私は心しかもっていない。その2 |
昨日、人間の脳の宿命として
ほおっておいたら、
脳の記憶の中は嫌なことだらけになると
書きました。
心はほおっておいたら
ドンドン自己中心になり、
そこにゴミや垢がたまっていきます。
そのゴミや垢をとり除く、という意識的な自分が必要なのですね。
思えば私、自分が心しかもっていないという体験を
何度もしたように覚えています。
それは子供の頃、理不尽に親から怒られたり
罰をあたえられたり、時に折檻された時、
いつも自分に孤独感がまとわりつき、
自分が身ぐるみ剥がされて、
もう、心しかもっていない自分がそこにいたような
気がします。
でも、でもね、長い間の年月は
私は、心しかもっていない自分は、
それがいいのだと思うようになりました。
人間は心さえもっていればいいのです。
深い悲しみや深い孤独感を感じる時
そこには心しかありません。
しかし、それらがあるから
人間の心が分かってくるのです。
人間の心とは、自分の心だけではありませんよ、
他者の中にある深い<翳のこころ>もが
理解できていくのです。
それは誰もが、そしてみんなが持っている<翳のこころ>です。
人間ひとり、ひとりの中には
その人しか持っていない<翳の心>があるのです。
なぜなら、
喜びや嬉しいことは、ドンドン発散されて消えていきますが、
悲しみや絶望した時の心は、その人の中にのこっていきます。
※脳の機能として嫌だったことや
悲しいことばかりが記憶にのこります。
自分が危機を感じたことは記憶されて行きますが
残念ながら、いいことや楽しかったことは
すぐ忘れてしまうのです。
だから私は<魂>とは、自分の中にある
悲しみの記憶、絶望の記憶ではないかと考えています。
なぜなら、それこそが、その人間にしかない心の綾であり、
その人の独特の心を織り成すベース(糸)となっていると
考えたからです。
しかし、そのあと、
もう一つ魂というべきものがあることにも
気づいたのです。
それは
その悲しみや、絶望を越えていく、或は
乗り越えた時の●大きな心の輝(エランヴィタール)も
その人の魂でもあるとも
思うのですよ。
※<エランヴィタール>とは
フランスの哲学者ベルグソンの言葉で
人間の心はある出遭いや出来事によって
大きな輝きや躍動の発火をするということです。
そういう負の魂の発火と
聖(正)の魂の発火とが
その人を成長させ、深い心の綾を織っていくのだと
私は思います。
私は心しかもっていない、
しかし
私の心をもっている。
そして
自分の心の中に生まれる<自分だけの世界>
それが自分の魂であり、
その魂さえあれば、いいじゃないかと思うのですよ。
そこにこそ、自分の<存在の核>があります。
自分には自分にしかない<心の核>があり
それは、悲しみや絶望だけではなく
そこから這い上り、
輝く瞬間の寸前にいる自分です。
その核をしっかり胸に抱いて生きる。
だからね、あきらめないで、ドンドン人や物事と出会い
未知の明日を勇気を持って前進し、自分を育ててほしいのです。
自分が懸命に生きることで
その魂の世界はどんどん豊かになっていきます。
そして自分だけではなく、
皆が、だれもが、
悲しみや絶望と、そしてそれを超えていく
●魂の輝き(エランヴィタール)をもって
生きている。
そういう風に底辺で、心の奥で、
自分以外の人々と繋がっていてほしいと
私は若者に願います。
皆様ありがとうございました。
「MIZUTAMA」3号あとがきを更新いたしました。
思えば大変面白い内容であったかと思います。
読んでくださった方々に、こころより御礼申し上げます。