若者たちへⅡ その9最終回、未来ビジョンへ向けて! |
以前ご紹介した
能勢広監督映画「生命の神秘」では
メダカの体ができあがった瞬間に
心臓に血液がはしり
鼓動がはじまるとともに
生命が躍動し始めます。
命はまるで喜び勇んで
この世へと
誕生していきます。
命がどのように
設計され
デザインされたかは
今も不明です。
しかし命は存在という確かな点を
世界の座標に刻々と刻印しながら
はじまり(誕生)から
終わり(死)へと現象化していきます。
この世に一つしかない
自分という命が
どれほど貴重で大切かを
人間はもっと
意識しなければならない。
と
私は思います。
日本において
その命の尊さが認識され始めたのも
この戦後からのことです。
その前は
命はまるで使い捨てられるように
国の戦争のために捧げられ
軽くしか扱われていませんでした。
命はもともと
あのメダカの赤ちゃんのように
はじめから自由であり
そして
その個を
生き始めるのです。
個は孤独の<孤>でもあり
また
唯一の<個>でもあります。
つまり
ひとりで生きるのです。
そして
そのいのちの個が
・自然界
と
・人間が創りだす人間界に
適応して
その生命体を
生き延びさせてゆくために
脳は働きはじめます。
その時
脳の作りだす
意識と無意識の世界は
人間の自我の意志には関係なく
その生命を保全するために
交流し、交叉し、
その人間の世界全体を創りだしていきます。
脳世界のほとんどは
無意識の中で
・脳の自動的作動でつくられ
私たちはその結果を受け取るだけなのですが。
それでもその結果から
意識は意志を創りだし
意志の解決のベクトルで
それが解決された時
意志のベクトルは
無意識へと吸収され
さらに認識が深まる
豊かなその人間の世界を創りだします。
そういう風に
脳はこれまでのデーターを駆使しながらも
脳と体の体験を通して新しくデーターを
獲得しては書きなおしながら
常に変化しでいきます。
無意識のせかいは
自由で
広く
古代からの情報も
現代取り立てほやほやの情報もが
並立しており
その中を
自分の電気インパルスが情報を連鎖させながら
縦横にはしっては
意識と無意識に
結論をあげていきます。
※私たちの意識が知るのは
結論だけです。
だから
意識でわかっていることなど
ほんの少しでしかありません。
ほとんどが
無意識領域で操作され
それが倉庫されていくのです。
しかし
残念なことに
・脳のことが解明される以前は
人間はそうは思っていませんでした。
今でも多くのひとは
無意識領域があることなど知らずに
自分は
自分の意志で
自分を形成し
自分を経営していると
思いこんでいます。
意識、つまり
・目が覚めている時に頭の中を去来する
人間の自我(自分に執着する感情と意識)は
そのちっぽけな意識の範疇で
わかったつもりになり
自分も
他人をも
自分の自我で解釈し
時に
縛ろうとするのです!
だから<意識>が頭の中を巡らない時
いうなれば
<無心>のときこそ
脳は意識と無意識の
緊張から解き放たれ、
無意識の
豊穣な倉庫からデーターを
とりだしては
縦横にはたらくのです。
心理学や
仏教の世界は
自分を忘れている時こそ
解放と悟りの世界だと
しています。
このことは
紀元前400年の頃に生まれた
釈迦の掴んだ認識でもあり
禅の世界でもあり
私の大好きな道元や良寛の認識する世界でもあります。
無心の世界
すなわち
・自我(強く自分を意識する心理)が消え
・意識(目が覚めている時に頭に去来するすべての現象)が消え
・こころ(無意識と意識とが作用して起きる心理模様)が消え
ただただ素朴な自分という器がそこにあるとき
生命(脳と体)は安定し
喜びます。
まっしぐらに進む命の息吹きです。
しかし一方
人間は
集団でしか生きれないという
・不条理をもっています
意識で周囲を眺めながら
他者や外的世界を
常に
視覚と意識の射程において
生きなければなりません。
そこは逆に
個の命を守るために
無意識が警戒しなければならない世界でもありますから、
無意識は
自分の自然性よりも
他者や外的世界(集団)に適応することを
優先します。
もともと無意識の中にも
警戒心や
猜疑心や
攻撃、反撃の因子がありますから
それが時に
・過剰に刺激されて
・記憶化されていきます。
だからこそ
無意識の中にも
大きな問題があるのです。
脳が解明される以前の
これまで人間は
自分の自然性
(自分の気持ちや気分が揺らぎなく安定している状態)
よりむしろ
後天的に獲得した
人間の集団や社会が創りだす世界のほうに
リアリティーを感じていましたが
実は
それはあくまでも
・脳の無意識が
・シュミレーションした世界が
・反転したものが
・集合している
仮想の世界=幻想世界でも
あるのです。
つまり
ほんとうのリアリティーは
無意識が思いこんでいる世界に
あるのですね、
難しいね~!・・・。
無意識が反転した仮想の意識世界
すなわち
人間が創りだす
世の中(世間)という仮想世界で
本当に
自分を生かしているか?
