美しいものは、日々の中に!その3、いかなるものも美しい! |
今も彼の画集を見ると、音のない静かな無機的な孤独の中で
満たされます。
感情が躍らない、
孤高の自分だけの世界がそこにあるようで、
その絵と自己世界が連動して時空を超えていきます。
ワイエスは、アーリーアメリカンの社会の底辺のしかも、
誰も振り返らないようなところで生きている人々を描いていて、
しかしその人々が美しいです。
残念ながらもう廃館になってしまいましたが、
秩父にワイエスをコレクションした個人の美術館がありました。
そこには何度も何度も足を運んで見にゆきました。
その美術館ではほかにもコレクションした絵が展示してあり、
その中に、スーチンの子供の絵がありました。
その絵を見たとき私の中に、震えるような悲しみが、
走り抜けていきました。
スーチンの醜く歪んだ線で、顔も体も痛々しく、
そこに棒立ちしている子供はまさに、私自身でもありました。
呆けたように突っ立ち、
どう生きたらいいのかわからない子供は、
そのまま私であり、私のインナーチャイルドであり、
感情にならない悲しみで、たっているしかない子供です。
それでも親を思い周囲を思ういたいけな子供です。
まるで私そのものであるその絵と、
黙ってむきあうしかありませんでした。
おそらく芸術というのは、
そういう出遭いではないのでしょうかね~。
自分の過去の記憶の一瞬や一断片が、
その作品と連鎖して心を捉え、巡るとき、
その人間(私)の存在(魂)そのものが現出される。
自分の日常の被膜の下で封印されていたものが
一瞬にして溶かれ、時に突き付けられ、光の中に出される。
そこに追憶があり、痛みがあり、しかしその一瞬に風が吹いた時、
心がさっと洗われる。
そういうカタルシスを芸術はもっているのだと
思います。
たとえ、 醜くとも、汚くとも、おぞましくとも
光の中に姿を現したその一瞬のうちに、浄化され、癒されてゆく。
その高次の感情が作動した時、
いかなるものも、美しいのです。
芸術の根源には日常があり、
さらに刻々と変化する日常の凡庸すべてが
大きな宇宙時計のその微かなる一瞬のその人生こそ
人間の浅はかな私心をこえて、尊く、美しいのではないでしょうかね~。
ウエブマガジン【MIZUTAMA】より、
皆様ありがとうございました。
今、4号に向けて準備中です。
どうぞご期待ください。
40代の頃に、セゾン美術館でワイエスの『編んだ髪』と云う絵を見て、心から惹かれ、絵があると聞くと出かけて行って見ました。秩父も。
言葉にするのは難しいけど、ワイエスの見ているせかいを感じる事で安心できるような?
聞かれるとワイエスと言っていたけど、今日好きだと言ってもらって心底うれしかったです。