傍観者なんかに、なるな! |
風が吹き抜けるようなブログにしたいとおもっていたんですが、
でもここんところ
そうはいってられないほど
私の中に突きあげてくる感情があり
やはりちょっとキツイことや
えぐいことを書かずにはいられません。
どうしてもあの世へ行く前に書いておかねばと
思うことを書きます。
今、私は怒っています。
アル若者に対して怒りが沸いて仕方がないです。
その怒りは、
・なぜせっかく生まれてきたのに
・自分を粗末に扱うか。
・なぜ一度きりしかない人生なのに
・自分が主役にならないか。
という怒りです。
いつも
・傍観者の位置に自分を置いて
・偉そうにえらそうに上から目線で
・世の中も、
・他者をも
・斜めから傍観して、評論して
・そういうことをしている自分が
・最終的にはどうなるかを
・わかっているのかッ!!
という怒りです。
私の眼には
その若者が
・どんなに素敵で
・どんなに
・こころねがやさしく
・どんなに賢いかが
・ちゃ~んとみえているのに
なぜ
・本人はそういう自分をには
・見向きもせず
・自分を生きないかと、
怒りが来るのです。
怒りが来た直接の原因は
その若者の
・あまりに頭でッかち(観念的)で
・世の中も他者を表面的にし見ていないのに
・わかった風につもりになって、
・上から目線の言葉で
・それも斜め目線の後ろ向きの言葉を言い
・現実と体当たりも
・闘いもしないでいる
その態度と
私を見下したような言葉に
私はカッカきた!
でも
私はなぜその若者がそうなったかも
わかっている。
しかしもう許さない!!
なぜなら
そういう傍観者がその先
●どうなるかを
知っているからです。
いつも現実と
・直面せず
・自分が傷つかないように
・自分がリスクを負わないように
うまく立ち回ろうとして
傍観ばかりしていたら
その人間の
・脳と体が
・どうなるかを
知っているからです。
どうなるかって!
人間の脳と体はいつも
現実に適応しようとして生きている。
そういう風に脳も体も
無意識に働いて
くれている。
だから
外から来る刺激に対して
敏感に反応しては
脳は仮想(シュミレーション)しては
危険を回避しようとしてくれるし
感情を反応させて
危機を
記憶に深く刻み込む。
体は
緊張して
注意を促し
神経を特化して
臨戦態勢にし
自分を守ろうとしてくれるのです。
そして危機が去ると
脳も体も解除して
ホッといつもの自分に
もどる。
そういう風にして人間は
いつも
<臨場>の現実のフィールドに臨み
そこで戦いながら自分を生きて
広く、豊かに、その内面を
磨いてゆくのです。
(賢くなるのです。)
そしてたとえ
自分が傷ついたとしても
確かに
脳も体も消耗はするけれど
◎その経験や体験をふまえながら
そこから脳は
◎様々に学習し
さらに
◎脳が自動的に脳全体の神経細胞を駆使し
◎体験を洗い直しながら
それをどのように解決したらいいかを
考えてくれる。
つまり
自分が傷ついたり、つまずいたりする
マイナス体験こそが
次へと自分を生かす貴重なデーターになり
人間はそういう風にして
経験知を積みながら学習し
賢くなるのです。
しかし傍観者は
自分が傷つかないために
経験と体験を放棄し
外的世界に
・反応しないようにして感覚を閉じて
・感じないようにし
・感情が動かないように
・自分を凍結し
外的世界と戦わないですむように
・こざかしく
・逃げる方法ばかりを考え
・頭ばかりを作動させる。
そういう風にできることは
確かに
ちょっと見は
頭がいいやつのように見えるでしょ。
しかし
そうはいかない!
それほど生きることは容易くないし
脳の世界はそれほど甘くない。
そういうことばかり続けていると
やがてそのつけは
必ず廻ってくる。
人間は経験してこそ
体験してこそ
感覚も感性も磨かれていく。
そして
そこからまた脳の回路が増え
豊かになっていく。
しかし
経験も体験もしないで傍観していると
●傍観することで学習しようとして、
傍観からシュミレーションをするから
それは
●実体験ではない
●傍観による妄想にしかならない。
つまり
・仮の体験でシュミレーションするしかないから
●妄想の体験ばかりを積み重ねるのです。
また
自分が
●自分の体で体験していないから
体はどんどん鈍くなり
それを
・妄想(仮の体験)でカヴァーしようとする。
そういうことばかりを繰り返していると
どうなるか・・・・???
