小川紳介監督ドキュメンタリー映画 「1000年刻みの日時計」牧野村物語より |
「1000年刻みの日時計」牧野村物語は
日本の精神史を描いている。
精神史といっても
表面のしらじらしい精神ではなく、
裏の呪詛的精神史の
世界です。
アミニズムの世界です。
地下に葬られ
語られなかった精神史が
「神」や「幽霊」や「妖怪」の
姿に化身して
神社やお堂やお地蔵様や道祖神
さらに
妖怪や化け物になって生き延びて
その地を
逆支配している。
その精神史です。
奇しくも私は今<遠野の妖怪>に
コミットしている・・・笑い!
「1000年刻みの日時計」では
映画の最後に
250年前の江戸時代で
百姓一揆をおこし、
おとがめをうけた
村人の首謀者たちの裁判が
・牧野の村人と
・田村高廣さんをはじめプロの役者を使い
劇として再現されています。
しかし今生きている村人は
まさしく
首謀者たちを裏切ってしまった
村人たちの子孫であり
だからこそ
打首、さらし首になった首謀者たち、
つまり当時の村のリーダーたちの
その魂を鎮魂するために
神社や地蔵を作り
祀っているという
逆説の精神史が
光の中にさらされる。
江戸時代
百姓と菜種油は
絞り取れるだけ絞り取れといわれ
被抑圧の底をいきた
農民たちの怨念が
神社になり
地蔵になり
プリミティブな道祖神となって
今も
村の中で生き続けている。
人間の歴史は
ほんとうは
こういう
表でにはでない
地下の歴史の中にこそに
真実が隠されています。
日本の国の社会は
そういう
地下風土の分母の上に
砂上陽炎のごとく
危うく刻まれてきたとも
いえるのです。
それは1000年2000年の日々に
日時計のなかで
日めくりのように刻まれたその日々が
刻まれては消え
刻まれては地下へと葬られながらも
地下の暗渠の中で繋がり
今の
この
現実も
まさに
ある。
小川監督のこの前作の映画
「ニッポン国古屋敷村」の
田圃の地層にも
そしてこの映画では
畑の中から出てきた男根の道祖神や
さらに畑を掘り起こして現れた
縄文の儀式の場らしき遺跡や
その炉や
土偶もが
私たちの精神史が
地下で
営々と不連続に連続して
繋がっていることとして
証される。
人間は幻影を見ながら生きていく。
その夢まぼろしと
現実の落差の中を
私たちは浮遊して
やがてそれが
地球という地面に描かれていく。
さらにそのもっと下の
地下深くには
記されなかった歴史の暗渠が
滔々と横たわっている。
そういうものを
小川監督が取りだす。
しかしそれは
稲という
極めて賢く
勤勉な草の穂の実りに投影された
日本の民衆が
いきてきたことへの愛でもある。
稲の受粉は
夏の陽ざしの中のある一日の午前の
たった40分だけ咲いて
行われる。
稲はその
短い一瞬の契り(受精)のなかで
奇跡的に実をつける草であること。
その奇跡の実を
私たちは食している。
可憐ですきとおった
稲の花は
いかにも儚く
美しいです。
しかしだからこそ
その稲を主食にした風土は
逞しい。
忍耐強く
辛抱強く
声を噛み
言葉を呑みこみ
ひたすら地べたに這い蹲って
水を廻し
田の草を取り
一瞬の奇跡の実りに
自分を託してきた日本の農民は
図太い。
地下に流れるその
逆説の精神史と
農民の魂を
小川紳介監督は
見事に映像にして
みせてくれました。
日々きざまれる大変な労働も
黄金の収穫の祭りも
雪の中の炭焼きも
一面の雪野原も
それが日本の民の原像でもあり
忍耐強く
奥ゆかしく
慎ましく
そして
いかにも植物的な祝祭のもとで生きる
あの土偶のように
素朴な日本人の生きかたが
私には
眩しい!
稲の花のように
美しい
です。