作家の目、その2 |
それは<作家の目>ということで
それを考えることが私にとっても
究極の自分とはなにかの答えでもあるように
思えるからである。
それは能勢広カメラマンと村上浩康監督の映画
「流・ながれ」を見た時以来
私の頭の中で点在しているテーマでもあり
その点が一本の線として繋がり
漸く一つの文脈として成りつつある。
映画「流・ながれ」は安易に見てしまうと
絶滅危惧種の保存に取り組む
ふたりの老人の記録というように
見える。
しかし私はふたりの老人のなかでも
吉江老人がなぜ、
かくも「カワラノギク」の保護に
エネルギーを注ぎ込むかのほうに引かれた。
河原の石ころの中で
枯れそうになりながらも
踏ん張り、咲いている野菊の花に自己を投影し、
そして保護し育てる
吉江老人のその心の奥にあるものに
大変心が惹かれた。
それは吉江老人の孤の営みであり
吉江老人と花だけの
ひっそりとした二人だけの空間であり
本当は、
他者の介入を拒否した空間の営みであるかも
しれないからだ。
村上さんに聞くと
吉江老人はほとんど自分のことを
明かさなかったらしい。
そして村上さんもそこに
踏み込むことをしなかった。
だから吉江老人が
どんな人生を歩み、
そしてなぜ
<カワラノギク>に心を注いでいるのかについては
不明なのである。
ただ絶滅しそうな可憐な花に
こころとエネルギーを注ぐ
ひとりの老人がいるだけだ。
映画の中でも
吉江老人のそばには
なにひとつ俗性らしきものが
見当たらない。
髪を几帳面に七三に分け、
普通の服を着、
さらによけいな饒舌がない無口の人、
そこには折り目正しく端坐して生きる
吉江老人の姿がある。
その沈黙の中に自分を極めたかのような姿に、
私は大変惹かれた。
この人の人生に何があったのだろうか。
しかし私はそれを詮索しない。
むしろ
明かされない人生の中にこそ
個の極みの尊厳が見える。
さて今日の本題である作家の目とは
自分の属性をすべて剥ぎ取ってからやっと見えてくる
人間の原像を掴んでいるかどうかが問われれる目だと
思う。
それは極めて厳しい目であり
自分に妥協せず
自分の属性(俗性)を全部剥ぎ取らねばならない。
自分という人間の属性(俗性)を剥ぎ取った後に
何がみえてくるのであろうか。
吉江老人のように
自分と自分を投影した対象物との往来の中で
厳しく極められた<生・ヴィ>を
私も見たいと願う。
吉江老人の場合はそれが
「カワラノギク」の花であったのではないだろうか。
もう一つ
小津安二郎の映画を思いだす度に
私の中に浮かんでくる言葉があるる。
それは
「何を描いても嘘くさい」で、
もしかしたら戦争から帰還し
映画監督に復職した小津さんの中に
こんな言葉があったのではないかと
私は感じている。
この言葉は私の独断と偏見かもしれないが
彼の映画を思いだすたびに
私の中に浮かんでくる私の言葉でもある。
戦前と戦後でガラリと変わった
小津監督映画の作風の奥に、
戦争を体験した後の、
虚無の世界と戦う小津の姿を
私は見るのだが。
自分が崩落し、そのあとに
荒々と広がる虚無世界の奥に
実は人間を透徹した厳しいが、しかし
別の感動の世界がみえてくる。
それは決して大げさもなく饒舌でもなく。
ささやかに、密やかに
自分と対象物とを往来する、
小さな一筋の光のような気がする。
在りそうで、在りそうでない自分の
おぼろげないその微かな一在の光を見つめながらも
その一点に向かって
自分の<生>が収斂していく。
しかし、それが明らかになり、翻ったとき
それはその人間の核として、
確固たる存在の点として
その人間を支え尽したように思う。
私はそれを
吉江老人(映画「流・ながれ」)
鈴木喜代治カメラマン(映画「広島原爆魂の撮影メモ」)にも
見る。
そして今、私はその在り場所を探している。
微かではあるが
見えてきているような
気がする。
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