もうお分かりですね
脳は妄想の巣になり
体験や経験が不足するから
物事の
●ほんとうの実体や
体験、経験してはじめてわかる
●物事の深層や
●細部や現状や実情を
理解することができないのです。
つまり
●現象の表面をなぞっては
●わかったつもりになっているのです。
自分に起きることと
しっかり
・向き合い
・直面して
それは時にマイナスの体験や感情になるかもしれないが
しかし
だからこそ
自分の想定外の
●物事の細部や現状や実情を
●生きた臨場の感覚や感性や感情で
●実感として獲得しくのですよ。
それを今度は
●理性が知能で検証しては
●脳内でデーター化していくのです。
つまり
さらにその人間を生かすための
自分の総体(脳と体)で
その体験や経験を
●次に生かそうとするのです。
しかし
傍観者たちは
そういう生の経験にとぼしく
体験を積むこともしていないから
●頭で獲得した妄想の
●仮データーの中を生きるしかなくなっていきます。
彼らは
頭でっかちで
理屈はこけるけど
それは絵に描いた餅以外のなんでもない
ということが
わからないのですね。
脳はいつも使っている回路が強化され
使わない回路は退行していきます。
だから
傍観者がいずれどうなるかは
もう
わかったでしょ。
そういう人は
●感覚も感性も観念化され
●どんどん生きている実感を失います。
●生きている臨場感を感じられなくなります。
●自分も他人もまるで物や紙切れのように扱います。
物事の表面しかわからないから
●どんどん軽薄になり
その表面的な言動で
●他者の神経を逆なでしてしまいます。
そういう自分で対人関係をもつから
●他者と触れ合うことができません。
他者と自分とがいつも
●よそよそしい関係のように感じてしまいます。
感情が陶器の表面のように
●ツルツルしてしまい
他者のイキイキした息吹きや感情が
●ツルツルと滑りおちていき、
それをかんじられないので
また
●頭で処理しようとする。
物事の表面しかわからないから
●安直に絶望します
自分が傍観者であることが
・すべての原因だということにも
・気づかないから
●嫌なことや、困難なことはすべて他人や社会のせいにし
●いつも他人や社会をに敵意を感じ見下します。
見下してはまた
●安直に絶望するのです。
どうでしょうか、
もう
傍観者なんかやめませんか。
やめて
体当たりで生きなさいよ。
傷ついたらどうですか。
満身創痍でいいです。
その満身創痍のどん底から
自分を立て直す時に
もう
素晴らしい脳の働きがあるのですよ。
そういう自分が危機の時こそ
脳がフル回転してその人を生かそうと
はたらくのですよ。
気ずついて落ち込んだり
泣いたり、わめいたり
悲しんだり、もがいたり
しないさいよ。
そういう中からこそ
自分が磨かれていくんです。
表面的に
ツルっとした感覚や感性ではない
●手ごたえある
どっしりとした実感を
獲得していくのですよ。
現実は戦場ですよ。
現実は修羅なんですよ。
でも
その戦いを
闘いおわったあとにこそ
一面の青空がひろがるのです。
あゝ、せいせいする
という青空です。
わたしだって
何度
電気もつけず、暗がりに
じっと坐り込んで
何時間も考えつづけたことか。
そうして
自分を立て直しては
何度
よろよろと
立ち上がったことか。
人生を甘く見るな。
脳を甘く見るな。
傍観者はいずれ滅びる。
感覚や感性が鈍磨したらもう
生きることは
陽炎のように薄くなり
消えていくばかりです。
そうではなく
自分の人生は力づよく
●自分が主役であることを
自覚しなさい。
●自分の人生の脚本は
●自分が書くのですよ。
そして何度も何度も
書きなおしては
生きるのですよ。
傍観者たちへ
これは私の
ささやかな
ささやかな
あなたへの
ギフトです。
どうぞ
納得のいく人生を
自分で紡いでください。
終わりです。
いつも、このブログを読むのが楽しみで仕方がありません。田下さんの言葉に今まで、どんなに勇気づけられ、背中を押されたことでしょうか。その若者も、いつかはきっと理解してくれると思います。
脱出してほしいと思いますし、同じようなところに陥っている
他の若者にも伝わるといいなあ~と思っています。
まあいわば、本当に老婆心です。
人間は生きるということそのものが、
可能性をみいだし、作り出していくのだと思います。
まずは、ひるまず、おそれず、勇気をだして
体当たりで、生きてみることだと
思います。
私も「悟浄出世」を読んでみます。
謝々。