テオ・アンゲロプロス監督の映画 「エレニの旅」を見ました。その2 |
夢の中で
人間は弱さを共有せねば・・・と
しきりに考えている自分がいて
目が覚めた。
覚めたとき一抹の不安に襲われたのは
おそらくテオ・アンゲロプロスの映画「エレニの旅」を
いまだに引きずっているせいだと
思う。
私の神経が
この映画の絶望から
回復していない。
ただ人間はともすると
自分の都合の好いように
現実を幻想化し加工する。
しかしそれはあくまでも
仮想の蜃気楼であり
社会の底辺には
漠然として不明瞭の不安が流れ
実はそこにこそ
ほんとうの実態と実像が
潜んでおり
私たちに警告をしている。
今の日本の現実はまさに
そういう
蜃気楼のような繁栄の魔術の中にあることを
ほんとうは
直視しなければならないうことを
私の夢は警告しているようでも
ある。
時々私は自分の人間観は
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で
止まっているかもしれないと
思う。
ことのはじまりは
コロンブスが
遠く新しき植民地を求めて
船出したときから
ヨーロッパ国家の存続と経済の繁栄において
世界がグローバル化し
デモクラシーの
あたらしい人間の理念が生まれてきてた。
フランス革命の
自由・平等・博愛の理念により
封建的世界から市民が台頭し
人間を解放したかにみえたが
その水面下深くでは
今度は別の桎梏に人間は
捕まってしまう。
それは国家と経済という桎梏である。
その新しい近代国家と経済の市民社会の台頭の中、
ロシアも資本主義化をめざし
農奴解放に踏み切る。
そしてロシアの知性として
トルストイもドストエフスキーも
あたらし市民としての人間を描き始めた。
特にドストエフスキーは
シベリア抑留から帰還し再びペンをとってから
名作が生まれてくる。
テオ・アンゲロプロス監督は
植民地を探して他国侵略をするしかない
近代資本主義経済のながれと
19世紀、デモクラシーが弱体化するなか
資本主義に汚染された国家エゴイズムの
領土支配と戦争、
それに抗する
社会主義の発生とその幻想の墜落のなかで
ファシズムの嵐に翻弄され
自由奪われ、抑圧されて
深く傷ついている故国ギリシャの民衆の
その小さな個の世界を
描いている。
しかしその奥にはいつも
ドストエフスキーにバトンされたかのような
世界とは、国家とは、経済とはを、
背景の射程におき
網羅するスケールで
人間が描かれているように
私は思う。
私たちはともすると
うかうかと過去のことと切り離して
現代を考えるが
そうではない。
16世紀にはじまった
つまり市場の拡大を求めて
植民地を侵略し
他国を侵食していくという
資本主義経済の
グローバルリズムの歴史の流れの
真っただ中の地続きに
現代があり
現代は物質的市場経済から
IT,金融市場経済へと
姿を変えてはいるが
逆にそれらは
極めて悪質な経済への転換でもあり
仮想の豊かさと
お金は
ヌエのように狡賢く
人間を冒し続けている。
その中で
人間とは
民衆とはについて
ドストエフスキーが考え続けた
その人間観と自分のあり方について
私は
いまだに心を掴まれている。
ひきずっているともいえます。
それは自分が生きることを
何を以てよしとするかであり
そこに影のよう不可避的な存在としてある
他者がいる。
その
他者をどのように受け入れていきるか
ということについて
私はドストエフスキーに
心を掴まれたままなのである。
ドストエフスキーの生きた19世紀に
比べれば現代は
脳科学が発達し
それにもとずいての
心理学や哲学の人間認識も
大きく変容をとげようとしているが
それでも
そうだとしても
私の中の
他者と自分がどう向き合うかについては
いまだドストエフスキーに
私の原点がある。
それがテオ・アンゲロプロスの描く人間たちと
重なっていく。
国を奪われ、市民権と自由を奪われてさまよう
民衆が
イデオロギー幻想も崩壊するなかで
国家と国家の狭間の海の上で
立ち尽くす
「シテール島への船出」も
難民となり電柱の上で働く
「こうのとりたちずさんで」いる人間の姿は
まさに
今のI情報時代及び
難民問題と重なり
私は
ぞっとした。
しかしことは
なるべくごとくに
なってゆく。
それは偶然でも
偶有でも
なんでもない。
極めてロジカルに
人間のしたことが
人間に帰ってくるだけのことである。
人間は何をしようとしているのか
人間は何を欲しているのか
人間は
何を
愛そうとしているのかが
ずっと
問われ続けているのにで
ある。
資本主義の市場拡大の始まった
16世紀以来
いや
もしかしたら
人間の有史以来かもしれないが
金と豊かさを巡る
強欲の舌は
いつの間にか