つまり脳が解明されつつあるこれからは
自分を脅かす仮想世界で
・自分が思いこんだこと
・思いこまされたこと
は
ほんとうに
自分の命の世界
(本来ある自分の姿)
にとって
必要であるか
ないか・・・を
きちんと
◎相対化しなけれな
ならないということです。
相対化するという作業のなかで
・自分の無意識世界とのチャンネルが
・繋がっていきます。
その時
・必要のないもの
・ゴミになっているものを
どんどん整理して
捨てて
・ほんとうに必要な
・優先順位に基づいて
・自分の人生を創りだしていかなければ
脳の中が
未整理のまま
人生が過ぎてゆくと
いうことです。
何度も言いますが
生るということは
あのメダカのように
喜び勇んで
命を生かすことであり
そこにこそ
生きるということの
原点があると
私は思います。
その原点が
人間史のなかで
歪められる続けてきたというのが
これまでの
人間のあり方であると
私は考えています。
また
人間は自分の意識にとって
未明なことを棚上げし
神秘化し
神や宗教やその他ことを
仮想定して
意識に納めてきましたが
これからはそういう
●脳の意識が創りだした神秘ではなく
ほんとうの
生命の神秘の中を
喜び勇んで生きる
●命の神秘を
無心にいきたらいいと
思います。
脳と体が自然性の中にあるとき
命は安心し(安定し)
命が輝き
命が本領を発揮し
そして
エネルギーが自然に巡回していきます。
もう
そういうことに気づく時代に
入ったのだと
私は考えます。
なぜなら脳が解明されつつある今
人間はどんな人間にも
それぞれの固有世界の脳で生きていること。
そして生命(命)は
平和を望んでおり
対立することや
戦争がいかに不毛であるかを
知っているからです。
脳の世界は
それぞれが個絶であるが
しかしそれを承知の上で
その個々の世界を
どのように
止揚し
共存していくかこそが
未来ビジョンであることに
一部の人々は
気づきはじめています。
まだまだ極少ですが。
つまり人間はもう
これまでのような
脳の不明な世界をいきることはないのです。
そういう意味では
今の時代は
人間史における
大きな折り返し地点ではないかと
私は考えます。
脳のメカニズムがどんどん解明されてゆく中で
・新しい人間観と
それに基づいた
・新しい世界観と
・未来ビジョンにむけて
・意識を
書き換える必要があります。
これまでの人間史は
人間の本能とその欲望に基づいて
自我意識が
様々にその欲望を拡張させてきました。
欲望とその執着に基づいて
自我の意識が創りだす
・幻想の膨張によって
これ以上ないほどの
物質が溢れているのに
さらに
消費を加速させようとする政治と経済は
狂気に近いものがあります。
欲望は
無意識の中に刷り込まれた
欠乏意識や
コンプレックスが
反転して
加速されます。
しかし
その欠乏意識や
コンプレックスさえも
脳の思い込みであることが
わかってきたのですから
これからは
そのその欠乏意識や
コンプレックスこそを
個々の人間が
克服しなければならない
時代がきているのです。
いくら物質を獲得しても
それは消えません。
物質で代償など
できないのですよ。
それよりも
自分の内部を見つめ
自分の頭の中の全体を
見回し
不必要な意識や感情を
いかに
克服するかです。
物質は山のように溢れて
豊かであるはずなのに
人間は疲労困憊している。
さらに
不安が蔓延して
マンネリ化しているこの
社会を
どうしたらいいのか・・・。
この今の状態こそ
日本にとっても
世界にとっても
地球にとっても
限界であり
もうパンク状態であるという
認識こそが
必要なのですね。
人間はこれまでにない
物質文化の豊穣さと
さらなる利便性の追及が頂点にまで行き付きましたが
逆に
自我は
ますます迷路に入りました。
そこには
