テオ・アンゲロプロスと赤塚不二夫。 |
『遠野の妖怪アイコンフェスティバル」にむけての
ラベル作りに終始しましたが
その合間で
トッツイが今はまっている
『おそまつさん』の話を聞きました。
原作は赤塚不二夫さんで
私個人は『もーれつア太郎』の
こころの親分が大好きなのですが
でも
『天才バガボン』のバガボンのパパが放つ
「それでいいのだ!」は
もうこれ以上ない≪名言≫です。
「それでいいのだ」は
すなわち
私の常套句
「振り返らない」
でもあります。
いつも
何をやっても
何が起きても
それでいいよ!
と肯定し
振り返らない!
赤塚さんの人生特に
幼年期は
たいへんな苦労の連続であり
振り返ってなどいられないくらい
辛く
暗い!
だからこそ
常に自分を前向きにリセットして
あの名言がうまれたのかもしれない!!
私が若い頃雑誌に載っていた
セーラー服を着てはしゃいでいる赤塚さんの写真は
今でも忘れられない!
その赤塚さんから連鎖して
私の頭の中に浮かんできたのが
先日DVDで見たテオ・アンゲロプロスの映画
「永遠と一日」です。
これは村上浩康監督との映画対談の
宿題でもあります。
彼の最初の作品「旅芸人の記録」から
最後の作品「エレニの帰郷」までの全作品を
見る宿題です。
残りあと二本で、最後の作品まで見てからしか
何も言えないのですが、
しかし最初の「旅芸人の記録」を見たときは
重くて息苦しい映画でありながら
あまりにもその映像が美しく、
詩情にあふれていましたので
これは壮大な「叙事詩」かもしれないと
思いました。
しかし今は
もしかしたらこれは
テオ・アンゲロプロスの
<長編小説>ではないかと
思い始めています。
叙事詩風に託された
テオの長編小説
まあ、長編の叙事詩でもありますが・・・。
国家やイデオロギーに蹂躙されながらも
脆弱で小さな小さな存在の個人と家族が
かろうじで
生きのびてゆく。
16世紀の大航海時代から
18世紀におきた市民革命から
産業革命を経て起きてくる
近代の人間の
個の意識の覚醒と
それが新たに創りだす
人間解放としてのイデオロギーも
そして新しいフレームとしての近代国家も
すべてが幻想であり
仮想の世界、
夢想の世界でもあり
それは
ことごとく
テオの幻想として
崩壊してゆく。
そのうねりのなかで
個としての人間も家族も踏みつぶされ
翻弄されていくがしかし
それは
紛れもなく
人間という生きものが
創りだしている世界でもある。
その人間の綴る歴史も事象も
すべてが
永遠と一日の連鎖の中にあり
それは永遠でもあり
一日でもある。
ここには絶望しかないかもしれないが
しかし
この映画にも少年が登場する。
最初の「旅芸人の記録」にあった
抒情的な色彩と情感は
どんどん裏切られ
消えていきます。
しかしそれは
長編小説の導入の感傷に過ぎず
その感傷は
どんどん傷がつき
色あせ
常に裏切られ、
物語りは
単に個人である、
つまり
単に個人である一人の<孤>の中へと
収斂していきます。
社会とは何か
国家とはなにか
体制とはなにか
そしてあのイデオロギーとは
何であったのか。
そして
人間とはいったい
なにものなのか。
荒波に翻弄され苦難の中を進む
ギリシャ発のこの破船は
どういう陸地にたどりつくのであろうか。
あと二本
果たしてテオのオデッセイアは
どのように最終章を綴ろうとしているのか。
なぜ赤塚さんの「それでいいのだ」から
テオ・アンゲロプロスの世界を
私の脳が連鎖したのかは
わたしにも
わかりません。
ただアンゲロプロス監督の作品を
最後までみようと思いますが
しかし
この長編小説のラストは
アンゲロプロス監督が
事故で死んでしまいますから
それも永久に封印されてしまいました。
あと二本
本当は
みるのも辛くて
重い気分になるのですが、
見なければね。
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遠野の妖怪アイコンフェスティバル