私は心しかもっていない。その3 |
今日は自己承認要求について書いておきます。
先日
※絶望とは、
自己承認要求が裏返った
自己執着です。
と書きました。
自己承認要求とは
・自分のことを認めてもらいたい。
・自分のことを受け入れてもらいたい
ということを
●他人や社会に要求することです。
※多くの人はその深層心理に、自分を承認してもらいたいという
欲求や願望をもっています。
本人に自覚はなくとも、無意識にそういう要求を以て
他者とかかわってしまうのです。
そして絶望とは、
・自分が受け入れられない、認められないことに
・そしてなにもかもが、自分の思い通りにに行かない時
・絶望するのです。
自分のことをわかってくれない他者や社会に
絶望するのです。
※自分のことを他者や社会にわかってもらわなくてもいいと
思っている人は絶望しません。
では、はじめに、はっきりわかりやすく、結論を言っておきましょう。
●他人や社会に、自己承認要求を求めても、それはありえません。
ありえない、というのは、そういうことは、はじめから無理であり、
叶えられないということです。
なぜなら、
人間は基本的に、
・自分のことにしか関心がありませんし、
・他人を受け入れるような大きな器も、もっていません。
他人に関心をもつのは、
・何らかの形で自分に関係がある場合や
・何らかの利益共有できる場合です。
そして誰もが、
・自分がいきることだけで、せいいっぱいであり、
・誰もが自分が承認されるを求めており、
他者を承認するのは、
・ほんの少しだけ、
・それも一瞬のことで(あとは忘れてしまいます。)
・ささやかに、
・他人への心を開いているにすぎないのです。
※私を含めて、なんと多くの人がブログを書いたり
ツイッターでつぶやいたりしているのでしょう!
それもみんな根底にある自己承認の要求の現れです。
それほど、だれもが、自分を認めてほしいのです。
しかし、不思議なことは、そういう風に自己承認を求めながら
では、だれが承認するのか、ということの考察が欠落しています。
確かにみんなは、他者のブログやツイッターを覗く、けど
では、具体的に、だれが、承認する側にまわるのでしょうかね~?
そういう面倒くさいことなど、だれがするんでしょうか、
誰もしたくないでしょ。覗くだけでしょ。
承認するのもエネルギーがいるのです・・・。
そして、ブログもツイッターも、私も含めて、書いている人は
不特定多数のだれか、まあ、正体不明の幽霊のようなものに
承認されると、錯覚しているのでしょうね~苦笑!
そして、
自分が他者に認められ、受けれられる時は
・何らかを発信し、
●結果を出した時だけです。
何らかを
・発信し、
・結果をだしたら、
その発信や結果を通して、初めて、漸く、
その人の持っている内容や、価値が形になってハッキリ見え、
それが他者(自分)にとって良いものなら
承認されいきます。
それも受け入れられる、
●ほんの一瞬のことです。
※ずーっとその人間を承認し続けるのは
依存したり、幻想化されたりしている時だけです。
例えばアイドルとかスターとか、どこかの教祖とかが
承認され続けるのは、その人達が幻想化され、依存されている間だけです。
人間にとって、親を含めた他者とは何か?
人間は、自分の脳という<カプセル>の中に閉じ込められていますから、
なかなか他人のことは、よくわからないのです。
※自分というカプセルとは、自分は、自分の脳データーを駆使して
他者のことを自分流に●推測、解釈しているだけですから
ほんとうにそうであるか、どうかはわかりえないのです。
つまり、人間とは、自分とは、ちょうどカプセルの中にいるような
状態なのです。
こころが分かり合えるというのも、幻想であり、
何かの拍子に、或は意識的に相手を理解しようとしている時に
そういうことが、断片的に起きるのです。
だからこそ
・何らかの具体的な結果が見えた時、
・あゝこの人はこういう人なんだな~と
・初めてその他者を確認するのです。
おそらく、人間の本能として、
他人に承認されたいという原始的感情があるのではないでしょうかね~。
他人に承認されることで、安心を得るというような
心理的秩序があるのではないでしょうかね~。
また、子供の成育期間が長い人間の宿命として、」
極めて小児的な欲求として
人間の親子関係が原因しているかもしれませんが・・・?
※親に認められたいという欲求が、解決されていないために、
その心理が残ってしまう。
そして、人間の深層心理として
・自分が認められたい、或は
・自分を認めさせたい、という人は
・他者からは●嫌厭されます。
なぜなら、そういう人に、自分のエネルギーを奪われるからです。
そういう人は、
●他人のエネルギーを用いて、自分の心の欠損をうめようと
するからです。
他人や社会から承認要求を得なくてもいい人は
自分で完結しており、
他者とのエネルギーの交換はあっても
他者のエネルギーを奪わなくでも十分なのです。
人間は、自立しているひとや
そういうことを求めてこない人が好かれて、
逆に受け入れられたり、認められたりするのです。
※共依存の人どうしも互いに群れますが、
しかし、それはお互いが、
他者からエネルギーを奪いたい、貰いたい者どうしの
烏合の衆でしかなく、すぐ破綻するか、
逆に執着で縛りあうという関係になっていきます。
人間は、一本の木のように
●孤として立っており、
だからこそ、自分のことは全て、
自分で賄うしかありません。
木が養分もエネルギーも、
地面に根をはって吸いあげたり、
光から光合成してエネルギーにしたりして生きるように、
人間も生きることに必要なことも、エネルギーも
自分で探し、そして、自分で生産し、
創り上げるしかないのですね。
また、そういう能力を持って生まれてくるのです。
承認されたいという
・甘えや・依存を持てば持つほど
その人は孤立し、他者は遠ざかります。
他人のそういう自我がのしかかってくると重たいし
ウザイですからね。
逆に、そんな甘えや依存なんかいらない!自力で生きちゃる!
という覚悟や、
創造的で、高い精神性をもつ人こそが
逆に承認されていくことになるのです。
それは対等の関係になるからです。
その自立した姿や、
その人が発信するオリジナルな文化やオモロイことに
他者は
●共感し、承認します。
では他者や社会から承認されなくても
どういう風に自立していくか、
何が必要であるかを
次回、書きます。
「MIZUTAMA」3号あとがきを更新いたしました。
思えば大変面白い内容であったかと思います。
読んでくださった方々に、こころより御礼申し上げます。