欲望の幻想がどんどん拡張されていく
狂気めいたものすらが
あります。
物質が優先するば
するほど
人間の欲望やコンプレックスなどの闇は
それに代行、代償され
代行されればされるほど
人間は
ますます病んでいきます。
執着は
かなえられれば
叶うほど
進行して
その人間の自我を
乗っ取っていきます。
ほんとうは
過剰な執着や
利便性を洗いなおし
自分の欲望を整理してゆくことこそが
幸せ(心の安定)につながるのに
このままハメルンの笛に連れられて
どぶ川つれこまれたネズミのように
人間は文明の催眠から
醒めないのでしょうか。
それは
人間の欲望を維持し
物質社会と
エネルギー社会を維持するために
原発を必要とし
戦争の可能性を捨てられず
憲法を変えてまでも
軍隊を持とうとする狂気です。
しかし
でもね~、
それらはみな
脳が解明される前の
人間の存在のしかたにおいてこそ
そうなってしまうのです。
つまり
脳が解明されない前の
・不明のなかで
・存在の不安や恐れが解明されていないために
・それらが
・反動して
・欲望へと執着されていく
人間のあり方です。
脳の働きはほとんどが
無意識であり
脳は無意識のデーターを駆使して
人間の意識や意志とは別に
ほゞ自動的に
働きます。
その時その人間の自然性のブレーキになるのが
遺伝情報として書き込れた
マイナス情報や
後天的に獲得された
ネガティヴな体験の記憶情報です。
それらのマイナス情報が
体験によって書き換えられなければ
それらが強固
そういう風に思いこみ
その人間の無意識を
マイナスに操作してしまいます。
しかし
脳のメカニズムは解明されていくこれからは
それらの
・遺伝情報も
・後天的な情報も
ほんとうにそうであるかを
相対化しなければ
なりませんね。
つまりは
意識や心が形成されてゆく過程を
解明してゆくことが
これまでの人間史や
文明や文化の中で
人間の中に
刷り込まれてしまった
不要な
・不安や
・怖れや
・怯えや
・警戒
・猜疑心の
・否定的な心理や
・瞬間的な動物的攻撃衝動や
それに対する
・動物的な反撃衝動に
解決済みのタグをつけて
人間を安心させてくれるでしょう。
さらに
それらに基づいた
・シュミレーションの誤解を解き
・拡張する欲望の抑制を始めなけれななりませんね。
それは
・無意識の中の
・ネガティヴな感情が反転した
・幻想社会(仮想社会)ではなく
自分の中にある
・エネルギーが滞らずに流れる
・自然性にもとづいた
・安心で
・優しい社会と
・温厚な人間関係を
・創りだすことへ
繋がっていくと思います。
そして
むしろ
今度こそ
意識的
ほんとうの
人間の共存を
考え
創りだすのです。
相互を理解し
共存してゆく知恵を産むことへと
存在をシフトチェンジしていかなければ
ならないと思います。
そしてそれらを叶えることができる
先頭に立っていいるのが
この
日本だと
私は思います。
その作業の中で
新しい人間観に基づいた
新しい世界を
人間が考え創りだす時がきている。
つまり時代は
大きな折り返し地点にきていると
いうことです。
そして最後に私がお伝えしたいことが
あります。
まずは
以前のご紹介したことがある
人口知能のオーソリティである
前野隆司さんが
ご自身の本「幸せの日本論」角川新書
に
以下のように書いておられますので
読んでください。
現代社会にも、
神、輪廻、死後の世界、
集団的無意識、運命、
セレンディピティーなど、
現代科学では解き明かせない不思議なことを
信じる人達がいます。
それを否定する気はありませんが
本書ではそうではない側の立場にたちます。
本書では、神や天使や幽霊は
人間の想像のたまもの、
輪廻も死後の世界もない
幽体離脱は脳の錯覚、
いわゆるユング派のいう
集団的無意識や
定まった運命も
