才能の開花と覚醒について、その2 |
才能の無限の泉があり
その源流には、
他者及び世界と
繋がっている水路があると
書きました。
今日はそのことから
書いていきます。
ちょっと今日書くことは
難しいかな~!
でもよ~く考え,
言葉を自分なりに咀嚼しながら
読んでくださいね。
では、いこーか~!
禅の考案に
「父母未生以前の本来の面目如何」
(父母が生まれる前の自分はなにか?)と
いうのがあります。
これは夏目漱石が
円覚寺の老僧から出された公案としても
有名です。
どういうことかというと
自分が生まれる以前の自分は
どうであったかということですが
実は
生まれる前の自分は
無色透明な自分がいるのですね。
つまり個々の脳は
遺伝によって
初期システム化されてはいるのですが、
そこには人間の言葉は
何も
書かれてはいないのです。
つまり
人間及び人間社会が持つ
様々な言語や文化や習慣や価値などなどは
一切書かれていないということです。
こんなこと当たり前ですね。
でもあたり前ですが
誰もそんな風には考えない。
あたかも
生まれる前から
自分という自我がそこにいるように
思いこんでいる。
そういう前提で
いきている。
しかし
生まれる以前の脳は
外界=人間世界からの
一切の刺激を受けてはいませんから、
当然何も人間社会のことは
現象化していません。
それは
ゼロ地帯であり
無色透明ともいえるのです。
そしてそのことにおいては
人間は誰もがそうであるという
普遍性の中にあり
誰もが対等なのです。
※誰もがゼロから始まるのです。
そして生まれてから
多くの他者たちと関係しながら
自分というイメージや
関係に基づく様々な執着を
作り出していくのです。
大事なことは
人間は
他者との関係のなかでしか
生きれないということ。
他者との
●つながりのなかでこそ
私たちは
いきることができるのです。
※様々な執着が起きるのは
まさに人間が未成熟で
その関係や事象に執着せずには
いられないからです。
1、人間はその原型の自我は
無色透明であること。
2、人間は関係性のなかでしか
生きれないこと。
そして
●この無色透明な自分こそが
自分の才能の泉に繋がっている
水路なのですよ!!。
なんのことか
よくわからない?・・・笑!
そうだろ、ソウダロ!!
でも
このことを
しっかり
頭に入れておいて
ください。
では次に行きましょう
そうして生まれてきた
人間(私は)、
私を取り囲むその社会や他者の持つ、
●ローカルな
言語や文化や習慣や価値などなど
様々なものを
刷り込まれて生きます。
※ローカルとは
それぞれは自分の生まれたところの
国や地域のというローカルや
自分の親や家族という社会的ローカルなどです。
私たちは
自分を取り囲む、
様々な
●ローカル性の中でしか
生きれないということです。
そのローカルな環境の中で育成される
無色透明の私に、
様々なローカルな書き込みや
刷り込みが為されていき、
その結果
『私』という、
他者とはまったくローカルの内容が違う、
事と次第によっては
そのローカル性によって
他者と対立する自分を、
造って生きていくのです。
つまり
人間は誕生したら約20年くらいは、
親ないしそれに類する人間の、
保護下で生きるしかありませんから、
親や家族という限定された
ローカルな囲いの中の、
●コアな情報が
多く、強く、
刷り込まれていきます。
その時とても厄介なのが、
親や家族やそれに類する人間たちの
●様々なネガティヴな思いこみも、
そのまま脳の中にバトンされてしまうことです。
そして脳は
それらの情報を基に
その人間の脳を
今度は遺伝システムにプラスした形の
生きるための実践的
初期システム化として
してしまいます。
システム化とは
その人間の生きるフォームとしての
・反応の体系化や
・感情の体系化や
・思考の体系化が、
無意識領域に
構造化されていくということです。
※だから人間はほゞ無意識に
システム化された自分を
いきてしまうのです。
人間は
そういう風に、
極めてローカルに体系化された
自分の脳世界を持って、
他者や社会とかかわっていきます。
その結果
世の中は広いし多様ですから、
そのローカル性はかならず、
他者や社会のローカル性とぶつかります。
それの結果起きてくるのが
失敗や挫折ということです。
また
そういう他者や社会と
ぶつかりながら
脳は、
データーを集積しては分析し
一定の規則性を見つけては
そこに
普遍的なものを見つけながら
さらにそれをコード化(体系化)しては、
その先を
生きていくのです。
※「頭の中は統計学」でも
書きましたが
脳の中はいつも外界からの刺激や
データーを獲得しながら
統計しては新しく自分を
書き換えていきています。
その時
自分の頭の中にあるものが、
きわめてローカルなものであるという
自覚を持っている人間は、
極めて希少です。
※まあ、表面的な出身地の違いとか
家族文化の違いとかなどを
自覚するというくらいのことは
ありますが。
自分が思い込んでいる世界が、
他者とは全くの別世界であることを、
●常時自覚しながら生きている人は、
めったにいないでしょう。
むしろ、脳の中で
そのローカル性は
システム化されていますから、
多くの人は
ほゞ無意識に
自動的に、
自分の感情や
価値観や
規範意識や
自分の尺度のものさしを、
そのまま
他者にあてはめていきています。
そういう
●未熟さや
