才能の開花と覚醒について、その4 |
覚醒とはなにか?
それは
気づいて、
目が覚め
悟ることです。
では
何に気づくのか?
それは
いかに自分がちっぽけで、
何も知らない人間であること。
そして
誰よりも劣っている
愚かで、未熟な人間である
ということに
●感情的に
気づくということです。
※感情的に気づけないと
これまでの感情をそのまま
引きずってしまいます。
感情的に気づくことで
これまで自分に巣食っていた
感情を追い払うのです。
こう書くと
な~んだそんなこと
道徳や宗教でも言ってるじゃないか?
という人もいるでしょう。
でもね、
それは頭の中で
言葉として理解しているということに
すぎません。
このことを
●身をもって思い知る
自分の全身(頭と感情と体)で思い知るということは
ほとんどの人はできない。
つまり理屈(観念)だけでは
誰でも言えるのです。
しかし
このことを
●思いしるには
体ごと、感情ごと、自分の全体が墜落し、
自分が他者から
●全否定される、
さらに
●自分が自分を全否定する
ような
体験が伴わないと
こういう
●澄みきった境地は
獲得できません。
自我の奢り(自己幻想)の感情や
自分にしがみつく(執着)する感情や
●今の自分を肯定したい感情がある限り
清々しく澄みきった境地には
辿り着くことは
できません。
※もしかしたら読んでいる人の中に
自分を肯定する・・・のは
いいことなんじゃない、そういう風に
これまで田下さんは
書いていたじゃない?と
疑問に思われる人もいるかと思いますが、
そのことについては
後で書きます。
それはもっと深い意味と境地のことで
きっと納得がいくと思います。
逆に
一ミリでも
自我の自己防衛や
今の自分に執着しようとする感情
(今の自分を肯定しようとする感情)や思いがある限り
それらはすぐ
ぶり返してきて
今まで同様の自分を
維持しようとします。
それは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に出てくる
犍陀多とおなじです。
せっかく覚醒の光(蜘蛛の糸)を見つけたのに
ついエゴが働いて
墜落してしまう犍陀多です。
今まで同様の自分とは
人間社会の序列の中に
自分を位置づけ
自己幻想を膨らまし
根拠のないプライドを持ち
それに乗っかって
生きている自分です。
そういう自分を
●完膚なきまでに
やっつけないと
せっかく気づいても
すぐ
元の木阿弥に
戻ります。
つまり
そういう自我意識と感情がある限り
自分が築き上げた強力な自我が
必死に
抵抗し
反論します。
自分はちっぽけではない
自分は色んな事を知っている
自分はバカじゃない
自分は自分なりに努力してきた
そして
自分より劣っている人間もいる
と
です。
はっきり言いましょう。
人間は
だれもがちっぽけで
誰もが何も知らず
いつも愚かなことをしでかしているバカで
誰もが劣っている。
この世は
劣っているどうしが、
競い合っているに過ぎない。
※だからこそ今だに
人間は戦争をし、そして
愚かな欲に囚われてしまうのです。
すべての人間が
そうであり、
もっと厳しいことをいうと
自分(その人)がいても、いなくても
この世の中は
びくともしないのです。
自分がいてもいなくても
世の中は坦坦と通常通りに動いていくのです。
自分とは
それくらいちっぽけて
未熟な存在なのです。
なのに
自己幻想をふくらまして
そういう●等身大の自分が
見えなくなっている。
未熟で愚かで
何も知らないから
失敗し、挫折するのです。
悩むというのは
傷つくというのは
●自己幻想ばかり追いかけて
そういう自分の
●等身大に
気づけないからです。
自己幻想に自分をあわせて
背伸びし、つま先立ちをし
架空(幻想)の自分ばかりを
生きようとするからです。
しかし現実は厳しく
そういうシャボン玉の泡みたいな自分は
いつも
現実から手厳しい指弾をうけるのです。
だって他者の目に見えるのは
その人間の等身大であり
その人間が抱いている自己幻想なんかでは
ありませんからね。
他者の目には
●その人間のありのままの姿か
逆に
他者そのものが
自分の依存や甘えていると
他者をも自分の都合に合わせてふくらませて
買いかぶった姿しか
見えないのです。
だから厳しいことをいうと
自己幻想の強い人間は
常に序列の中で比較しては
自分は
未熟で愚かではない
と
思いこんでいるにすぎないのです。
そしてその自己幻想を
手厳しく
引っ剥がしてくれるのも
●他者です。
人間は残念なことに
自分で気づくことは
出来ません。
気づかせてくれるのは
他者です。
しかし究極てきには
気づくことができます。
つまり
気づくのは
他者がその人間の自己幻想を引っ剥がし
自我が墜落し
その人間がそれまでの自分を
全否定しおわった後には
様々に気づくことができます。
つまり
今までとは異なる
●全く新しい認識の世界が
現れてくるからです。
他人や社会から
完膚なきまでに
ペシャンコにされて
全否定されてこそ
それまでその人間の中に
巣食っていたネガティヴ感情や
矮小な思い込み
そして
序列の感情も
自己幻想もが
一掃されるのです。
●それまでの自分が死に
新しい自分に生まれ変わる!!
