美しいものは、日々の中に!その2、芸術は間抜け・・・? |
技術的なことはともかくとしても、
誰も描けなかったような世界や異形の世界、
既成観念を突き破るような世界や
さらに深層深く追及されたものや
現代を厳しく映し出すものなど
その内容の厳しさが問われますが、
しかし実はそれらの根底にあるのは
まぎれもなく、
その人間が生きている日々の現実です。
ただ、作品が透きとおってゆくには、
そしてある普遍性まで達するには
その厳しい日常における格闘や確執を
●光で透過していかないと
その濁りがそのまま作品に出てしまいます。
※光とは自分の中の闇も濁りも光の中にさらすということです。
そしてもう一つ芸術には大きな要素があり、
それは、
完全ではない、或は完璧ではない、と
いうことです。
完全とか、完璧というのは
もう神経症、或は狂気の世界となります。
人間は決して完全ではないし、完璧ではないのです。
だからこそ、作品に風が吹くのです。作品が息吹くとも言います。
つまり、徹底的にやりつくさない、のです。
どこかふう~っという余裕というか、間というか
そういうものがとても大事なのですね。
追及するけれど、ここが終わり時、〆時だな~っていうところで
筆をおく、或は終わりにするのです。
完ぺきではない人間、完全ではない人間だからこそ
どこかにスキがあり、つまり
どこか間抜けなのが人間ですからね~笑!
間が抜けている、或は完ぺきではないから、こそ
次へと繋がる!!
そしてその不完全さの中にこそ
ユーモアがあり、諧謔があり、そして郷愁や、面影があって
そこに何となく、人々が共感したり、共響したりするのですね。
私などは、完璧や完全を追及するその執拗さに、引いてしまいます。
そして、
難解な作品でも、優れた作品にはどこかユーモアがあったり
それが何となくの包容力になるから、人々は
理解できなくても、感心したり、首をかしげたりして反応するのですね。
幼い頃、私を芸術家にするために、両親は私をコンサートや
美術展に連れ歩きました。
子供の頃から訳も分からず、
ず~っとそういう両親の<魔女の呪い>にかかってしまった私は
ほゞ、人生を芸術とは何かということに費やしたと思います。
でも70歳を超えてやっと芸術とはなにかが
みえてきたように思います。
芸術は紛れもなく、私たちの日々の暮らしの中にある、
或は潜む、ものが、
美しいのです。
ごくごく何気ない数々のファクターが、フォルムが、
線がそして色が、
舞い、踊り、ジャンプし、交叉し、混合し、同化しながら
或るとき、作家の感性と思想の中に収斂して、作品となる。
作品は人々の、なにげない生活のミクロコスモスでもあり
マクロに突出した悲しみと懊悩でもあると
思います。
だからこそ、いかにも人間が作り出す間抜けでとんまな世界で
いいのです。
次回はその作品の前でうなだれたわたしのことから、
書いてみようと思います。
皆様ありがとうございました。
今、4号に向けて準備中です。
どうぞご期待ください。