凄みの際! |
わたしもさっさとナルシズムを捨てて
そうなりたい。
「深海に生きる魚族のように
自らが燃えなければ何処にも光はない」
これは映画監督の大島渚が愛した
昭和の歌人<明石海人>のことばである。
大島はおそらく若き青年たちに向かって
<青春>とはと
投げかけ
自らもその言葉通りの映画を創ったのだと思う。
まさに「愛のコリーダ」はそういう大島の
無と光に挑み続ける
絶頂の作品のように私は思う。
しかし私はその次に彼が創った
「愛の亡霊」の方を愛す。
理由は
力みきって
肉と格闘する「愛のコリーダ」に」比べ
「愛の亡霊」のほうが
力が抜けており
そこには
客観的な目がす~っと入りこんで
熟しているからだ。
「愛の亡霊」は
まるで能世界のように
過去、現在、未来の
時間と空間とが錯綜して
事件が展開していく。
そしてその夢幻空間のなかで
人間は翻弄され
さらに滅していく。
しかし
それはまさしく
<脳の世界>そのものでもある。
脳現象そのものの世界である。
京都人である大島は
教養としても
文化としても
そういう能世界に通じていて
それが
肉の力みを描き切り
ふっと解放された時
精神(魂)と肉とが
自由に行き交う能の世界=脳の世界が
もしかしたら
無意識に自分を委ねるように
彼の中に風として吹き抜けたのではないかと
思う。
自由に空間と時間が行き交う
この
能的手法は
おそらくその後の世界の映画監督に
バトンされているように
私は思う。
例えばイ・チャンドンや
テオアンゲロプロス監督にも。
それも私の素人考えかもしれないが・・・。
大島が「愛の亡霊」を作ったあとの
「戦場のメリークリスマス」も
西洋の<知と理=デビットボウイ>と
日本の<知と理=北野武>とが向き合い格闘し
共に崩壊してゆく。
西洋及び日本の
・知とはなにか?
・理とはなにか?
しかし
それらすべては
<無>から派生し
やがて
<無>の中に収斂していく。
そして
実は
そこからしか
なにも始まらない。
<無>に着地しない限り
なにも始まらないのだ。
しかしそれを知りえるためには
<知と理>の中を極めつくさなければならない。
※なぜ収斂していくのかというと
それは崩壊であり
消滅ではないからです。
つまりはゼロという有の中に
吸収されていくだけだと
いうことです。
「愛の亡霊」以後の大島は
フットワークも軽く
「マックス・モンアムール」
つまり
人間の肉をはなれて
チンパンジーのマックスと人間の女性とが
愛し合う。
さらに「ご法度」では
日本には古来からあった
男娼の世界が
<新撰組>といういかにも
頭が堅くいかめしい組織を
翻弄する。
つまりは
平安の今様の
『遊びをせんとや生れけむ、
戯れせんとや生れけん』
(『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)
のように
大島の中に起きた成熟と覚醒とが
そこへと
彼の道を拓きだしたように思う。
残念なのは
その後大島が脳出血で倒れたことだ。
もし大島がその後も映画を撮り続けたとしたら
老成した大島はもう
深海で自分を燃やしてはいないかもしれない。
むしろ
深海の泥の中に姿を隠し(納め)
その泥の中から
じ~っと目だけを出して
ギョロギョロとこの世を見渡して
映画を創ったと
思う。
さて冒頭の歌人<明石海人>の
全文をご紹介する。
癩は天刑である
加はる笞(しもと)の一つ一つに、
嗚咽し慟哭しあるひは呷吟(しんぎん)しながら、
私は苦患(くげん)の闇をかき捜って
一縷(いちる)の光を渇き求めた。
深海に生きる魚族のように、
自らが燃えなければ何処にも光はない
そう感じ得たのは病がすでに
膏盲(こうこう)に入ってからであった。
齢(よわい)三十を超えて短歌を学び、
あらためて己れを見、人を見、
山川草木を見るに及んで、
己が棲む大地の如何に美しく、
また厳しいかを身をもって感じ、
積年の苦渋をその一首一首に放射して
時には流涕し時には抃舞(べんぶ)しながら、
肉身に生きる己れを祝福した。
人の世を脱(のが)れて人の世を知り、
骨肉と離れて愛を信じ、
明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。
癩はまた天啓でもあった。
<明石海人>37年の命の中で
激しく<生>と向き合うこの言葉のその先を
彼より生き延びた大島は
映画の中で
どのように創ろうとしたか。
そして
大島を越え、さらに凄みのある
日本の映画を創るのは
誰か・・・。
私が追及してきた心理と脳の世界も
まさしく
時空を超えて現象化する世界である。
そのことも踏まえ
誰が
新しく吹いてくれる
映画を創るか
楽しみにしています。