しかし厳密にいうと
それは
もとからあった
その人間の原点に戻るのだと
私は
考えています。
つまり、漱石が老師から問われた
『「父母未生以前の本来の面目如何』
(父母が生まれる前の自分はなにか?)という
父母が生まれる前の自分です。
それは
●生まれる以前の自分=生命の原点に
より近くなってくるということだと
思います。
つまり
無色透明な自分です。
その自分はひたすら真摯であり
生まれ、成長し、成熟し
そして枯れて死んでゆく
自分です。
以前ご紹介した
能勢広監督の映画「生命の誕生」では
生まれたばかりのメダカの赤ん坊は
武者震いするかのように
尾をピンピンと振って
●喜びいさんで
一心に
この世へと出発します。
人間も
生きるために
この世に生まれてくるのです。
そしてその透明な私である
自分の原点、原像には
何一つ
人間の傲慢な文字は
書かれていません。
人間は
生まれた以後
人間が創りだした社会で
矮小でネガティヴなものに
冒されていくのです。
つまり
覚醒とは
私達が
人間社会で汚れた感情や文字を
全部
振り落して、
ふたたび
新鮮で
清々しい自分を
生きなおすのです。
覚醒とは、
そういう風に
自分の不遜さや未熟さや愚かさに気づき
そして
目が覚めて
自分とは何かを
悟り
新しい自分へと
出発することなのですね。
脳的にいうと
自分の中のゴミが取れれば取れるほど
頭の中は
カランカランと軽快に
働き始めます。
また
そういうゴミが取れればれば取るほど
自分が
●注意を向けるものも、違ってくるし
神経の使い方が違ってきます。
また、ゴミがない分
短時間、短距離にそして
シンプルに物事が理解できていきます。
そして
等身大になって初めて
自分のことも
人間のことも
人間社会のこともが
等身大(実相)として
理解できてくるのです。
人間はみんな
たかが知れた存在です。
生きて見なければ
何一つ
分からない、知らないのです。
そして誰もが
愚かで
未熟で
誰もが
劣った存在なのです。
そういう自分の覚醒ができたとき
それを
●私は<地面の眼>といいます。
才能とは
そういう厳しい地面の眼=慧眼が働いて
脳が自動的に、軽快に効率よくに作動し
次から次へと
アイデアやイメージや言葉が
下りてくる(浮かんでくる)のを
才能というのだと
思います。
それも
妄想ではなく
自分という存在の確証をもち
自信にあふれ
広く、厚く、深い、眼差しの中から
生まれる
才能です。
そして
如何に
それを基に、
行動し
表現していくかでしょう。
さて
次回は
私が体験したことを
書きます。
もしこの体験がなかったら
今の私は有りません。
では
つ、づ、く!!・・・笑!


ただ今更新中です。
よかったら、読んでください。
これから
面白くて知的な記事が
どんどん更新されますよ。
乞うご期待!