漱石も子規も、その1 |
音楽会に招待してくれた。
それはNHKの番組「映像の世紀」という番組で流された映像のバックミュージックを
映像を流しながら演奏するという
コンサートということだったらしい。
らしいというのは実は、
亀君からこの音楽会を
誘われた時、映像と音楽ということで
ろくすっぽ内容を確かめもせず、
OKの返事を出してしまった私は
てっきりドキュメンタリー映画の
映像と音楽の秀作作品を
抜粋してみるものだと思いこんでいた。
しかしコンサートが始まってびっくりした。
それはステージのオーケストラの奥のスクリーンに
歴史的な貴重なドキュメンタリーの映像が映し出される一方で
もう、どんぶり飯をひっくり返したような音楽が
大音響で演奏されだしたからだ。
何これ、という間に
その音楽はまるで、
その映像を説明するかのような傲慢さで
演奏を続けた。
そこで初めて私は
このコンサートはどうやら映像が主役ではなく
映像に音楽をつけた作曲家の
示威コンサートだということが
分かってきた。
先般「MIZUTAMA」で村上浩康監督の
インタヴューを掲載したが
その時のタイトルが
「映像世界の追体験こそ映画の核」というもので、
それは映像を通してそれぞれの観客自身に湧きおこる、
それぞれの独自性の感性、記憶、思考において
最終的にその映像の意味や価値が完成されるものであり、
そこに必要以上踏み込むことは
制作側の自己顕示でしかなくなる。
そういう意味においては
せっかくの亀君の招待であり、
さらに高額なチケットでもあり
亀君には大変申し訳ないのであるが、
この貴重な映像を音楽で邪魔され、
集中を妨げられながら
むなしく見ているより外なかった。
そして疲れた。
しかしコンサートの最後は
観客の大喝采の拍手で終わった。
恐らく観客は
映像の中にある
本来向き合わねばならない息苦しさを
この感情的な音楽で
カタルシスしてしまったと思う。
それはそれで仕方のないことだと
思いながら帰途についた。
帰途につきながら
昨日のブログで書いた
漱石のことを思いだした。
漱石もきっといつもこういう
知的世界が大衆に消費されていくことに対する焦燥に
煩わされたのではないかと
思う。
おそらく漱石もあきらめたんだね~。
この音楽がいかにも
作曲家の示威行為であることなど
分かる人の方が少ないだろう、しかし
それはそれでいいと。
つまり<知>が深まれば深まるほど
<孤>も深まるしかない。
言っても理解されないことを言っても、
仕方がないのである。
<知>の深化は、
<孤>を引き受けなければならない。
そしてそれをどう乗り越えるかを
漱石は考えつくしたと思う。
そして漱石の親友であった正岡子規も
その寝たきりの病床で考えたと思う。
帰ってきて夜、
正岡子規の「病床六尺」の
いつも読み返すところを開けて
読み返した。
それは自分の死期を目の前に
多くのことをあきらめざるを得なかった子規が到達した
覚醒でもある。
そこには漱石の覚醒と相通じる世界がある。
今日はこれまでで次回、
そのことを書いてみようと思う。
●「MIZUTAMA」が更新されました。
ドキュメンタリー映画の村上浩康監督のインタヴュー記事です。
メッチャ面白いですよ!
●海山かのんさんの漫画も
掲載されています。
北海道の人必見!!
今後の掲載予定の目次も
ご覧ください。