自分と世界を編集していく!その3 |
続きを書くことができず、すみませんでした。
やっと熱がさがり、どうにか起きることもできだしましたので
気になっいる続きを書いてみます。
ヨーロッパに旅したといっても
イタリア、フランス、スペイン、ドイツの四か国を
7回しか行っていませんので、まあその範囲内の事でと
承知しておいてください。
ヨーロッパに行くたびに思うことは
ヨーロッパの教会、特に聖堂の大きさと塔の高さです。
聖堂の中に入ると
高い天井からステンドグラスを通して光が入り、
ミサの時はパイプオルガンが鳴り響き
信者たちは神の栄光に包まれます。
聳え立つような聖堂は神の威容をしめし
さらにその中でミサの儀式こそは、
ゆるぎなき神の栄光と救いが演出されて行きます。
そしてミサの最後には、
神の国がきたらんことを祈り
そのようになりますように(アーメン)という言葉が
結ばれます。
聖堂の傍には高く、高く天まで届くような塔があり、
ここにも、天なる父(神)と結ばれようとする
人々の意志を見ます。
人々はひたすら天を仰ぎ、天成る世界を望みます。
キリスト教は神と個人との契約であり、
神は王よりも偉く、そしてすべてを超越して
この世を支配する存在でもあります。
そしてキリスト教の規範を基に
ヨーロッパの歴史は展開されました。
にもかかわらず、ヨーロッパの各地に
たくさんの教会があるのは、まさにそこが
神の意志とは反対に、
激しく権力を争って戦った歴史であったことの
証でもあると私は思いますが・・・。
それに比べ仏教は人々は縁により結ばれ、
その縁によって世間が現象化し、更に生きることは
もともと苦であり、人生は思いどりにはならない。
そしていかにその苦から逃れるために、
人間の本質を見極め、悟ることを説いていきます。
そこにイメージされているのは個人ではなく、
抽象化された人間像が原型となっています。
イタリアのフィレツェへ行った時
息子と一緒にその高い塔へのぼりました。
息を切らしながらやっと登り切ったその先には
俯瞰して眺めるフィレンツェの町が一望のもとあり、
その先には青い青い空がありました。
それが塔から見える下界と天界です。
神が天からその下界を見下ろし、見渡しているというような
感じです。
その時私が思ったことは、
この風景はなにか私たちとは違うという
違和感でした。
すぐ浮かんだのは、日本の寺院や神社です。
日本の寺の屋根はヨーロッパの聖堂より
格段に低く、
さらに
その屋根の稜線はなだらかに広くゆるやかで、
庇は風雨から人間を守るように屋根の先に延びています。
寺そのものが人間威圧するのではなく、
弱い者をを包み込むような形(姿)としてある。
それは全ての人間を救うと祈願をした阿弥陀如来の
誰をも拒まず,無条件に
苦しむ者をすべて包み込み、懐に入れるという思想が
そのまま表されているように私は思いました。
まあこれも私の思い込ですが・・・。
仏教は紀元前4世紀ごろに生まれますが、
その後紀元前1世紀から紀元2~3世紀ごろに
様々に修正や書き加えが起きて今の仏教の
基になります。
その時仏教をもっとわかりやすくして
布教するために、仏像が創造されて行きました。
法華経などには天から光が来たり
飛行船に乗って阿弥陀様などが
下りてきますが、それは別に天を希求するものではなく
むしろこの世にとどまり、いっさいの苦からの因縁から
解脱することを説き、その苦を掬うという物語としてあります。
だから、あくまでも舞台は現実であり、この地であり
天ではないのです。
ただ、砂漠で生まれたキリスト教の方が
厳しい生き方を突き付けてくるのは当然であり、
農耕文化の中で生まれた日本の仏教や新道が、
集団的であり、優しいのかもしれませんし、
日本人の宗教観はどちらかというと
曖昧です。
どちらがいいというのではありません。
ただ、そういうヨーロッパの風土と
日本の風土とは決定的な違いがあると
私は痛切に感じてしまったのです。
日本という国は、西欧とは全くちがうカテゴリーの中にあり、
そういう違いは、単に宗教観だけでなく、
様々のデティールにおいて違うであろうこと。
その違いは、双方の無意識の中に刷り込まれており
意識しないうちに違う世界をいきている。
のにもかかわらず、
いつも間にか西洋化に突き進んでしまった日本人は、
おそらくそういう違いの重大性にも気づかず、
勝手に、西洋人と自分達との混同をしてしまっているのではないかと
思えるのです。
そんなことはない、自分たちは西洋人と日本人の違いなど
自明であり、わかっているという人もおられるでしょうが、
私は決定的に違うのは、
その自我のあり方がまず、違うと思います。
※自我とは自分の頭の中を去来するあれこれです。
神と個人との契約の中を生きるには
常にその個人の意志が神によって、相対化され、
試され洗われることになります。
つまり宗教と個人とがストレートなのです。
はたして日本人は、そんな意識はあるのでしょうか。
日本人は自己を相対化させる絶対的なものをもっているのだろうか?
おそらく違うな~と思ったのは
西欧の教会は建物がそのまま外へと向いていますが
日本の寺院や神社には、必ず庭やプロムナードの木々の道が
ついています。
そして教会はその中に入り祈るのですが
日本の寺院は、本堂やお宮の外で祈ります。
もしかしたら、西欧の人々と神は赤裸々に一体化しているのに比べ
日本人は、自然も含めて、自分を宗教化させているのではないか。
つまり日本人は西欧の人に比べ、絶対的なものや事に対しては
醒めているのかもしれませんね。
つまり
西欧の人間と神との結びつきやストレートなのに比べ、
日本人と大いなる宗教に出現する仏像たちとは
距離があるように思います。
さて
19世紀~20世紀は世界の距離を一気に短くしてしまいました。
そして21世紀の今はもっと距離が短くなってしまいました。
まるで世界や隣国がそこにあるような近さです。
でも、もしかしたら、本当は
距離は遠いのかもしれません。
そして
その距離の遠さを錯覚してしまっていることが
なにか大きなもの、大切なものを見落としているような気がするのです。
本当は大きな違いある。
しかしその違いを認識せずに、或は
認識できずにいる日本。
逆にいうと、その大きな違いを認識し、自覚した時に
日本にも日本人にも自信が生まれるような気がします。
ハッキリと、
日本はヨーロッパの国々とは、違います。
勿論アメリカとも大いに違い
中国とも
他のアジアの諸国とも
違います。
しかし
だからこそ、そこに意味があり、価値があり、そして
方法がある。
日本は北朝鮮と戦争をしようなどとは毛ほども思っていないこと。
さらに世界のどの国をも侵略しないこと。
そして
どんどんスパイラルになっていく資本主義の中で
捨ててきたこと、失ってきたこと、置き去りにしてきたことの中に
もしかしたら、とても大切なものがあったかもしれません。
それが何であるのかは、私にもわからないのですが、
尖って天をめざす塔ではない
大きな威圧と栄光でもない。
もっと
小さくて
ささやかなものを
日本人が思い出すことではないかと
思います。
それはなだらかでゆるやかなお寺の屋根の稜線のような
そんなものではないかと
思うのですが。
皆様ありがとうございました。
「MIZUTAMA」3号あとがきを更新いたしました。
思えば大変面白い内容であったかと思います。
読んでくださった方々に、こころより御礼申し上げます。