偶然とは思えないセレンディピティーはないと考えても
あらゆる物事は説明できる、
占星術や血液型占いには
科学的裏付けがない、
という立場にたちます。
私も同じような立場にたちます。
そしてこう言う風に
人間の
・本当の現実を認識することは
これまで人間が依存していた
脳が創りあげた仮想の
・神秘幻想を失うことですから
とても厳しいことでもあります。
しかし
これからの時代は
それへの依存から
目を覚まし
ひとり一人が自立し
自分の人生を
いってに自分で背負い
創りだしていかなければ
ならないです。
その時
自分の苦しさが
自分を解放してゆくヒントになります。
命は
もがきながらも
苦しみから
解放されようとするものですからね。
そこに命の原点があります。
しかし、
でもね
それも
時間をかけて
自分の中を整えていけば
いいのです。
むしろ
人生とは
そういう時間の場であると
私は思います。
そして
私は人間の心がいかに
脆弱であるかを
知っています。
パスカルのいうように
人間とは
人生の未知の世界で
弱弱しく立ち
風の中で揺れる
葦のようなものです。
だから
神や天使などは
人間が考え出したものでは
あるのですが
それでも
神頼みをしてください。
お宮に参って
神さまに
お願いをしてください。
自分では解決できないことを
神様に祈ることも
大切です。
なぜなら
自分の
せせこましい自我や
貧弱な意識で
何とかしようとしても
うまくいきません。
神秘の仮想世界も
人間が考え出した
知恵であり
素敵なアイディアでも
あります。
私はもとキリスト者ですから
今でも
神様にお祈りをします。
そして
妖怪アイコンで
心を豊かにした
遊びの世界を展開しようとしています。
梁塵秘抄のあの
『遊びをせんとや生れけむ、
戯れせんとや生れけん、
遊ぶ子供の声きけば、
我が身さえこそ動がるれ』
訳
遊ぶために生まれて来たのだろうか。
戯れるために生まれて来たのだろうか。
遊んでいる子供の声を聴いていると、
私の身体さえもつい躍動して
動いてしまう。
ですよ!
また何か困ったことがあったら
いつも書いている良寛さんの師匠である
大忍国仙和尚のことば
「謄々任運」で
『運を天に任せ
のほほん
のほほんと生きる』
の
ほうが
ものごとが
格段にうまく廻ります。
実はこのことも
自分の自我意識で解決せず
無意識にまかせちゃう
とうことでもあるのですね。
ただ宗教や
占いに
依存してしまうと
人間は
おかしくなり
あのオーム事件のようなことが
おきてしまいかねません。
無意識の世界に刷り込まれている
感情の汚れがとれてくると
いきることは
どんどん軽やかになります。
以前書いた
無意識のなかに住む
・シャドウたちや
・妖怪たちを
自分の意識の光の中に
だし
それを自分が
受け入れることができたとき
それらが今度は
それが広範な人間理解の知識へと
なります。
そういう風に
人間の表(意識)も
裏(無意識)もが
ちゃんと自分の手ひら(理解の範疇)にあるようになること。
なにかあったら
他者や社会のせいにしないで
自分の無意識にある
・心理の傷や
・コンプレックスと
きちんと向き合い
自分で解決する。
このことができるようになるいいね。
それは
これまでのような
争いが絶えない人間社会ではない
他者と一緒に生きる世界を
つくる
一歩になると
思います。
今日は大変難しいことを
書きました。
上手く書けたかな~!
読んでくださり
ありがとうございました!
●告知
「結婚と離婚のワークショップ」を開きます。
結婚と離婚の問題を解決するには
◎自分の価値に気づいてゆくことです。
詳しくは田下啓子公式サイトでご覧ください。
●田下啓子公式サイト
「遠野の妖怪アイコンフェスティバル」の
フェイスブックをはじめましたので
どうぞよろしくお願いいたします。
