老いるとは。 |
過去の自分が浮かんできた。
しかし
それはまるで
夢のようだった。
過去の自分を
まるで無声映画のように
今の自分がみている。
いまだからこそ
その道理も道筋も見えるが
当時の私は
暗がりの中
何もてがかりがないまま
なにかを探しながらいきている。
今思うとその私は
分けも分からず
さぞかしあやふやな中で
現実にしがみつきながら
プカプカ浮いて
いきてたように思える。
老いるということは
自分も他者も
人間はだれもが
たかがしれた存在でもあり
どんぐりの背比べくらいの違いであるということが
わかってくる。
他人と自分との差が
たいそうな違いであるように思いこんだり
他人ばかりが幸福そうに見えたりすることが
老いるに従い
ほとんど愚にもつかない
滓のような
錯覚であるとわかってくる。
いきてみれば
過去も過去の自分も
幼く
たわいのないことで
過ぎた日はどんどん風化して
風の中で舞っている。
人間は始めからひとりで
終わりも
ひとりで
自分に起きることはすべて
自分の脳の中で解釈されている
現象にすぎない。
自分が期待したことも
自分が夢見たことも
すべては
自分を起点にして
自分が起こしている
自分の
現象である。
自分は何を期待し
自分は何を夢見
そして
自分は何を創り
何を壊したか。
自分の外的世界はまるで
自分が創りだした物語が
映画のように
自分を主役にして踊っているに
すぎない。
他者に期待することは
自分に期待されたことが裏返っているにすぎないし
他者の中に夢見ることも
自分が夢見ることを投影しているに過ぎない。
つまり
自分が夢から醒めることが
人生かもしれないのである。
夢から醒めたとき
そこに広がる現実こそ
自分の作りだした
ちっちゃな、ちっちゃな箱庭の世界で
自分が今手にしている現実こそが
その結果である。
夢から醒めてはじめて
じぶんとはなにものであるかが
わかる。
自分の現実を端から端まで見渡すとまさに
そこには
自分が創りだした自分の人生が
すべての欠片が
一つの無駄もなく自分を構成している。
たとえそれが自分が気に入らなくともに
或は
自分が望んだものではないと思おうが
しかしそれらは
まさしく自分が選びとった世界でもある。
夢から醒めた現実のなにもかもが
自分の分身であり
自分の行為が
降り積もったものであること。
それを見る時
自分の眼差しがやさしいかどうか。
その優しさの中にこそ
自分の人生への労わりと感謝がある。
老いるとは
それを知ることであると
私は思っている。