人間の味・<品川庄司>の品川編! |
見直して、また笑いこけました!
これはひとえに
プロデューサー東野幸治氏の
手腕のすばらしさでもあるのだが。
なぜ東野には氏をつけるかというと
私は今田耕司氏と東野幸治氏は
・大人の
・男の芸人であると
尊敬しているからです。
この大人であり
男である
という人はなかなかいない!
<サンドイッチマン>なんかは
男の芸人という気もするが
大人の男となると
あと一息かな~。
それでその「どうした品川」には
どうしたら
これほど他人に嫌われるかが
見事にあばかれており
実は私も品川君が鼻について仕方がなかったので
溜飲をおろした。
しかしさすがは品川君で
彼は
そういう他人に
不快感を催させる自分を認め
受け入れた。
だから今の品川君は少しずつ変わり
どこに自分の座があるかに
気づき始めている。
それ以前の、つまり有吉に
「おしゃべりクソ野郎」と
命名される前の品川君は
独りよがりで
自己顕示とナルシズムの塊で
いわゆる自分の<才気>を
振り回していた。
確かに頭の回転がいいし
その分機転が利くし
世間の動向をみぬく才もあったが
それはあくまでも才能ではなく
こざかしい世渡り芸でしかなかった
気がする。
こざかしいというのは
世の中をナメており
自分の才気に溺れて
小手先の芸でなんとかなるという
傲慢の中にいる者が
使う手立てです。
なぜそれを才能ではなく
<才>或は<才気>というか?
<才>とは生まれつき備わっている
色とりどりの原初的能力で
<才気>は頭の回転力がよく
なんにでも良く気が付き
気が廻ることである。
ところが<才能>となると
それは
自分の能力を
・成し遂げていく知能のことであり
その知能が形成されていくには
自分をとりまく
・客観的世界を相対化することが必要です。
相対化、すなわち
自分を取り巻く客観的世界が
どうであるか・・・を知ることは
観察と経験知に比例し
たくさんの体験を踏まなければ
なかなか手には入らない。
もっというと
人間の表も裏をも
知り尽くすには
人の中で揉まれ
たくさんの辛酸や苦労を舐めないと
それは
なかなか手には入りません。
常に
自分を取り巻く外界と
自分の姿や内容を
照らし合わせて
再度
そこから自分を見直していく
・努力こそが
必要なのです。
つまりは
世の中を
熟知していく中で
自分の才気も揉まれて
豊かになり
◎才能へと熟していくのです。
才能とは自分の世界を
くまなく広く豊かに展開できる
能力だと
私は考えています。
品川君はそのこところを
すっ飛ばして
才気だけで
この世の成功をてにいれられるという
大いなる勘違をしていたという訳です。
世の中には
才気のある人間がたくさんいます。
しかしそういう人の中で
若い時に
何等かの疑似的成功してしまうと
自分の中に
才能があると勘違いする人も
たくさんいます。
特に世の中を
自分に都合よく解釈し甘くみて
有頂天になり
しかし
そのうち墜落していきます。
それは世の中(社会)を相対化
できていないからです。
つまりは経験不足のまま
才気でデビューしては
一時を終えて
それが尽きると
消えていきます。
品川君の場合もまさに
そうでした。
もし東野氏が
「どうした品川」を企画しなければ
もう消えていたかもしれませんね。
でも
東野氏は品川君の才気を惜しみ
さらに
品川君自身も
自分の傲慢さと未熟さにきづきました。
でも品川君、まだまだですよ。
「どうした品川」で
最後に元気を取り戻した品川を囲んで
芸人たちがもみ合います。
その時品川君が突き飛ばしたのが
<千鳥>のノブです。
つまり
そのとき品川君を囲んでいる
つわもの芸人の中で
唯一
人畜無害なのが<千鳥>のノブです。
私の眼には
この場合<千鳥>のノブなら・・・という
計算が瞬時に品川君の頭で働いたように
思えました。
でもね
そういう計算ができることこそが
こざかしいのです。
むしろ人畜無害なノブの座こそ
品川君が学ばなければならない課題でしょう。
彼が自分より下に見下している
例の<TKO>の木元や
人畜無害な人間たちこそが
自分のその
ギラギラする才気を
照らしてくれていることに
気づかないとね。
今回人間の味というテーマで書きました。
自分の中の潜在的な能力が
だんだん熟して味になっていいく。
村本の場合は、
普通の人間が抑圧している
毒と悪態の座に自分を置き
そこで勝負をかけてきました。
大悟の座は
クズで優柔不断で
すくいようのないダメ人間は
実はだれのなかにもある
もう一人の自分です。
それを普通の人は覚醒できないだけです。
ついでにいうと
サンマの座は
狂気のおもてなしお喋りです。
三人とも
自分のいちばん醜いところ
軽蔑すべき自分こそを
天の下にさらし
光の中へと差し出しています。
その黒ずんで垢だらけの自分こそが
人々の笑いや軽蔑のなかで
ドクドクと発酵し
やがては
滋味なる旨味へとなっていきます。
品川君のように
才をひけらかして
ナルシズムに陥り
他者よりも上に立とうとして
孔雀の羽を広げることより
最低の人間
一番ダメな人間に
寄り添うことこそ
芸人の芸人たる証です。
人間の無意識領域の中には
本人は気づいていないけれど
生きることそのものが
辛くて
しんどくて
時に他者の軽蔑の目にさらされる
劣等の自分がいるはずです。
表面の意識はそれを
取りつくろって気づかないように
していますが
誰もが
全てのひとが
そうです。
だからこそ
そこに
大いなる芸人への共感が
うまれるのです。
村本君の場合は
人間のとがりきったところを
そして大悟の場合は
あきらめて
平らかになったところを
※あきらめて平らになった地面はこそは
優しい包容力の世界です。
そしてサンマは
人間関係の心理の狂気のところを
それぞれが
究めています。
少しずつ気づき始めた品川君は
きっといつか
彼自身の味がなにであるかを
つきとめるでしょう!
いつかね!
その時まで
私も生きていたいもんです。
見てみたいもんです!