●感情や思考の限界を持って、
人間はいきているのです。
このことも
頭の中にいれておいてください。
冒頭に書いたように
人間は誕生以前は、
無色透明であったにも関わらず、
様々に
●人間社会が作り出したものに
冒されていきます。
人間の意識も観念もすべて
その社会を構成する人間たちが
自分たちの社会を相対化して
につくりだしたものに過ぎないのです。
だからこそ
国家や地域によって
習慣や価値観が宗教観などが
異なっているのは
ごく当たり前のことです。
しかし
多くの人は、
●自分が信じこんだものや
思いこんだ事が
正当であり、
無意識のうちに
それを前提にして
生きてしまいます。
そういう中で
生まれてきたのが
世の中の通念的な、
価値観やその基準ですが、
厄介なのが、
それらに基づいた
パワーバランスで
人間が造り出す、
●ヒエラルキー(序列)です。
もともとすべての人間が
ローカルなのですから
それが
人間の現実に於いて
様々に優劣を作り出すのも
当たり前の話ですが、
厄介なことは
パワーバランスによって
そのローカル性に
優劣や強弱という
価値の序列がつくことです。
※序列化とは
例えば
古くは身分による階級制の序列や
権力や財産による序列や
頭がいいとか悪いとかの序列や
容姿が美しいとか美しくないという序列などなど
様々なことが比較対照化されては
序列化されて
いきます。
そういう風に
人間の社会は様々に
●人間の都合に基づいた価値が付与され
序列化されていきます。
そして残念なことに
人間そのものも
序列社会に組み込まれながら、
●自分自身をも
無意識に
序列化していきます。
その序列の中で
自分を
位置づけていくのです。
そして
そうなることで
当然のように
生まれてくるのが
●コンプレックスの
優越感と
劣等感ですね。
しかもこれは
個人の感情の中の
・快感と
・不快感という
反応を伴いながら
その人間の感情を支配していきます。
さらにもっと厄介なのが
この序列意識をベースにした
●自己幻想です。
本当は
誰もが未熟で
誰もがローカルで
誰もが
本当に
ちっぽけな自分の世界で
いきているのにもかかわらず、
人間はちょっとした優越感(快感)で
自分を膨らませては
自分を安定させ、
反対にちょっとつまづいただけで
不快に落ち込み、
それはまるで風船が膨らんだり
しぼんだりという
まあ<仮想のシーソーごっこ>を
しながらも、
自分を序列の中での
●ある程度の位置へ、
仮設定していきます。
その仮設定は
自分に刷り込まれた
●理想の自分に近いもので
◎本当の実態はそうではないにも
関わらず、
自分はそうであるかの(理想の自分)のように
思いこんでしまうのです。
なぜそうなるかというと
そこには
子供時代の育成期に
他者(親や家族やそれに類する者)の
期待に応えることが
要求されるからです。
※子供はそういう風に
親の期待に応えながら
自分と自分の脳を
システム化いくのです。
その親やそれに類する人間の
●要求度が高ければ高いほど、
その子供はそれを叶えるべく
背伸びしては、
自分を理想化し、
さらにその理想化して膨張した自分に、
価値(プライド・喜びや快感)を与えていきます。
このシリーズの第一回めでも
書きましたが
劣等意識が強い人間ほど
妄想を膨らませて、
自分を保とうとします。
自分の位置を
序列の高いところへと
設定し、
自分が想定している
理想の人間であるかのような
・錯覚をします。
※まあ卑近な例でいうと
自分はバカだと心の奥底では感じている人間ほど
態度はえらそうにし
自分より下を見下すのです。
しかしそれはあくまでも、
●妄想が膨らんだ幻想の自分ですから、
そういう人間は
現実の中で
様々に挫折していきます。
才能に関していうなれば
若い時の才能は
そういう自己膨張した自分が
作り出した、
疑似的才能にすぎませんから
それは、すぐ限界をきたします。
だからこそ
そんなものはたかがしれていると
書きました・・・笑!
自己幻想=理想へと膨張化した自分
を序列の中で位置づけただけですから
そんなものなど
すぐ
墜落します。
墜落しては
嘆き、
嘆いてはまた
自己幻想にしがみつき、
実体のないプライドで
自分を支える。
自己幻想が高い人間ほど
自分にだめ出しをしては
ストレスに冒されます。
失敗や挫折は
その人間が
●自分の実態(自分のありのまま、等身大の自分)が
示されたに過ぎないのに
傷つき、嘆き、さらに
自分にそれを突き付けた
他者を恨んだりします。
もうお分かりですね、
逆に
才能とは
自分のローカルなプロセスが
他者や社会によって
挫かれたり
だめ出しをされながら
こそ
磨かれていくのですね。
たかだか自分はローカルな存在で
世界ことなど
ほんの砂粒くらいにしか
わかっていない。
だから
●自分はもうわかっているとか
知っているとか
と
思ったら
アウトです。
それ以上才能は
磨かれません。
若い時の才能はいわば
プリミティブな才能です。
その原石をいかに
磨くかこそが
才能が花開いていく過程です。
今日は難しかったね!
でもまだ、
つ・づ・く・・・笑!
「MIZUTAMA」2号、発刊されました。
よかったら、読んでください
これから
面白くて知的な記事が
どんどん更新されますよ。
乞うご期待!
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