人間が為さねばならない
ほんとうことを
忘れている。
それはほんとうに
ささやかで
密やかで
小さな
小さな愛を
自分にも
他者にも
注ぐということで、
アリョーシャカラマーゾフのそばで
長老ゾシマが告げる
「神が愛した民衆を愛しなさい」と
いう言葉につきると
私は思っている。
そもそも自我の発生こそ
人間が
対立の中を生きねばならないという
人間の
脳の宿命的な
システムであり
その脳のシステムのなかを
人間は
いきるしかないのである。
しかしその脳システムを
どのように作動させ
さらにそこから
自分と他者の関係を
高次に止揚していくかは
その個々の人間のいきざまに
かかっている。
自我の中の対立
つまり
自分が眼がさめている間に
脳の中を去来する
対立の存在は
それがどんどん拡大されればされるほど
人間は
対立が強化されてゆく。
そして
その対立の不毛さに
どこかで気づき
対立を解決してゆかないと
その人間は
自分が常に対立の中に生きていることにすら
気づかない。
しかし
気づき
意識的に対立を解決し
捨てていくことで
それらを
消してゆくことも
人間はできるのである。
そして残念なことに
対立は常に
勝者と敗者を産みだす関係を創りだす。
かろうじて平衡を保とうとして
理性の力を借りても
対立は
それを捨てない限り
対立の本質は
いつかは地金が現れてくる。
そして無意識のうちに
勝者は
敗者を従えて生きようとする。
なぜなら
勝者こそは
敗者の裏がえしであり
勝者は敗者によってしか
成立しないからである。
確固たる自立と
自他の分離意識なくしては
そういう共依存のなかで
人間はいきてしまう。
テオ・アンゲロプロスの作品はいつも
この敗者の目の中にある。
しかし
敗者なればこそ
すべてをパノラマのように
見渡して
見ることができる。
勝者の眼は
その高慢な高さにおいて
次の勝利へしか
向かない。
とても
地面にたたきつけられた敗者のごとく
足元からパノラマ的には
見えないのである。
だからこそ
奢る。
テオ・アンゲロプロスはいつも
この敗者の眼の中に
私を引きずり込む。
でもそれはきっと
わたしだけではなく
この映画をみている観客はみんな
そういう風に
引きずり込まれる気がする。
何もかも奪われていくエレニの
そばには
それをみている観客がいる。
その観客は
エレニを無意識で痛み
愛している。
誰も気づかないが
そこには
微かな愛があるんだよ。
私たちはともすると
奪う者のほうへと
意識を向けてしまう。
勝った者を讃え
豊かなものへと憧れ
生産性を追及し
無意識に自分をその位置へと
スライドしてしまう。
それはほゞ
無意識に自動的に
人間は
そうなってしまうのである。
人間の眼は
弱い人間には
いかない。
なぜなら
自分をその道連れに
されたくないからである。
弱い人間は取り残され
置き去りにされる。
それは人間の条理であり
不条理でもある。
自分をヒューマンな善人だと
思いこんでいる人間も
深層心理は
同じです。
だからこそ
歴史は
そうなっていった。
現代の現状もまさに
洪水のごとく
人間の無意識の集合が創りだしたものです。
ほんとうは
天と地の境目の
山のいただきの
小さな村に
人間はいる。
アレクシスが山の奥のいただきと言ったのは
現代は山の麓は金と力に
むさぼり尽くされ
もうそこにしか
平安な地がないのかもしれない。
ちいさな村こそ
人間の本来の住む場所かもしれない。
天は限りなく広く自由であり
海の中から人間が生まれた。
大地は豊かな恵みの母である。
天と海のその境目の陸に
人間は住む。
山は高邁な理想として
人間の前に立ちはだかり
時に人間を叱咤する。
そのふもとで畑を耕し
河によってエネルギーが運ばれ
道はその人生を創りだす。
花々は人間を癒し
動物が棲む森が
人間を守り包み込む。
エレニを見ている人間もエレニも
同じように
無力で弱いものであること。
人間はその弱さにきづかなければ
強くなれない。
人間は陽炎のように不確かな存在であり
自分の危うさや
弱さにきづかなければ
強くはなれない。
人間がその弱さを共有してゆくことこそ人間が生きのびてゆく知恵になる。
強いということは
弱さも強さも
すべてを
包括して生きるということで
その時こそ
人間は自分の全体性をとりもどして
つよくなる。
この映画できっと観客は
いちばん奪われた者であり
いちばん
うちひしがれていきている者であり
いちばん弱く
無力な者
エレニに
寄り添ったと思う。
その時きっと
自分の中にある
密やか
小さな
見えないくらい微かな愛が
瞬間さざめいたと
私は思う。
わたしも
いつの間にか
高い目線にいた自分に
ハッときづき
ゾシマの言葉を
思いだした。
