私は心しかもっていない。その最終回 |
「私はこころしか持っていない。」
この言葉はガラス絵作家の児玉房子さんが
ご自身の本で紹介されている言葉です。
(ガラス絵に魅せられて 児玉房子著 新日本出版社)
それは1989年のルーマニアのチャウシェスク独裁政権の
その末期に起きた政変で,
軍隊が民衆へと銃を向けた時に、
銃を向けた兵士たちにむかって、
人々から放たれたことばです。
「私たちは心しかもっていないよ。」
「私たちはあなたの敵ではない。」
「ここには敵はいない。」
と銃を向けられながら、
人々が、兵士へと語ったのです。
そしてこの時広場に集まった民衆の30人近くが
銃で撃たれて死にましたが、それは
兵士たちが撃ったのではなく、
民衆が集まっている広場の傍の高い建物から
秘密警察が乱射したものでした。
この事件の翌日に、軍隊は民衆の側につき、
チャウシェスク夫妻はヘリコプターで逃げたのです。
※その後この独裁政権は崩壊し、
チャウシェスク夫妻も
捕まって殺されました。
もし、私たち人間のすべてが手を繋ぐとしたら
この言葉しかないと、私は思います。
本来私たちは、心と体しか持っていないのです。
この事こそ、全ての人を貫徹する事実です。
そして心とは何なのでしょうかね~。
心とは理性の働きだと、私は考えています。
感情は、ほおっておいたら
そこは、悲しみや嘆きや恨みが溜まってしまいます。
しかし、その悲しみや嘆きや恨みで自分が滅びそうになるのを
そうじゃないだろ~、
楽しい時も、嬉しい時も、
そしてありがたい気持ちや、感謝に満ちたときだって
あったでしょう~と、
感情のあがきの中から、
自分を取り戻させてくれるのも心です。
心とはその時、自分が何をしなければならないかを
教えてくれるバネのようなものです。
つまり、滅びそうになる自分を跳ね返すバネです。
そして厳しいことをいいますが、
自分の心が嘆きや悲しみや恨みでいっぱいになるのは、
●その人の心が、バネをさぼっている時です。
このシリーズの最初に書きましたが、
私の脳はセキュリティとして、
自分の生命にとってヤバイことや危険なことや
危機を記憶していきますが
楽しいことや嬉しいことは、
覚えておく必要がないので
忘れてしまうのです。
でもね、それは忘れてもいいからなのです。
なぜなら、
命は<生きる>という風にシステム化されており
生きるためのベクトルを以て
私たちが<存在>しているからです。
※言い換えると、
誕生から死までのエネルギー生命脚本をもって
私たちは存在している(生きている)からです。
だからこそ、人間は自分の死さえ、コントロールできないのです。
なぜなら、ベクトルは<生>に向かってあるからです。
<生>が尽くされて、死が来ます。
生きるということは、並大抵のことではなく
特に他者との関係は本当に厄介です。
更に自分の能力を伸ばしいくには
●努力の連続が必要です。
そして
私たちが感情に呑みこまれ、エネルギーを喪失したとき、
●心をもって自己回復します。
心とは<働き>であり
その<心の働き>をサボっていると、
心の中はどんどん嘆きや悲しみや恨みの巣窟になっていくのです。
そして、これも大切なことですので、
目を凝らして、よ~く自分の心を覗いて見て欲しいのですが、
●嘆きや悲しみや恨みは、密の味(快楽)ですよ!!
心を働かせていない人の、
●人間としての甘えです。
時に、仕方なく、嘆きや悲しみや恨みに陥るのもいいでしょう。
しかし、人間は、そこで終わらない!!
人間とは、そこから再び出発するのです。
心を使って、立ち上がり,明日を生きようとする。
寂しい感情も、自立する決心や覚悟のをすれば
あまり寂しくなくなります。
なぜ人間が進化の過程で前頭葉を獲得したか。
そしてその前頭葉には、
高次に、高邁に生きようとする部位が獲得されていること。
それは人間とは、
その生命現象のベクトルは
心を使って
●生きることまっとうしておいきなさい。
という風にプログラムされているからです。
そのプログラムを生き抜いていく=人生も、
様々に思いがけない出会いと事象の中にあります。
つまり生きて見なければ、わからない未知の世界だからです。
最後に<究極の優しい感情(理性の感情)>をいつも
自分に降りそそいでください。
人生は、厄介で、面倒で、
間違いだらけ、失敗だらけ、そして自分とは
なんて愚かで、ちっぽけなんでしょう!
でも、それでいいよ!
っていう
優しい眼差しをいつも
自分に向けていることですね。
それでいいんです!
「MIZUTAMA」3号あとがきを更新いたしました。
思えば大変面白い内容であったかと思います。
読んでくださった方々に、こころより御礼申し上げます。