
忘れて、ただ嬉しいだけでしょ。
逆に苦しい時や悲しい時は
頭の中が
自分や他人にとらわれているときです。
つまり
自分や他人ということが
頭の中を巡りだしたとたんに
人間は緊張するのです。
自意識が働き始め
自我が作動します。
そして
その緊張は自分から他人へと伝搬していきます。
そういう緊張から
解き放たれたときこそが
幸福の瞬間なのです。
つまり
こころが
空っぽのときこそ
人間の命が輝きます。
さらに
人間が無心になにかに没頭しているときこそ
脳は全開して
フル働きをしてくれます(フロー状態)
つまり
脳と体とが一つになり
呼吸が安定し
自分のすべてが
・自然で
・素直になっているときこそ
その全体の自分の中を
す~っと
なんのストレスもなく
息が通りぬけていきます。
その時は
心(脳)も体も
◎安心している。
それは
「こころ」が空っぽの状態のときなのです。
このことを2400年前に気づいた人がいます。
そうです、
釈迦族の「ガウタマ・シッダルタ」というひとです。
すごいね!!
彼は
人間の苦悩が<縁>つまり
関係性からくるものだと
気づきました。
そして
ときはなたれるとは
心が
<空>になることだと
説きましたね。
次回は
お釈迦さまのことや
道元のことや
賢治のことなども含めて
人間とはなにか
自己イメージを
どのように結んでいくかを
書きたいと
思います。
どうでしょうか。
脳の世界はいつも
今を生き
新しいはじまりの中にあること。
そしてなじんだ回路が優先されること。
そういう脳世界を
あなたは
どういう風に
使いこなしていきますか。

いっせいに咲きました。
まるで
脳の世界のようです。

